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21世紀に向けてゴダールが語る「愛」とは……
Éloge de l'amour 2001年/スイス・フランス/97分 原題を直訳すると「愛の賛歌」 監督:ジャン=リュック・ゴダール 脚本:ジャン=リュック・ゴダール 撮影:クリストフ・ポロック / ジュリアン・イルシュ 出演:ブルーノ・ピュッリュ / セシル・カンプ / ジャン・ダビー / フランソワーズ・ベルニー / クロード・ベニェール / レモ・フォルラーニ / ジャン・ラクチュール / ジャン・アンリ・ロジェ / フィリップ・ロワレット ここんとこ、毎晩のように見続けていた。 はじめは哲学書や文学書からの引用や、第一部の現在と、第二部で描かれている第二部 とのつながりとかが掴めず、感動はしたけれど、はてその内容はとなると頭の中でこなれておらず、もう一度、もう一度と観ていくうちに観る度に、引用された言葉が話し言葉よりも妙に真実味を帯びてしっくりと馴染み、映像の中でさらに深みを増してくる。時にははっと息を飲むほどの映像に、あるいは切ないほどに叙情的な映像に、どうすればこんな一瞬が考えられるんだろうと思われるショットなどなど、観るほどに新しい輝きを帯び、惹かれそして不安をかきたてられるほど胸に刺さってくる。とはいえ、何が掴めたかは覚束ないけれど……。 例えば下の写真などは、ポスターにも使われているけれど、ほんの一瞬のショット。舗道を歩いてきた女性が通りすがりに「ボンソワール ムッシュ」と言ってぱっとコートを広げたその一瞬。このポスターは私のPCの横の棚の上にパネルにいれて立ててある。ラストの駅の光景も泣きたくなるほどなぜか胸をざわつかせるドキッとする映像だ。 ![]() その辛辣さ、鋭さは変わらないけれど、一人の人間と彼を取り巻く関係について、あるいは何かについて、かつて今までこれほど静かに、そしてある一点をじっと見つめるかのように、語ったことがあっただろうか。 「ヌーヴェルヴァーグ」でも触れたけれど、「映画史」以降のゴダールの作品をみていると、何かが変わったと感じる。変化というよりも、それはゴダールの中で何かが静かに発酵し、結果としてそうした変化のように思える。 ヘッドライトの光に浮かび上がる夜のパリの街が、その闇の黒をくっきりと際立たせ、美しいほどのダ一部の現在を描いたモノクロ映像。 そして2年前を描いた第二部ではデジタル・ビデオで撮影し色補正したカラー映像が鮮明だ。 そして怒涛のように押し寄せては岸壁に激しく砕け散る波、前の波にのしかかるように押し寄せる波の映像が一部でも二部でも暗喩のように挿入されている。 第一部は若き芸術家エドガーの企画と挫折が描かれている。 彼は若者、大人、老人という3世代のカップルを通して、愛の事柄~出会い、肉体的情熱、別れ、再会~について描こうという企画をたてる。が彼が考えているのは個人を通して歴史的瞬間を描こうというものだ。若者ならば青春時代。 そしてエドガーに製作資金を提供しようとする老いた画商。 「エドガーに肩入れし過ぎてませんか?」という弁護士の言葉に老画商は静かに答える。 エドガーの祖父と彼の父はユダヤ人収容所で一緒だったこと。 彼がエドガーの母と幼馴染で、彼女を愛していたこと。 けれど彼女は他の男を愛したこと。彼女を憎んだこと。カーレーサーだったその男性はレース中に亡くなり、彼女もまた自殺してしまったこと。 「今でも彼女のことが好きなのかもしれない」 胸に秘めていたであろう過去の痛みを静かに告白する画商。 ゴダールの愛の軌跡という視線で「ヌーヴェルヴァーグ」を感じ取った私には、この老いた画商…年齢はゴダールとほぼ同年齢だろう…のこの静かにもらしたこの一言には敏感に反応し、ぐさりと胸に刺さる。「エドガーには何事かを成し遂げてもらいたい。」 