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L'HISTOIRE D'ADELE H.
1975年/フランス/97分 先日「緑色の部屋」の鑑賞記事をあげ、トリュフォー自らが「緑色の部屋」「恋のエチュード」そして本作「アデルの恋の物語」を「ロウソク3部作」と名づけていることから本作を再鑑賞した。 再鑑賞といっても、前はトリュフォーについてさしたる知識も認識もなく観ていたレベルだったけれど……。 フランソワ・トリュフォーは「愛がなければ生きていけない」と語り、愛をテーマに映画を撮りつづけ、その作品は愛と生を語り、無謀さとも思える若く瑞々しさに溢れたイメージで捉えがちだけれど、その実トリュフォーはずっと「死」を見つめ続けていたんではないかしらと……人生の鎮魂の詩を描き続けてきたのではないかしらと…… とりわけ本作「アデルの恋の物語」などをみているとそう思えてくる。 「緑色の部屋」「黒衣の花嫁」「突然炎のごとく」「隣の女」などなど、どれも死に向かう愛を描いている……。 ![]() 1863年. 新大陸・北米で南北戦争が勃発した頃。 フランスの文豪ヴィクトル・ユーゴーの次女アデルは、英国騎兵中尉アルバート・ピンソンに恋するあまり、英領ガーンジー島に亡命していた両親のもとを出奔し、中尉の派遣先であるカナダまで単身、彼を追いかけ、すでに心変わりした男を前にしてもなおかつその愛に執着し、ほとんどストーカー状態で彼の愛を求め続け、逃げる男の姿を求め次なる派遣先であるカリブ海バルバドス島までも彼を追い続けた果てに、精神の均衡を失い心身ともにぼろぼろになり、遂には送還されたフランスで精神病院に入れられそこでその後の半生を生き、第一次大戦のさなかにこの世を去っている。 そのアデルがピンソン中尉を追い続けながら、その狂気にも至るほどの迸る熱情を書き綴った、ほとんど暗号だらけのその日記を、追跡調査し15年の歳月をかけて解読し、ほぼ完璧に再現し伝記として纏め上げた、フランセス・V・ギール女史の原作『アデル・ユーゴーの日記』をトリュフォーが映画化したもの。 本作はまだ新人だった20歳のイザベル・アジャーニという女優を世に知らしめた作品であるとも言われている。のちに、アジャーニ自身も「この映画のおかげで今の私がある」と語っているそうだ。 トリュフォーは本作の企画を6年間暖めていたそうだが、テレビでイザベル・アジャーニを見て、すぐさま彼女のために脚本を書き上げたという。 アデルの愛のその狂気を、イザベル・アジャーニだからこそ体現しえたといえるほど、アジャーニ抜きでは語りえない作品だろう。 パトリス・シェロー監督の「王妃マルゴ」(1994)で、不毛な愛に奔放のままに身を任せ享楽的に生きてきたマルゴが本当の愛を知り、ギロチンにかけられた愛するその男の首を胸に抱いて馬車にのる、これもまた狂気の愛に生きたともいえる王妃マルゴを官能的に演じたが、「アデルの恋の物語」では、彼女の若さが、恋に目覚めた一人の女性の、エキセントリックなまでに張り詰めた一途さを見せ、時には挑みかかるような、時には怯えるような表情をみせる彼女の眼の光りは凄みさえ感じるほどだった。 アデルという愛に殉じた一人の女性を通してイザベル・アジャーニという女優そのものを描いた作品ともいえるほど、この作品のアデルはイザベル・アジャー二そのものだった。それほどの存在感を20歳のアジャーニは見せつけている。 「恋は私の宗教」と日記に書き、神を祀るようにロウソクを灯しピンソン中尉の写真を祭壇に飾るアデル。拒絶されてもなおも追いすがり、父親のユーゴーに幾度も幾度も金の無心をし、あげくその金も底をつき、ぼろぼろの衣服で愛する男の姿を求めて彷徨い、犬に吠えられ、子どもたちに小突かれ行き倒れてしまう。そんなアデルの姿は、堕落した惨めさよりも、孤高の魂すら感じさせる。 「若い娘が古い世界を捨て、海を渡って新しい世界に行くのだ。愛する人のもとへ。」 アデルが旅に出る前に日記に記したこの言葉を、トリュフォーは冒頭とラストでアジャーニ演じるアデルに語らせている。 