![]() by mChouette 検索
カテゴリ
全体 ■映画 =映画:あ行 =映画:か行 =映画:さ行 =映画:た行 =映画:な行 =映画:は行 =映画:ま~わ行 ■映画・雑記 ■ドラマ ■展覧会・コンサート ■一冊の本 ■徒然なるままに… ■美味しいもの ■アウトドア・旅 ■勝手にバトン ■ご挨拶・お知らせ 未分類 最新の記事
その他のジャンル
|
デカローグ6:あなたは姦淫してはならない
デカローグ=十の言葉<旧約聖書のモーゼの十戒をモティーフにしている> ロングヴァージョンの劇場公開版の邦題は「愛に関する短いフィルム」 監督:クシシュトフ・キェシロフスキ 製作総指揮: リシャルト・フルコフスキ 脚本:クシシュトフ・キェシロフスキ/ クシシュトフ・ピエシェヴィッチ 撮影:ヴィトルド・アダメク 音楽:ズビグニエフ・プレイスネル 出演:オルフ・ルバシェンク/グラジナ・シャポロフスカ/ステファニア・イバンスカ シネ・フィルイマジカでクシシュトフ・キェシロフスキ特集をやっており、久々に「愛に関する短いフィルム」を鑑賞した。 その感想を書き出したらキェシロフスキと彼の作品にあれこれと思いが至り長くなったので「その1」 「その2」とわけることに…。この作品は、彼が旧約聖書の「十戒」をモティーフに描いた10の物語「デカローグ」の中の第6話「ある愛に関する物語」を、劇場公開用として58分のオリジナル・ヴァージョンから87分のロング・ヴァージョンに編集したものだ。 「その1」と重複するが… キェシロフスキ監督といえば活動の場をポーランドからフランスに移し「二人のベロニカ」続くフランス国旗の象徴である「自由・平等・博愛」をモティーフにした三部作「トリコロール/青の愛」「トリコロール/白の愛」「トリコロール/赤の愛」が有名だけれど、人間の内面を凝視し、「関係=愛」ついての考察が10の物語に凝縮して描かれている「デカローグ」が、キェシロフスキ作品のコアともいえるのではないかと思う。 「傷跡」から遺作となった「トリコロール/赤の愛」までキェシロフスキ作品をずっと観てきたけれど、とりわけ「デカローグ」で語られている10の物語はどの作品も60分足らずという凝縮した時間にもよるのだろうけれど、何度みても10の物語に登場する彼らの抱える孤独な有り様が私の内のどこかに突き刺さり、観る度に静謐で敬虔な感覚が甦ってくる。 人間とは、この10の物語に登場する人物たち~ごくありふれた生活を送っているように見える人たち~のように、それぞれに胸のうちにじっと噛み締めるほどの空洞を抱え、その空洞を人は日常の時間の中でふと感じる「寂しさ」という感情とすり替えて毎日を生きているものだということを思い知る。 そして人が孤独を覚えるのは、他者との関係においてもたらされるものだということ。けれど、それでも人は人の温もりを求め、愛を求め、人を求めるということを思い知る。 「身を切るような孤独を知っている者だけが、人生の美しさを真に享受することができる。」そう語るキェシロフスキが語るように、人間の孤独を見つめる厳しい眼差しが貫かれた「デカローグ」を経たからこそ、「二人のベロニカ」「トリコロール三部作」で崇高さを帯びた美しさで愛と人生を描いたのだろう。 ロング・ヴァージョンの「愛に関する短いフィルム」は、オリジナルの「ある愛に関する物語」にいくつかのシーンが加えられ、会話部分も若干多くなっているもののオリジナル版と基本は変わらないし、付け加わったシーンによってさらに物語りに深みが増したわけでもないと思う。 しかし、ラストが全く異なる。 ロング・ヴァージョンのラストは確か、マグダを演じたグラジナ・シャポウォフスカがキェシロフスキに提案し、オリジナルと違うラストにしたということを記憶している。 今よりももっと若いときは、ロング・ヴァージョンの余韻の残るラストが好きだったが、年齢でしょうか、今は、人間の内面世界を冷徹に見つめ、人としての絶対的な規範を模索しようとするキェシロフスキの「デカローグ」全体を通して貫かれている彼の視線がこのラストにも端的に表されており、残酷ではあるが厳しさをもって観る者に一つの事実として突きつけるオリジナル・ヴァージョンのラストにも惹かれる。 これは同じく第5話「ある殺人に関する物語」(57分)を劇場公開用に編集された「殺人に関する短いフィルム」(85分)でも同様で、オリジナル・ヴァージョン「ある殺人に関する物語」の方が、作家の視線がより凝縮され、テーマがいっそう際立っているように思う。 ただ、ロング・ヴァージョンの方が作品としては受けとめやすいところはあるだろうから、これは好みの問題だろうが……。 物語の主要な登場人物は3人。 郵便配達人をしている内向的な19歳の青年トメク。 トメクの部屋の窓と真向かいにある窓の部屋に住む年上の女流画家マグダ。 そして息子が出て行ったあとの部屋を、息子の友だちだったトメクに貸している一人暮らしの老婦人。 初めてこの作品を観たときは、夜になると部屋の灯りを消して、望遠鏡で真向かいの部屋にいるマグダの様子を覗き見し、彼女に無言電話をかけ、郵便局の窓口にやってきたマグダをみてほくそえんだ笑みをうかべるトメクの様子に、「ストーカーまがいの覗き見趣味の変態?」って思うほどだった。 ![]() 兵役で家を出た友人から部屋を引き継いだとき、マグダの覗き見も引き継いだトメクは、毎晩レンズを通して彼女を見つめ続け、心の内でマグダへの思いを募らせ、ストイックなまでにその愛を純化させていく。 