自らの歴史の継承を若い世代のエドガーに託すかのような画商の言葉。 かつて、こんな風に胸の痛みを、若い世代に対しこのような優しさの眼差しを見せたことがあっただろうか。このように過去を語ることがあっただろうか。 そして、この作品に流れる何かを見つめようとするこの眼差しは何だろう。 ゴダールの今までの作品、少なくとも「映画史」以前の彼の作品は、常に「今」というこの瞬間の全てを、ゴダールが「今」という時間という中で彼の頭の中にあるもの全てを映像に叩きつけるかのように描かれていた。 エドガーは3つの世代における「愛」の物語という企画のためにオーディションを行うが、「若者」と「老人」はいるが「大人」はいない。「大人」という概念が実に曖昧なことにぶつかる。 エドガー自身が、自らの存在に揺らぎ、歴史とどう向き合うべきかということを模索し続けていることにも繋がるものだろう。 「大人」を演じる人間がいない。 そしてエドガーは2年前ブルターニュで出会った一人の女性を思い出す。 女優志望で当時は弁護士事務所で働いていたが、今はパリで夜行列車の清掃をしている彼女に出演依頼のために会いに行く。 再会し幾ばくかの話をし、二人の会話はかみ合うことなく、彼女は出演依頼を拒絶する。 「大人」をみつけられないままエドガーの企画は頓挫し、画商とも訣別し、画商はその後記憶を失ってしまった。 そして女性が自殺したことを知る。 二人の会話から、再会から1年以上が経っていることが分かる。 彼女の祖父から連絡を受けたエドガーは、遺品から本を一冊もっていてほしいという彼女の遺言を知る。 「どうして僕の住所を? 知らなかったはずだ」 「いや、彼女は知っていたんだ」 この一言は彼女のエドガーに対する思いにハッとさせられる。 触れるようで交差しなかった二人の愛。 彼女はエドガーに愛を求め、エドガーは彼女に何かを感じながらも映画を求めた。 エドガーは「彼女の声にインスピレーションが沸いたけれど、それ以外では彼女に失望した」と冷たく言い放つ。エドガーと同じ年齢のころのゴダールがそうだったように……。 それがあの画商に愛した女性に対するあの言葉を言わせたのだろうか。 エドガーの中で「大人」というテーマが、そして彼女との関係も宙づり状態のまま投げ出され、歴史の中で画商とも彼女とも彼女と繋がる記憶は断ち切られてしまう。 ![]() モノクロからカラー映像に変わる2年前。 エドガーは第二次大戦中の対独レジスタンスと対独協力をしたカトリックの取材のためブルターニュに住む歴史家ジャン・ラクチュール(本人)を訪れる。 そこでエドガーは、第二次大戦下レジスタンス闘士だった老夫婦の回顧録を映画化しようとしているアメリカから来た「スピルバーグ・アソシエイツ」のエージェントと国務省の役人との交渉の場に居合わせることになってしまった。老夫婦の孫娘ベルタが2年まえにエドガーが出合ったという彼女だった。 第二部では、エドガーの頓挫した企画「愛」についての物語は、歴史という空間に広がっていく。 第一部と第二部で重複してゴダールは同じ言葉を繰り返し登場人物に語らせている。 何かを考える時、実際は他のことを考えている。他のことを考えずに、何かを考えることはできない。新しい風景を見た時、その「新しさ」は以前から知っている他の風景と心の中で比較して認識される。 そして第一部で若者と老人はいるが「大人」が存在しないというテーマがここでも語られている。 老いた元闘士は「レジスタンスには青春時代があり、老年期もあった。成人期だけがなかった。」と語る。 両親の世代を超えて、孫の世代にのしかかる……成年期は存在しないのか! 第一部の現在では、後ろ向きかほとんどシルエットに近い存在で顔が識別できない状態で映されていたベルタは、2年前の第二部では、エドガーの前にはっきりと正面を向いて映し出される。 2年という時間は、彼女から「顔という人格=主語」のない人間になってしまったということだろうか。