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デカローグ5:あなたはなにものも殺してはならない
デカローグ=十の言葉<旧約聖書のモーゼの十戒をモティーフにしている> ロング・ヴァージョンの劇場公開版の邦題は「殺人に関する短いフィルム」(1987年85分) 監督 クシシュトフ・キェシロフスキ 脚本 クシシュトフ・キェシロフスキ クシシュトフ・ピエシェヴィッチ 音楽 ズビグニエフ・プレイスネル 撮影 スワヴォミール・イジャック 本作はタクシーの運転手を殺害した一人の青年の犯した殺人という行為について描いた物語ではなく、タクシーの運転手を殺した少年と、その少年を殺す社会の法について、二つの殺人について描いた物語であり、さらには現代という社会をその背景に浮き彫りにした作品として、とても重要な考察を私たちに与えているだろう。 ![]() デカローグの中でキェシロフスキが真っ先に映画化(ロング・ヴァージョン)を望んだのが、この第5話「ある殺人に関する物語」だったそうだが、出資の許可が下りたのは「ある愛に関する物語」の方だった。しかし、その後、ポーランドで死刑の是非をめぐって論争が起こるという偶然が作用し、本作も映画化にこぎついたとのこと。 国際的には死刑が廃止される方向性にあるが、現在も死刑制度を存置している国も少なくない。ポーランドでは、1989年に成立した新政府では、5年間、死刑執行は停止され、1997年に死刑を廃止しているが、現在、そのポーランドと死刑廃止運動の先頭を走る欧州連合(EU)とが、死刑をめぐって対立関係にあるという。欧州評議会がポーランドの拒否権行使を切り抜ける手立てとなり、2007年10月10日を「欧州死刑反対デー」とすることが宣言されたとのこと。 キェシロフスキは「殺人」というテーマを撮るにあたりレンズに緑のフィルターをつけて撮影したそうだ。「緑色は春の色、希望の色と言われているが、カメラに緑色のフィルターを装着すると、世界はいっそう残酷で、しらけきって、空虚になる。」そうキェシロフスキは語っている。 それは一人の青年の犯した殺人という行為の忌まわしさを描き出すだけではなく、当時のポーランドという国、ワルシャワの街の閉塞感も浮かび上がらせ、この物語のテーマをマッチした効果をあげているだろう。 「空虚な都会、薄汚れた都会、悲しげな都会、人々もそれと同じだ」とキェシロフスキは語っている。 ピョートルは弁護士認定試験の会場に向かいながら独白する…… 法とは人間がお互いの関係を調整するために作った理念である。刑罰によって人は変わらないし、犯罪を予防する力とはなり得ない。 死刑という一人の人間をしに至らしめる刑罰は果たして正しいのか? ピョートルのこの自問は「死刑」という法律を超えて、「人を裁く」という、ある意味では人間に問われ続けるテーマでもあるだろう。 無差別殺人が多発し、簡単に殺人が行われる現代社会にあって、20年前にキェシロフスキが提起したテーマが、さらに濃厚な色を帯びて来るように思う。 弁護士になったピョートルは、タクシー運転手を殺害した青年ヤツェックの弁護をするが、法廷が下した判決は極刑の死刑だった。 ヤツェックが殺害を決行したその日、彼はカフェに入りテーブルの下で、用意したロープで締める練習をしていた。そしてその日、その時間、そのカフェで、ピョートルはヤツェックの席の近くに座っていたのだった。 社会が法によって彼を殺す前に、彼を救える手立てはあったはずだ。 ヤツェックを救えなかったピョートルは苦悶する。 野原に車を停めたピョートルが「憎い!憎い!」と何度も呻くように叫ぶ場面でこの物語は終る。 もし妹が生きていたら……僕は村を出なかった死刑執行の前、面会に訪れたピョートルにヤツェックは胸の内を語る。 そして死刑執行のため独房から引き出されたヤツェックは「死にたくない!」と突然に暴れまわり、執行官たちに引き摺られるように絞首刑の執行室に運ばれる。 キェシロフスキは「なぜ殺すのか、誰が殺すのか、誰が殺人を犯すのかに関係なく殺人は誤まりだ」と語る。 そして本作でも殺人を犯した青年の「孤独」が浮かび上がってくる。 この孤独は青年だけの個的な事情ではなく、物質文明が発達した社会にあって、豊かさと引き換えにもたらされたものは孤独だろう。 デカローグの10の物語を通してキェシロフスキが描きだそうとしたのは、現代社会に生きる人間たちが内面にどれほどの孤独を抱え生きているかということだろう。 青年がなぜタクシーの運転手を殺した、その動機や理由は明らかではない。事前にローブを購入し、カフェのテーブルの下で秘かにローブの締め方を試みているものの、その殺人は衝動的なものだったろう。 孤独の衝動が、殺人の引き金になったのだろうか? 「ある愛に関する物語」で郵便配達人のトメクが向かいに住むマグダを覗き見し、秘かに愛し続けたのも、内なる孤独感からくる衝動だっただろう。 青年が死刑によって殺される法的な理由と人間的な理由の狭間で自責するピョートルの葛藤は、戦後社会に向けて突きつけられた問いであり、その社会に生きる私たちに問われる続ける問題でもあるだろう。 なお、ロング・ヴァージョンの「殺人に関する短いフィルム」では、青年の故郷での話し(主に妹の死にまつわる話)とピョートルが弁護士の資格試験に合格した喜びを恋人に語るシーンが加えられている。 ……………………………………………………………………………………………… 先日、一気に読み終えた平野啓一郎の「決壊」はネット社会と現代人の関係をテーマに、現代社会の病巣、現代人が抱える孤独という闇の中で蠢くものを鋭く精緻に描きだしている。 平野啓一郎は「決壊」で、さらに踏み込んで、バラバラ殺人の被害者の兄であり、容疑者として長期拘留された崇に「殺人と死刑と赦し」について語らせている。 小説の一部だけを引用することで、曲解される恐れもあるでしょうが、崇の言葉の断片を引用する。そして本作は是非読んでいただきたい作品だと思う。 長くなりますが……崇が、一人の友人に向って語っている言葉です。 「死刑制度には元々反対だったんだよ。」 「犯罪抑止力として無意味だっていうのは、フランスの死刑制度廃止前後の犯罪統計にも数字として出てるみたいだけど、現代の日本でも本当にそうなのかは、よく分からない。ただ、そういう制度的jな話よりも、もっとヒューマニスティックな理由からね、俺は死刑自体に反対だったよ。」 「殺すっていうのは、どういうことなのか、…ずっと考えている。殺人という原状回復が絶対に不可能な出来事に於いて、それは結局、何なんだろうって。…共同体の構成員として赦すということと、当事者として赦すということは、分けて考えるべきだろうね。」 「互いの心を隈なく理解して、文字通り、共感し、同情し合うようなロマンティックな軌跡の瞬間を、俺だって信じたいよ。けど他方で共感の暴力性なんて、思春期の子供だって理解してる。」 「篠原に対しても、鳥取の少年に対しても、被害者への共感から、凄まじい敵意を抱いている人たちがいる。…けど、被害者って、一体誰なの?当人はもう死んでる。どうして弟の今の気持ちが分かる?存在さえしていないのに。…」 「じゃあ、遺族は? 愛する人間を奪われたという意味で、遺族は確かに当事者だよ。しかし、それこそみんな、一人一人、思うことはバラバラなんだから。」 「世間でいうところの被害者への共感~(中略) 今の社会は、そうした共感による共同体という夢を、決して断念出来ないね。」 「そういう社会はね、赦しの契機をどこまでも先延ばしするだろうね。だって赦さないことで、人間は同じ一つの感情を共有して、互いに結び合うことが出来るんだから!」 「赦すっていうのはね、結局、終らせることじゃない? 忘れることが出来ないなら、赦して終らせるしかない。…赦すという行為に、崇高な価値が与えられているのは、どう考えても赦される側の人間のためじゃない。赦す側の人間のためだよ。」 「だけど、当事者はどうやって終らせばいいんだ? 弟は殺されて、今も死に続けている。永遠にこの事実は終らないよ! 赦しは殺された当人からは、決して発せられないんだよ! 殺人者がどんなに祈ろうが、悔いようが、そんなの関係ない! だったら、誰が赦す? 当人が永遠に赦し得ないことを、遺された人間はどうしたらいいんだろう? あの世なんてものがあった時代には、現世の罪に対する地獄の苦痛を想像上の過剰分にだけ、赦しは生じる余地があっただろうね。」 「だけど、今はもう、ここしかないんだよ。世界は。死刑制度っていうのは、この世に人工の地獄を設けるっていうことだよ。」 さらに崇は今の社会、人間を語る… 「…そういうことをね、やっぱり、一通りは考えてみるもんなんだよ。…だけど、結局こんな話は、もうみんな古いんだよ。」 「赦すもなにも、もう罪なんて、この世界から存在しなくなっているんだから。」 贖罪とも、絶望ともとれる痛ましいラストでこの小説は終っている。 人は実際に人を手を下さずとも、どれだけの人間を心の内で殺しているだろうか? 偽善と矛盾を抱え人は生きている。 崇は、警察の誤認逮捕に続く長期に及ぶ取調べのなかで、そんな自らの内にある闇、不条理うを自らコントロールする術をなくすまでに彼を打ちのめし、死に追い詰めたのだろうか。こんな一面的な見方で彼の死は決して語れないほど、平野啓一郎は混濁する現代という時代と人間の内面の病み爛れた襞を丁寧に広げながら抉り出している。 「決壊」上下巻、一気に読み終えた。 芥川賞受賞作品でもある、大学生だった彼のデビュー作「日蝕」のあの流麗たる文語の美しさと、深い洞察の内容に惹かれ、本作で改めて平野啓一郎の現代社会と人間に向けられた彼の視線の鋭さとその洞察に、作家としての高い資質と力量を再認識した。この本についてもきちんと向き合って感想を書きたいと思っているけれど……。 そして 土曜日に見たドキュメンタリー映画「敵こそ、我が友」。 クラウス・バルビーというもとナチ親衛隊だった一人の男が生きた3つの人生を、関係者の証言や当時のフィルムによって描いた、この映画のテーマとも通じるものがある。 バルビーが終身刑をいいわ渡された法廷を出るときに、彼が発した言葉の持つ意味は戦後社会に重い楔を打ち込み言葉だろう。 現代社会の闇、暗部、病巣…現代社会とそこに生きる人間が引き起こした様々な事件、殺人、現象を語る言葉があるが、そこに存在するのは「孤独」そして「愛」だろう。 社会が発達すればするほど、人間にとって深く問われ続けるテーマでもあるだろう。 「ダークナイト」 「ノーカントリー」、 「告発のとき」 ……最近観た映画も頭に浮かんでくる。 「ある愛に関する物語」そして「ある殺人に関する物語」に続き、キェシロフスキが提起した「孤独と愛」を描いた「デカローグ」をもう一度、一話ずつじっくりと観ていきたいと思う。
by mchouette
| 2008-08-31 00:00
| ■映画
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