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GERVAISE
1956年/フランス/102分 ルネ・クレマン監督については「太陽がいっぱい」 「パリは燃えているか」の感想をあげているが 、彼の初監督作品である「鉄路の闘い」そしてキネマ旬報ベストテン第1位(選考委員全員が票を入れた数少ない作品の1つ)だったという本作「居酒屋」を観たいと思っていた。 「鉄路の闘い」はレジスタンス活動に参加した鉄道職員たちを出演させ、隅々までドイツ軍に徹底して抵抗したレジスタンス魂が漲ったセミ・ドキュメンタリーとして観ているほうも熱くなってくる作品だ。 本作は19世紀のパリの裏町を舞台にしたエミール・ゾラ原作の映画化。監督はルネ・クレマン。脚本はジャン・オーランシュとピエール・ボスト。 DVDのパッケージの作品紹介は 「女のかなしみとその本能が これほど赤裸々に描かれたことはない。 貧困にあえぎ、卑怯で狡猾で自堕落な男たちに苦しめられ、転落の宿命をたどる薄倖の女の一生を、ルネ・クレマン監督が冷徹なリアリズムで描くフランス文芸映画の名作である。その余りの救いのない暗さが胸をしめつける。」 ジェルヴェーズが辿る転落の人生に哀れを感じたり、彼女を踏みにじる男たちに憤りを感じたりといった感情は沸かず、むしろジェルヴェーズをみていると、やっぱり、こういう風になっていくんだろうな。哀れだけれどジェルヴェーズはこういう風にしか生きられないんだろうなって案外と醒めた目で観ていた。 そしてそれはジェルヴェーズ個人の資質の問題というより、ジェルヴェーズの悲劇はもっと根深いところにあるだろうに、この物語りの本当の悲劇はこの映画では描かれていないんではないかしらと…例えば痒いところが判っているけれど手が届かない、そんなちょっとしたイラつきを感じながら観ていた。 ![]() 15歳で知り合った一人目の男ランチエと二人の子供までできるけれど、パリに来てすっかり遊び人になってしまったランチエだが、ハンサムで片足の悪い私には過ぎた人と彼の優男ぶりに男の浮気にもつい許してしまう。挙句に棄てられる。 そして再婚した屋根職人である二番目の夫クポーとは貧しいながら二人で働き慎ましやかに幸福な時を過ごしていたのだけれど、働いて働いて洗濯店を持ち、店は繁盛するも、亭主はどんどんヒモの様な存在になり果て飲んだくれていく。 そんな健気で明るく働くジェルヴェーズに優しいまなざしを彼女に注ぐクポーの友だちの鍛冶職人グージェ。 ジェルヴェーズの明るい健気さの中に、人を信用してしまう無邪気さや、直情的ともいえる気質、男の優しさに崩れる刹那的な弱さが見える。 骨惜しみせずに働く健気な逞しさは、そんな自分の気持ちに一生懸命で、周りがみえていない、どこか空回りしているようにさえ思える。一生懸命働き加速していくジェルヴェーズから、男はどんどん失速していく。 「もっと強く自分を主張するんだ。」ジェルヴェーズに人としての毅然さを求めたグージェは、彼女の中に崩れていく弱さと女の生きるための狡さを嗅ぎ取ったのではないだろうか。 店も手放し、乞食のような格好で居酒屋で酒に酔いつぶれるジェルヴェーズ、そしてそんな環境で育つ娘ナナ。 そんなジェルヴェーズの負の部分ともいえる資質を受け継いだ娘のナナが、リボンを首に巻き町の少年たちの目を引きつけ彼らとともに走り去るラストシーンに、更なる悲劇の匂いを感じ取る。 その前にもそんなナナの幼くして既に男に媚びる術を本能的に身につけているナナの姿をみつける。店が繁盛し幸福の絶頂にあったジェルヴェーズの元にランチエが現れ、あろうことか夫のクポーはランチエと意気投合し彼を家に住まわせる。別れた男と夫とジェルヴェーズの奇妙な共同生活。そして娘のナナはランチエになつき、ランチエにかわいがられていることを誇示するかのように振舞うナナが描かれているシーンがあった。 こんな映像をみていると、エミール・ゾラが原作で描こうとしたのは、人間の逃れられない宿命の遺伝ではないかしらと思う。そしてジェルヴェーズやナナを生みだす土壌となる貧困社会。そしてジェルヴェーズが生まれ育った彼女の生い立ちや環境。そういった貧困が産み落とす悲劇がさらに次の世代に受け継がれ、更なる悲劇となっていく。 