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DOUBT
2008年/アメリカ/105分 at:梅田ガーデンシネマ <ネタバレしてるかも…> 監督: ジョン・パトリック・シャンリー 時代は、前年にはアメリカのみならず世界中に衝撃が走ったケネディ大統領の暗殺があった1964年。 第二次大戦という大きな戦争は世界情勢を大きく塗り替え、時代は新しく若い風を求めていた。 そしてアメリカ国民は若きジョン・F・ケネディを大統領に選出した。 新しい自由な価値観が、権威主義とも捉えられる旧態然としたそれまでの価値観を打ち破り、乗越えようとしていた。英米を中心にカウンター・カルチャアーが生まれ、ロックが生まれ、反戦運動が生まれ、公民権運動が高まり、新しい動きを封じ込めようとする動きもあり、暗殺が相次ぎ…1960年代という時代は、まさに激動と変革の真っ只中にあったといえる。 ニューヨークのブロンクスにあるカトリック学校においても、校長であるシスター・アロイシスと、新しい風を吹き込もうと図るフリン神父は、まさに新旧の価値観の対立の構図といっていいだろう。 シスターたちの粛々とした、物音一つたてるのも憚れるような夕食の席に対し、フリン神父の快活なお喋りで和やかな笑いに満ちた神父たちの夕食の席のこの違い。 お茶に砂糖を3つもいれ、煙草を好み、ボールペンを使い、にこやかに生徒たちに接するフリン神父は、シスター・アロイシスから見れば堕落であり、教会の威厳と規律を乱すものと映ったことだろう。 ミサの席や教室内での子どもたちのお喋りや勝手な振る舞いは、フリン神父が運んできた悪しき風。 この映画では、風、と言うより嵐に近い大風のシーンが何度か登場するが、「風」は物語の重要なメタファーとしてあるだろう。 激しい風で落ちてきた木の枝で、視力の低下した老シスターが転んで怪我をし、 フリン神父にとっては風は革新を意味し、 シスター・アロイシスにとっては、今ある秩序ある世界をかき乱し、崩壊させ、自分たちを追いやり、傷つけるもの。 シスター・アロイシスは、自分たちが粛々と築き上げてきた一糸乱れぬ世界を守ろうと、吹き荒れる嵐に抗って必死に闘っていたのだろう。 それはフリン神父にとっては人間性を抑圧する悪しき権威主義であり、官僚主義として改革すべき空気であり、それを行使するシスター・アロイシスの言動をシニカルな眼で見つめていた。 映画タイトルにもなっている「DOUBT」 疑惑という切り口でこの作品を語る視線もあるだろう。 しかし私が強く感じたのは、ミラー夫人と別れた後、落ち葉を舞い上がらせ吹き荒れる風の中で、その風を全身に感じながら立ち尽くすシスター・アロイシスをみて、時代の大きな潮流、それが自分たちが生きる拠り所としていた精神の基盤が足元から崩されていくという不安と怖れを彼女自身が誰よりも強く抱いていただろうということ。 シスター・アロイシスの世界は、校長を努めているカトリック学校とそこにいるシスターたちとの生活。それが彼女の世界の全てであり、守るべき世界だったろう。 そんなシスター・アロイシスを通して人間の弱さと憐れを感じた。 悪しき芽(=フリン神父)は摘み取って、厳粛なこの世界から追放しなければ……。 そんなところに新米のシスター・ジェイムズの口からでてきたフリン神父と一人の黒人生徒との不可解な親密さ。 守ろうとするべき方向が違えば、人はここまで乖離し歪んでしまうのだろうか。 シスター・アロイシスも家族ともいえるシスターたちを守ろうと自ら防御壁となることも厭わず、彼女たちを愛している。 フリン神父も黒人少年の抱えている問題を知った上で、彼を守ろうとしている。 ラストでシスター・ジェイムズの前で、シスター・アロイシスが嗚咽と共に胸から搾り出すように、堰を切ったように出された言葉…。そんなシーンを、そんなシスター・アロイシスを見ていて、先日観たサマセット・モーム原作の映画化「雨」でサディ演じるジョーン・クロフォードが「世界中の誰もが憐れなのよ」と言い放ったその憐れさと重なる。 フリン神父が学校を去った一つには、彼が疑惑を認めたからではなく、そんなシスター・アロイシスに喩えようのない憐れさを感じたからかもしれない。 