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![]() フランシス・フォード・コッポラの名を不動のものにし、マーロン・ブランドは圧倒的な存在感をみせつけ、当時無名に近い存在だったアル・パチーノやロバート・デ・ニーロさらにはロバート・デュヴァルを一気にスターダムにのし上げた「ゴッド・ファーザー3部作」 「The Godfather」(1972年) 「The Godfather Part II」(1974年) 「The Godfather Part III」 (1990年) 原作はマリオ・プーゾの小説「ゴッドファーザー」。 脚本はシリーズ全作を通して監督であるコッポラと原作者マリオ・プーゾが執筆している。 20世紀初頭、両親と兄を地元マフィアに殺された9歳のヴィトーは追われるようにイタリア・シチリアの寒村を脱出し、たった一人海を渡り新天地アメリカにやってきた。 一代でコルレオーネ・ファミリーという闇黒街の帝国を築き上げ、ドンの座はヴィトーから息子マイケルへと受け継がれ、アル・パチーノが演じるマイケルを主軸に、コルレオーネ村出身のイタリア系移民家族の壮大なる一大叙事詩ともいえる本作。 それぞれ劇場鑑賞しており、その後も何度かテレビ放映されるたびに観ていて、先日も、NHK・BSで三夜連続放映され、数年ぶりにシリーズを通して鑑賞した。最近短期間だけれど、デジタル・リマスター版で劇場公開されていたけれど、デジタルの妙に鮮明な映像は、どうだろう?という思いもあり、これは観に行かなかった。 ![]() 時代の流れと共にマフィアの資金源は賭博から麻薬へと移っていき、勢力圏を巡る策謀、駆け引き、裏切り、報復といった抗争絵巻が繰り広げられる、そんなドラマの内側で、コルレオーネ家の愛と確執の人間模様が色濃く描き出されている。 同胞や家族を守るため、絆を掟に、アメリカでファミリーを築き上げようとした若き日のヴィトーの時代は、一枚の絨毯に幸福を感じ、そして「家族」が何よりの幸福であり、「愛」の形が素直に見えていた時代だった。 第二次大戦後、世界経済はアメリカを中心に急成長する中で、闇黒街にあっては新興勢力の台頭によってマフィアの抗争もさらに激化し、社会にあっては人々の価値観は家族から個人主義へと変化していく。 そんな時代背景で、ドンであるヴィトー・コルレオーネが銃弾を浴び重体に陥った。 家業を嫌い、ファミリーの一員であることに反撥し続けてきた三男マイケルが、重体に陥った父を守るため、ファミリーをまもるため、図らずも殺人に手を染めることに。さらにコルレオーネ家の長男ソニーも射殺され、ファミリーの命運は一気にマイケルの双肩にかかってきた。 コルレオーネ帝国を父から引き継いだ二代目マイケルの苦難の道が始まる。 堅気の世界に身をおいていたマイケルを、家族の絆が再びファミリーに引戻し、ファミリーを守り存続させるというドンとしての責任、そして愛するケイや子どもたちと幸福な家庭を築いていこうとする一人の男としての責任。 常に家族の愛と共にファミリーがあった父ヴィトーの時代と対照的に、ファミリーと家族の距離、マイケルとの距離がどんどん広がり、守ろうともがくほど、大切にしたいと思っていた愛がマイケルの手から滑り落ちていく。蟻が入り込む隙間さえ許さないマイケルの頑なさか、2代目が味わう受難だろうか。 大きな体躯で包容力と威圧感でファミリーに君臨し、許すことも知っていたマーロン・ブランドのドンに対し、マイケルは頭脳で自らを律し、動いていくタイプだろう。冷徹な計算と情を斬り捨てる非情さで、ファミリーをさらに強固なものにしていこうとする。 マーロン・ブランドと対照的な小柄なアル・パチーノの体躯と、しかしマーロン・ブランドにも似た鋭い眼光が、そんなマイケルをさらに際立たせる。 父の遺伝子を受け継ぎ、父を踏襲しようとしつつも、時代が彼を父とは違う道を歩かせる。 そして頑ななまでのマイケルの内にも、長男ソニーの激しい気性と情の熱さ、次兄フレドの優しさという、父から受け継いだDNAは刻み込まれている。頭で心を律してきたマイケルの悲劇だろう。 ![]() ヴィトーからマイケルへ、無一文の移民からスタートしたコルレオーネ家の繁栄と栄光という一つの時代が静かに後退し、そしてソニーの私生児ヴィンセントが新しいドンの座に座る。コルレオーネの血を引きながらもファミリーにはなれず街のチンピラとして生きてきた彼は、何も持たなかった若き日のヴィトーが力を求めたように、家族のために力が欲しいとヴィンセントはマイケルに断言する。歴史は飽くことなく繰り返されるのだろう。 ローマ帝国の軍団を手本に、ヴィトーはファミリーを築き上げてきたという。 