彼女もまた成人期を越えて若年期から老年期へと滑り落ちてしまったのだろうか。 彼らの愛と抵抗と裏切りの歴史を金で切り売りしようとする老夫婦。 映画権の交渉になぜ国防省が?と訝しがるベルタ。 役人は「ワシントンが管理していてハリウッドは僕(しもべ)だ」と答える役人。 ハリウッドのエージェントの名前が「レニ」というのは、ヒトラー政権下で「民族の祭典」を撮ったレニ・リーフェンシュタールを連想してしまったが、これもゴダールのジョークだろうか。 アメリカ人とは誰か、メキシコはメキシコ人、ブラジルはブラジル人だといい、アメリカ人はどこに存在するのかと老夫婦の孫娘である彼女は彼らを詰問し、アメリカには名前も歴史がない。だからヴェトナムやサラエヴォといった他の国の歴史を奪いにいくと激しく抵抗する。 「OK」という彼らに孫娘はさらに冷水を浴びせる。「OKの語原は南北戦争で使われた『ゼロ・キルド(死者なし)』よ」と。 ハリウッドの一つの象徴としてのスピルバーグ…シンドラー夫人には一文も支払われず、彼女は南米で貧しく暮らしているというナレーションが入る。 記憶や普遍性のない地にレジスタンスはない テクノロジーは歴史を変化させた 教会も時代と歩む。 歴史の中で、愛の崇高さと遠くかけ離れた国家 エドガーの内部で、全てアメリカナイズされた現在と、フランスの過去の歴史が反響し鬩ぎあう。 防波堤に押し寄せては激しく打ち砕かれる波のように……。 ゴダールはその「映画史」の中で映画だけが歴史を語れる唯一のものと位置づけ、彼自身もまた映画だけが自分を語りうる唯一の手段であり、検証できるものだと語っている。 その映画が、グローバリズムという名の下でアメリカ支配の経済市場主義とその従僕たるハリウッドが世界から歴史を買いあさり、人々の記憶は分断され奪い取られているという現在という世紀。 そして、未来という前しかみない若者は過去を消し去り、時の流れを拒む老人は過去の記憶にしがみつき、未来と過去に引き裂かれた現在は、過去から繋がる歴史を喪失しつつあり、第一部で唐突に挿入されたホームレス達のように居場所も名前も顔すらも失っているということだろうか。 エンド・クレジットと重なるように映された字幕 ある企画がある。 ゴダールは「愛の世紀」は継承=相続の物語だと語っている。 21世紀の始まりの時期。愛と戦争記憶に彩られた20世紀という歴史を継承する現在に生きることの意味を問うものであり、生きるということを探求するものであり、人が人を愛するということを描き、そして『大人』であらんとする確たる意思を描いた作品だろう。 そこにあるのは恐らくは常に挫折がつきまとうものなのだろう。 その挫折の中でベルタの両親は、1968年の3年前にベルタが生まれ、彼女が5歳の時に彼らは自殺した。そしてベルタもまた子供を残して自殺した。 そして、ブルターニュからパリに着いた列車から人々が吐き出され、その雑踏の中をエドガーが歩いている。彼のこれからの孤独の歴史に思わず胸が熱くなる。 ブルターニュで、窓ガラス越しにエドガーを正面からはっきりと見つめるベルタの顔が記憶に残る。 彼女「眼差しの力が衰えたのは?」静かにゆっくりと語られていく「愛の世紀」のなかで幾度か挿入される力強い動きを見せる波の映像と押し寄せる音もまた強く印象に残る。 ![]() ゴダールもすでに70歳。白髪に柔らかさが感じられるとはいえ、眼鏡ごしにみえる目には曖昧さを拒絶する鋭さは変わらない。 ![]() 観る度に、ゴダールが21世紀の始まりにむけて投げ出したものは、彼自身が人生の大半を生きてきた20世紀という時代の一つの結実ともいえるだろうか。 観る度に深く胸を打ち、ゴダールのさらに強いメッセージを感じる作品だ。
by mchouette
| 2008-10-17 00:00
| ■映画
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