「欲望という名の電車」でビビアン・リー演じたブランチが、時代に取り残されてもなお、没落した家柄の誇りを虚栄に抱き続け、精神が破綻するに至った、そんな悲哀をシスター・アロイシスに見出す。 アロイシスもまた時代の波に飲み込まれ消え行くものに必死にしがみつきながら年老いていくのだろう。 木の葉に巻かれ一人風の中に立つ彼女の姿が、今更ながらとても無力で哀しい存在に思えてくる。 その哀しみさえも、彼女は戦いの対象として抗っているのだろう。 戦争で愛する夫を亡くし、喪うことの悲哀を味わったシスター・アロイシス。 その痛みが彼女を修道院に向わせたのだろう。 それゆえでもあるだろう。自分の愛するものを守るため城塞を築こうとしたシスター・アロイシス。 時代の潮流に向かって、教会の権威主義的な抑圧と差別から愛するものを解き放とうと考えるフリア神父。しかし彼もまた理想と政治が渦巻く現実の狭間で葛藤することだろう。 そして現実の泥に塗れようが捨て身で愛する息子を守ろうとするミラー夫人。 それぞれに愛するものを守ろうとする思いは同じなのだけれど、世界観と手段と方向が違えば、これほどまでに通じ合わなくなり、敵対する関係にもなり、残酷で陰湿なものになってしまうのだろう。 本作の監督であるジョン・パトリック・シャンリーは、ピューリッツァー賞戯曲部門、トニー賞演劇作品賞等を受賞した戯曲『ダウト~疑いをめぐる寓話』の執筆者でもある。彼はイラク戦争のニュースを見ていて「この戦争には根拠がない、宗教と同じではないか」と思い、この戯曲の構想を練ったそうだ。 そしてエイミー・アダムスが演じた新米シスターのジェイムズ。 彼女は、規則に忠実で、信仰心が厚く、健気で心優しき人間と世間では映るだろう。けれど、自分の物差しを持たぬ者の愚かさと付和雷同さをここで露呈させている。信頼できるようにみえて、真っ先に裏切る人間だろう。裏切っているという自覚すらないままに…。 「DOUBT」が登場人物たちの内面、「人間」というこの思考と感情と言語をもつがゆえに厄介な生き物をくっきりと浮かび上がらせる。それぞれの側から観たら、また違った受け止め方ができるんではないだろうか。 この映画、公開初日は旅行で観れなかったので、11日の水曜日映画の日に仕事帰りに観に行った。そのせいでしょうか。 フリン神父に対する疑惑が浮かび上がり、シスター・アロイシスとの息詰まる対立ドラマが展開するにつれ、静かな睡魔に悩まされてしまった。人間の原罪にも関わるようなテーマで、緊張感が映像から漂ってきて、本来ならば、静かなドラマであってもアドレナリンがじわじわと分泌され脳細胞と視神経が冴えてくるはずなんだけれど…… 確かにフリン神父役のフィリップ・シーモア・ホフマンと、シスター・アロイシス役のメリル・ストリープの、どちらも演技では高く評価されている二人が見せる、含みのある台詞と演技はさすが!と思わせた。 とりわけシスター・アロイシスの登場でみせたメリル・ストリープは秀逸。 二人の素晴らしい演技を前に、しかし依然消えぬ我が睡魔はなんだろう? って考える <こっから蛇足です> 観客に向かって広がり、観客と舞台との間に遮るものがない舞台という空間と、四角い枠に収められスクリーンによって遮られた映画という空間。 シャンリー監督は戯曲を完成させたときから既に映画化を考えていたという。舞台では出来ない、映画だからこそ表現できる映像。 メタファーとしての「風」の映像表現などは、まさに映画ならではだろう。 舞台が生み出す緊張感と、映像から伝わる緊張感の表現とは違うものだろう。そんな舞台と映画との演出感覚の違いかなとも思ったりする。そんなこととか、若干睡魔がショートさせた部分もあるみたいだから翌日もう一度この映画を仕事帰りに観に行った。 視神経が冴えるところまで行かなかったけれど、前日の睡魔はやはり前の晩の睡眠不足もたたっていたのでしょう。しっかりと観れました。一瞬途切れた部分も確認できたけど、さほど問題はなかったので一回目鑑賞の感想のまま記事アップ。
by mchouette
| 2009-03-12 22:16
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