彼女への愛が募るほどに欲望で彼女を汚したくなかったから、トメクは望遠鏡をのぞきながらの自慰行為もやめた。次々と違う男性がマグダを抱くことも許せなかった。テーブルで泣き伏すマグダをみて、その悲しみを自らの悲しみとして受け止める。 倒錯から生じた愛 現実から遠く隔たった愛 「何が望みなの? キス? それともセックス?」トメクの行為を知ったマグダは彼に問い詰める。 「何も」「あなたを愛している」 何も求めず、ただ彼女を見つめ、声を聞き、それがトメクの「愛」だった。 ![]() マグダは男と女の愛は幻想だという。セックスだけだという。 「あなたを愛している」トメクがマグダに告白した愛。 「あれは久しぶりに聞く言葉だったわ」 「愛している」 「愛なんか幻想よ」 どこかで愛を見捨て、愛にふてぶてしくなっているマグダ。 マグダはトメクを部屋に招きいれ、トメクの無垢を彼を弄ぶように、彼の欲望を挑発する振る舞いをし、思わず射精してしまったトメクに「これが愛よ」と嘲笑するように言い放つ。弾かれたように彼女の部屋を飛び出したトメクは自室に戻り、水を張った洗面器にゆっくりと両手をつける。見る間に洗面器の水は真っ赤に染まっていった。絶望のあまり手首を切って自殺を図ったのだった。発見が早く病院に運ばれたトメクは一命を取り留める。 部屋を飛び出したトメクに、彼の無垢な気持ちを翻弄し、傷つけてしまったことに気づいたマグダは、打ちのめされたような思いで、双眼鏡で向かいの窓を覗き必死にトメクの姿を探し、無言電話に必死に呼びかける。 トメクとマグダの間には望遠鏡のレンズと窓ガラスが遮っている。 しかしトメクは望遠鏡を通しマグダを身近に感じ、彼女を捉えているという錯覚の中で、現実の距離感を見失う。 偽の為替通知書を配達してマグダを郵便局に出向かせ、彼女をまじかに見、彼女と会話を交わし、牛乳配達を引き受け、少しでも身近に彼女を感じたいと思う。 トメクの悲劇は、倒錯した世界で現実との距離感を喪失したことから起きたものだろう。 手首に包帯を巻いて再び郵便局の窓口にたったトメクは、恋しい人に会うかのように近づいたマグダを一瞥して言う。「もうあなたを覗いてませんよ」 崖から突き落とされたように顔を強張らせるマグダ。 トメクの思い込んでいた愛が、マグダによって行き所を失ったように、トメクの姿を求め続けたマグダの中に生じた感情が宙吊り状態になる。ギターの音と共に暗転する。 これがデカローグ第6話「ある愛に関する物語」のラストシーンだ。 そしてロング・ヴァージョン「愛に関する短いフィルム」では、あの事件以来、双眼鏡でトメクの部屋を見つめ続けていたマグダはある夜、窓に映った人影からトメクが退院してきたことを知る。彼の部屋を訪れたマグダは手首に白い包帯を巻いてベッドで眠っているトメクを見、トメクがしていたように望遠鏡で自分の部屋を覗く。そこには愛に焦がれ涙する自分の姿があった。そしてそんな彼女の肩に優しく手を置くトメクの姿があった。泣きたいほどに愛を求める自分の心の内を望遠鏡の向こうに見たマグダの目には涙が光っていた。 「ある愛に関する物語」のラストはトメクの側から描いたものであり、ロング・ヴァージョン「愛に関する短いフィルム」はマグダの側から描いたラストともいえるだろう。 ![]() キェシロフスキは、この作品の真のテーマは孤独だという。 「この登場人物たちの間にはたくさんのガラスが存在する。 それぞれは自分の場所でずっと耐え忍んでおり、もう一人に本当にめぐり会えるまでずっと耐え続けるのだ。二人が対面するためにはスキャンダルという受けるべき報いがある。その恋が成就するか否かはたいした問題ではない。重要なのは主人公の変化である。試練を乗り越え、トメクとマグダは成長したのである。」そう語っている。 登場人物たちの間に存在する無機質のガラスは、互いを遮るものであると同時に、トメクやマグダらが社会あるいは他者との関係において頑なに自分を閉じ込めている殻であるともいえるだろう。 「ガラス」というメタファーに、現代社会における個人、関係性までをも捉え込み、人間の内面世界を描き出したキェシロフスキの洞察の鋭さ!トメクはそんなレンズを通して、さらに内向し、 マグダはそのレンズを通して自分の心の内にある寂しさの正体=愛を思い知る。 そしてトメクとマグダはこんな悲劇の形で、彼らの心を覆っていたガラスは壊れたと捉えることもできるだろう。 その痛みの試練が、トメクの自殺であり、トメクがマグダに言った言葉の残酷さだろう。 トメクの自殺は、しかし彼を現実世界に向かわせるために必要な試練であるともいえるだろう。 トメクを演じたグラジナ・シャポロフスカの、現実世界から自分を庇うように内向する少年の潔癖な一途さに、痛々しささえ感じた。 そして、そんなトメクの行為を黙って見つめる老婦人もまた孤独を堪えて暮らす一人の人間だ。 施設に育ち身寄りのないトメクを老婦人は実の息子以上に愛し、トメクをじっと見守ることでトメクの中に見出した愛を守ろうとする。「一人なるのが恐いの」トメクは孤独の中で堪えてきた者の最後の光りなのだろう。 「愛」を求める者たちの孤独と、残酷さと、切ないほどの思いをこれほど直截に描いた作品は他にはないのではないだろうかとあらためて思う。
by mchouette
| 2008-08-28 00:00
| ■映画
| |||||||||
ファン申請 |
||