私は、このアデルの希望に満ちた言葉に、アデルはピンソン中尉の愛を通して、自らの人生の解放を希求したのではないだろうかとさえ思える。偉大なる父、家という枠、家族制度…自分を縛りつけている世界、そしてコンプレックスと反抗心に満ちた自分自身からも、アデルは解き放たれようとしたのではないだろうか。 美しく誰からも愛されたアデルの姉レオポルディーヌが結婚まもなく夫とともに溺死するという悲劇があった。アデルは何度も姉が溺死する夢にうなされる。 はじめは、姉に対する確執と嫉妬からアデルは溺れる姉を知って助けなかった、そこからくる罪の意識にさいなまれての夢かしらとも思ったけれど、それもあるかもしれないが、それ以上に、新しい世界で愛に生き、自分の人生を生きることなく、今いる古い世界で死んでしまうことに結びつくものであり、アデル自らの生を脅かす恐怖ではなかっただろうか。ピンソン中尉の愛によって開いた花びらが輝きを放つ前に、この古い世界で散ってしまうことの恐怖。 アデルにとって、ピンソン中尉との愛とは、アデル自身の人生を意味するものではなかっただろうか。 誰からも愛された姉を前に、アデルの強い感受性は激しく愛に飢え、そして自らの人生に飢え、新しい世界への飛翔を求めて海を渡り、そして狂気に至るまでに自らの「生=愛」に殉じたアデル。 アデルの人生は、狂気という極限まで生きた幸福といえるだろうか? それとも自らの人生を生きることも叶わぬままに、精神病院という牢獄に囚われ一生を終えた不幸といえるだろうか? 叶わぬピンソン中尉への迸る愛を、切り裂かれるような痛みを言葉にして書き綴り、傷口に塩を擦り付けるように、言葉でその裂け目を切りひらき、言葉で埋め尽くしていくアデルの姿にはまた、凄まじいまでの芸術家のパッションをみる。作品の発表を切望し、ヴィクトル・ユーゴーという大きすぎる父の存在に反撥し、そこから逃れようともがきつつ、父に金を無心するしかない無力すぎるアデルがいる。 映像でヴィクトル・ユーゴーの壮大な葬儀、そしてアデルの墓石の写真、アデルがいた精神病院の写真も挿入されている。 父と同じ作家を目指し、父の大樹の下で、光りを浴びることなく踏みしだかれてひっそりと死んでいったアデル。 そんなアデルの魂を、モーリス・ジョーベールの音楽とネストール・アルメンドロスが撮影するロウソクの光のなかでトリュフォーは悼みをもって描いたのだろう。 見終わった後、アデルの狂気にまでも至る激しいパッションに、言葉を失うほどに圧倒される。 「ロウソク3部作」のひとつである。 アデルがピンソン中尉と思い駆け寄った士官が振り返る一瞬のシーンでトリュフォー自らがその仕官を演じていて、ヒッチコックと同じだわと、この息詰まるほどの愛の物語にちょっとしたこんな遊びが嬉しい。 昨日、記事をアップした映画「コレラの時代の愛」は、女狂いの父親の狂気の遺伝子を受け継ぎ、その狂気に至るほどのエネルギーを、50年以上もの長い時を一人の女に捧げ続け、素の愛を獲得した男の物語を描いた作品でコロンビアの作家でノーベル文学賞を受賞したガブリエル・ガルシア=マルケスの原作の映画化である。 彼は一人の女を愛するあまりの狂気から逃れるため、排泄とおなじ毎日の習慣でもあるかのように女たちと肌をあわせる。これもラテン民族の血ともいえるだろうか。男だからなせた行為でもあるだろう。男もアデルもともに生きた時代は19世紀。 この映画を観たその夜に、レンタルしていた「アデルの恋の物語」を観たからだろう。 アデルの悲劇は、19世紀という女にはまだまだ生き難かった時代の悲劇としても読み取ってしまう。 監督: フランソワ・トリュフォー 製作: フランソワ・トリュフォー 原作: フランセス・V・ギール 脚本: フランソワ・トリュフォー/ジャン・グリュオー/シュザンヌ・シフマン 撮影: ネストール・アルメンドロス 音楽: モーリス・ジョーベール 出演: イザベル・アジャーニ /ブルース・ロビンソン/ジョゼフ・ブラッチリー/シルヴィア・マリオット
by mchouette
| 2008-09-24 00:00
| ■映画
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