貧しき民の多くがそうであるようにジェルヴェーズもまた愛情のひとかけらも知らず、叩かれ、罵られる中で成長してきたのではないだろうか。その中で健気に明るく振舞う術を身につけ、優しい男にその優しさだけで惹かれていく。そうやって貧困の中で生きてきたのだろう。本能として染みついてしまった習性とでもいおうか。 貧困から逃れようともがくけれど、そういうふうにしか生きられない哀れな性だろう。そしてさらに貧困の底に沈んでいく。そしてそんな母親をみて育った娘のナナは男を踏み台に生きていく。 ジェルヴェーズから娘のナナへ…その生立ちが遺伝子に刻み込まれたものが形をかえて受け継がれる悲劇。 物語りの本当の悲劇性はここにあるのではないだろうか。 しかし映像で描かれているのは、孤軍奮闘するジェルヴェーズと自堕落になっていく男たちであり、家事職人の見習いとしてまじめに働くジェルヴェーズの長男はグージェとともにパリを離れる。 「私の人生の清らかな部分は、こうして消え去った」二人をそっと見送るジェルヴェーズの独白。 映像は俳優達の技も素晴らしいし、当時のパリの裏町の様子や庶民の生活の空気が見事に描かれていて、ルネ・クレマンの演出手腕を感じさせる。 けれど本当に描かなければならない貧困の土壌と、こういう風にしか生きられないジェルヴェーズの本能に沁みこんでいる宿命が描けていないのではないだろうか。そこまで切り込んでいないなと思う。そこまで切り込まずとも、ジェルヴェーズという一人の女性そのものに肉薄して描ききれていないのではないだろうか。そこを描いてこそリアリティではないだろうかと思うのだけれど……。 すくなくとも、観ている側にこういう苛立ちを覚えさせず、一つの女の物語として完結させてみせてほしかったと思う。 この原作を私は読んでいないのだけれど、そんな思いを強くもち、エミール・ゾラの原作をちょっと調べてみた。 ![]() 公開当時、大ヒットした原作の映画化ということもあったのだろう。日本ではキネマ旬報第一位で絶賛された映画のようだけれど、確かにルネ・クレマン演出による映像のリアルさは素晴らしいと思うけれど、私には、それ以上に胸を打たれる作品とは思えない。公開当時の社会的な価値観と今とでは少し違うだろうけれど…。 ゾラの原作を忠実に映画化したといわれているが、私がこの映画で感じたフラストレーションは監督であるルネ・クレマンというより、脚本がゾラが描こうとしたテーマまで掬い取ってはおらず、健気に貧しさと戦うも貧しさに負けて転落していく女を描き、観客の感涙を誘うという枠におさまってしまった作品となっているのではないだろうか。 かつて批評家時代のフランソワ・トリュフォーが、ルネ・クレマンについて「「ルネ・クレマン…すぐれた才能のある監督だが、長いあいだオーランシュ/ポストのコンビと一緒に仕事をして(「鉄格子の彼方」「禁じられた遊び」)、その才能を浪費してきた。」と「才能ある監督」だが「作家」になり得ていないとその覚え書きで指摘している。 私は本作をみてトリュフォーのその指摘に納得してしまうところはある。 ルネ・クレマンが脚本を超えて、どこまでゾラの原作に迫ったのだろうか? 脚本の枠の中で、彼なりにリアリティを追求したのにとどまったのではないだろうか? そんなことを思いながら観ていて、トリュフォーのこの言葉に出会い、この作品に関しては、やっぱりなって思った。 ただ、トリュフォーが批判した、「居酒屋」の組合せの監督はルネ・クレマン、脚本ジャン・オーランシュとピエール・ボストの「禁じられた遊び」は好きだけど…。 それとジェルヴェーズを演じたマリア・シェル。ヴィスコンティの「白夜」の女優だったんですね。 彼女の演技は素晴らしいと思う。 →<「居酒屋」②~何故、ルネ・クレマンは?…>に続きます。 監督: ルネ・クレマン 製作: アニー・ドルフマン 原作: エミール・ゾラ 脚本: ジャン・オーランシュ/ピエール・ボスト 撮影: ロベール・ジュイヤール 音楽: ジョルジュ・オーリック 出演: マリア・シェル/フランソワ・ペリエ/アルマン・メストラル/ジャック・アルダン/シュジー・ドレール/ジャニー・オルト
by mchouette
| 2008-07-16 00:00
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