最強を誇ったローマ帝国も、内部から崩壊していった。 ヴィトーの時代にファミリーの重鎮だったフランクをトムが訪ね、このローマ帝国の話を言葉少なく交わす。皇帝に謀反を起したものにも救いはあると。自害すれば家族の安全は守れるという救いの道。フランクはバスタブで手首を切って自害した。 最終章「パート3」は、自宅の庭で一人椅子に座るマイケルは突然の発作で、誰にも見取られず死んでいく。 哀愁を帯びたニーノ・ロータのメロディが、そんなマイケルを静かに葬る。 21世紀に入ってからの世界不況の中で本作を観ると、20世紀後半の世界をリードしてきたアメリカという国が築き上げてきた一つの時代の終焉をも感じさせる。 コッポラは「ゴッドファーザー」、そして「地獄の黙示録」を通して、20世紀とりわけ第二次大戦以降のアメリカ社会の内面を描ききったといえるだろう。そしてマイケルを通して現代社会が抱える苦悩と孤独、疎外感を描ききったといえるだろう。 観るたびに新しい見ごたえを感じ、卓越した映像感覚といい、フランシス・フォード・コッポラの映画作家としての抜きん出た才能を感じる。 そして、コルレオーネ一家の内面を静かに照らすように流れ、彼らの魂はいつも故郷シチリアにあることを思わせるニノ・ロータの哀愁を帯びたメロディが、一大叙事詩ともいえるこの作品に、抒情詩としての深みを与えている。 ![]() 3作品を通してラストシーンはとりわけ素晴らしいと思う。 「パート1」では、妻ケイ(ダイアン・キートン)の前でゆっくりと書斎のドアが閉められるラスト・シーンは、悲劇の幕明けともいえるマイケルの受難を感じさせる印象的なシーンで、このシーンで、続編の公開を大いに待ち焦がれたものだ。 そして「パート2」では、一人庭で過去を回想するマイケルがいた。ケイと出会う前のファミリーに反発していた大学生だったマイケルが父親の誕生日を祝うために子供たちが集まった場で海兵隊に志願したことを打ち明ける。そんな過去の一コマを思い出すマイケルの苦渋の顔は、人生に疲れた一人の中年の男の姿だった。「パート1」で見せた頑ななマイケルの姿はなかった。 連続してみるとそんなマイケルの姿を写したラストシーンはさらに痛ましい。 家庭を顧みず企業戦士として熾烈な競争社会を生き抜いてきた一人の男が、ふと顧みると孤独だけが残されていた。そんな姿と重なる。 そうした作品の内容もさることながら、この作品の大きな魅力は役者たちの素晴らしい演技。 マーロン・ブランドのこの存在感ある演技! そしてアル・パチーノはやっぱり凄いわ! ロバート・デ・ニーロ凄いわ! ロバート・デュヴァルも凄いわ! となる。 彼らだけでなく、とりわけパート1、パート2に登場する役者たちそれぞれが、「場の空気を読む」そんな緊張感のある演技をそれぞれにみせていて、出番の少ない人物のキャラクターまでもが読み取れるほどに彼等それぞれがみせる個性が、映像をさらにリアルで深みのある物にしている。 コッポラの演出もさることながら、役者の演技の質の高さだろう。 成長したマイケルの子どもたちの時代となっていく「パート3」をみると、役者たちからたちこめる空気が映像に緊張感をもたらしていた「パート1」「パート2」にくらべると、16年の年月の間に、役者の演技の質も随分と低下したものだと思う。 「パート3」では長男ソニーの私生児ヴィンセントが登場するが、父親の気質を多分に受け継いだキャラクターをアンディ・ガルシアが演じているが、短気で明るくて家族思いで、直情型とも言えるソニーを演じたジェームズ・カーンの、非情に繊細な表現で、見事にソニー像をつくり上げたその演技に比べると、ガルシアの突っ立てるだけのあらあらの演技が、こうして連続して干渉すると余計に目についてしまう。 ![]() コッポラはヴィンセント役を甥であるニコラス・ケイジにもっていったが、コッポラの甥というところから抜け出したかったケイジはこの役を断ったとか、どっかで読んだ記憶がある。(違っていたらゴメン) 父ヴィトーの後を継ぎドンとなるマイケルを演じたアル・パチーノ。 ![]() その前にも「ナタリーの朝」や「哀しみの街角」などでとてもナイーブで素晴らしい演技をしていた彼だが、まだまだ無名に近い存在。製作者側はマイケル役にはロバート・レッドフォードを起用したがっていたそうだが、コッポラがアル・パチーノ起用を一歩も譲らず、揉めに揉めたそうだが、パート1でアル・パチーノが見せた演技は見事。 ファミリーに父に反撥し、僕の人生を主張し、ファミリーと距離を置いていた初々しさの残るマイケルが、父の生命を守るためファミリーの一員として殺しに手を染め、皮肉にも兄弟のなかでドンの正統なる継承者としての資質を持ったマイケルへと、その顔つきまでも変貌させていく、その演技は、「さすが!」