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KIN-DZA-DZA!
1986年/ソ連/134分 at:シネ・ヌーヴォ 監督: ゲオルギー・ダネリア 脚本: レヴァス・カブリアゼ/ゲオルギー・ダネリア 撮影: パーヴェル・レーベシェフ 音楽: ギア・カンチュリ 出演: スタニスラフ・リュブシン/エフゲニー・レオーノフ 妻に頼まれた街に買い物に来たウラジミールは、ゲテバンというバイオリンをもった青年から声をかけられた。あそこに異星人と名乗る男がいるけれど裸足で可哀想だ、どうしようか? そこで二人は異星人なる男に声をかけ、半信半疑のウラジミールはその男の制止を無視して彼の持っていたテレポートなる装置のボタンを押した。その瞬間、ウラジミールとゲテバンは見渡す限り砂だらけのど真ん中に立っていた。 「あの男の言っていた異星かも?」「いや、砂漠だ。そういうことにしておこう。 と言ったものの、空から降り立ったスクラップの塊のような物体、そしてそこから降りてきたむさくるしい二人の男が「クー」と発しながらする奇妙なポーズ。 彼らはそこが地球から遠く離れたキン・ザ・ザ星雲の砂漠の惑星プリュクであることを思い知る。そんな二人の地球に戻るまでのプリュク惑星での苦難(?)の旅を、なんともユル~リとしたテンポで描かれている。 プリュク惑星には人種差別の厳しい掟があって、チャトル人が支配していて、パッツ人やそれ以外の人種はみな抑圧されている。 二つの人種の違いは識別器を使って区別され、チャトル人に対しては儀礼の言葉「クー」を2回言わないとだめで、儀礼を怠ると「エツィロップ」と呼ばれる警官たちの攻撃を受ける。この「エツィロップ」は武器を使ってパッツ人を弾圧し、我が物顔にプリュク惑星をのさばっており、人々にとっては恐怖の存在である。 プリュ惑星で使われる言語は基本的に2つで、礼儀を示す「クー」と、それ以外の言葉「キュー」。そして彼等には英語もフランス語もグルジア語も通じないが、なぜかロシア語を解する。英語やフランス語で彼等との対話を試みたゲテバンは、お前は信用できないと敵視される始末。 この惑星ではマッチ棒は「カツェ」と呼ばれ、この惑星では万能の価値があり、事実上の通貨となっているらしい。ウラジミールとゲデバンも地球に戻してくれたらマッチ箱の2000箱や4000箱と出会ったパッツ人に餌をちらつかせる。 共産主義圏と自由主義圏の価値感の違いを表しているんだろうかしら。 この惑星では自然の水は取り尽くされてしまい砂しかなく、いまや水が貴重品である。 アルファ星人がプリュク星人を貪欲病だと批判し、アルファ星におりたつと空気を汚さないようにマスクを休養されたり、プリュク星の人たちは全てサボテンに変えられてしまうという。無害な植物になった方が世界の平和のためであり、彼等も幸福だというのがアルファ星人たちの論理。 ウラジミールとゲデバンも、プリュク星人たちのこの利己的な貪欲さに何度裏切られ地球に戻るチャンスを逸してしまったことか。 彼らには友情とか信頼という言葉も概念も最初から持っていない人種なんだろう。 そのくせ窮地に立たされると哀願して助けを乞うが、助かったとたんに平気で裏切るという始末。 しかしウラジミールとゲデバンは、最後まで人としての良心に従い、いまや腐れ縁ともなったパッツ人二人組を助け、最後には無事に地球に戻るという、そんなドタバタ劇。 この映画が製作されたのがソビエト連邦崩壊前夜であり、ゲオルギー・ダネリア監督がグルジア出身ということなどを重ね合わせると、この奇妙奇天烈ともいえるSF作品にはかなりの風刺がこめられているだろう。 グルジアという国の歴史をみると、オスマン帝国、サファヴィー朝、ロシア帝国など常に 列強支配下にあり、ロシア革命後にはロシアから独立をするも赤軍に首都を制圧され独立国家は崩壊し、ソビエト連邦の構成国としてソ連邦の支配下におかれ、ソ連邦末期にはそれまではソ連支配下で黙殺され続けてきた民族問題が噴出するという政情不安にあった。 チャトル人以外と一括りにされている彼らも、いろんな民族の出身であることが物語が進むうちに分かってくる。 スクラップを使ってつくられた彼らの乗り物とか、砂だけの世界とか、「エツィロップ」にたいする恐怖とか、パッ人たちの姑息さなども最下層に追いやられた者たちの切羽詰った生き方かもしれないなと、当時のソ連邦と重ね合わせると妙なリアリティを帯びてくる。 アルファ星人が、プリュク星人は貪欲な世界に生きるよりも植物になった方が彼等も幸福だという論理に対し、ウラジミールは「なにが幸福かは彼等自身が決めることだ」と反論し、ウラジミールとゲテバンの二人が地球に帰る選択肢を捨てて、世話になったパッツ人二人組を救う途を選ぶあたりはゲオルグ監督のメッセージがこめられているだろう。 ソ連国内では、「クー」と奇妙なポーズが大流行し、カルト的人気を集めたそうだ。 「フルスタリョフ、車を!」といい、「不思議惑星キン・ザ・ザ」といい、ロシアならでは映画だと思う。 批判精神に貫きなgら、支配と抑圧という構図を一方はパワフルに、そして一方は飄々と描いている。そして最後はからりと蹴飛ばしているあたりは大陸のもつ逞しさだろうか。
by mchouette
| 2008-11-16 00:00
| ■映画
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