というほかない。 初めて殺しに手を染めるレストランのシーンでのアル・パチーノの表情も秀逸。 引き金を引けば、今までの堅気の世界には戻れない。ファミリーの一員として生きていかなければならない。彼らを殺さなければパパは殺される……様々な声が脳裡を駆け巡り、心臓が早鐘のように高鳴り、耳の奥でドクドクと流れる血液の音までもが聞こえてきそうな……アル・パチーノの表情! ![]() 「パート1」では、敵対マフィアの銃弾に倒れ病院に運ばれたヴィトー。 警部は敵対マフィアに買収されており、警護の人間は追い払われ、病院のベッドで無防備な状態に置かれている父親ヴィトーをマイケルは守り抜く。 「僕がいるよ。もう大丈夫だよ。僕がパパを守る。」そう言ってヴィトーの手にキスをするマイケル。それはファミリーの一員としてドンへの忠誠を誓うキスでもあっただろう。 息子の愛に身動きの出来ないヴィトーの口が微かに微笑み、目から一筋の涙が流れる。 このシーンでは思わず涙ぐんでしまった。 「パート2」でも9歳のヴィトーや、船に乗って新天地を求めてアメリカへやってきた移民たちが、真っ先に目にするのが「自由の女神」。故郷シチリアを追われたヴィトーの境遇と重なり、こんなシーンでも思わず目頭が熱くなる。 「パート1」のマーロン・ブランドから受け継ぎ若き日のヴィトーを演じたロバート・デ・ニーロ。 ![]() しゃがれ声を似せ、テーブルについて話すときの手の仕草、子供を愛おしむときの表情など、そして威圧感と優しさをみせる目の表情などなど……。彼の地味ともみえる演技も、見るたびにだんだんと味の深みが見えてくる。 彼は長男ソニー役のオーディションを受けており、その演技にコッポラが着目し若き日のヴィトー役の起用となったそうだ。 パート1.2でコルレオーネ一家の専属弁護士トム・ヘイゲンを演じたロバート・デュヴァル。 ![]() 孤児だった彼がヴィトーに拾われヴィトーの傍らに常に控え、忠実かつ有能な相談役として沈着冷静に、確実にことを押さえていくトムの動きも実に見事。この作品を企業のトップが見ていたならば、トムのよう人物を側近においておきたいと切に願ったことだろう。 この方が「地獄の黙示録」では狂気じみたキルゴア中佐役(写真・下)とは、今もってどう重ねても重ならない。 「パート3」ではマイケルとトムとの確執を描いた内容だったが、ギャラがあわずデュヴァルが降板したため、急遽ヴァチカンを舞台にした内容に変更したそうだ。 ![]() 「パート1」.「パート2」ではこれ以外にはないというほどの見事なキャスティングをみせたコッポラだったけれど、「パート3」では、見慣れたとはいえ、娘メアリー役のソフィア・コッポラの違和感はぬぐえない。劇場で観たときはこの場違いな雰囲気に映画鑑賞がずいぶんと邪魔された。アル・パチーノとダイアン・キートンからなんでこんな顔の娘が出てくるんだとマジに考えてしまった。 当初はウィノナ・ライダーを予定していたそうだ。世の中の濁りや疑うことを知らない、センシティブで心優しいお嬢様のこの役は実態はともかくとしてウィノナ・ライダーだろう。 とはいうものの、「パート3」でオペラ劇場の階段で、マイケルを狙った銃弾が誤ってメアリーを撃ち殺し、マイケルの前で倒れた娘を抱きかかえ、声の限りに泣き叫ぶシーンでは思わず涙ぐんでしまった。 劇場で見た時は、この異様なまでのアル・パチーノのオーバーを通り越した演技に、悲劇よりも唖然としたと記憶しているが、今見ると、これまで頑なに感情を封じ込めてきたマイケルが、初めて人目はばからずに感情を出したこのシーンに、それまでのマイケルの心情が痛いほどにわかる。 自分の手に最後に残されたかけがえのない「愛」だったメアリーまでも、ドンとして生きたために喪ってしまった。自分とファミリーを裏切った実の兄フレドを葬り去った報いなのだろうか。 役者不足のトーンダウンは否めないものの、一つの時代のカンマとして、ある意味「パート3」は20世紀という時代を締めくくるべく重要な章ともいえるだろう。 そして、アメリカという国の繁栄と栄光の時代の終焉を予感させるようなそんな印象さえもってしまう。 「ゴッドファーザ 三部作」 濃厚な油絵の大作を見るようなコッポラの奥行の深さのある映像の美しさ。 20世紀を描いた、20世紀を代表する作品だろう。 今週末から公開されるコッポラのほぼ10年ぶりの監督作品「コッポラの胡蝶の夢」。
by mchouette
| 2009-02-20 00:00
| ■映画
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