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PICKPOCKET
1960年/フランス/76分 ロベール・ブレッソン監督「スリ(掏摸)」 1960年製作のこの作品、初めて観たのはいつごろだったろうか。 貧しく寡黙な一人の青年が、スリという行為に生きがいを求め、スリという所業にのめりこんでいく一方で、現実の営みから離脱し、人としての感情からも疎外されていく様を描いた作品で、それだけの映像といえばそれだけなのだけれど惹きつけられる映像で、放映の機会があるたびに幾度も観ている。今回も先日NHK・BSで放映されていて再見できたのは嬉しい。 何度観ても、たった76分の、ストーリーも、描き出される映像もわかっているけれど、観るたびになぜか新鮮さを覚える。 カメラは一人の青年を凝視し続け、青年の淡々と朗読しているような抑揚のないモノローグと若干の台詞のやり取りがあるだけ。その台詞も棒読みに近い語り。登場人物たちの動きも必要最小限にとどまっている。 いわゆる無駄な動き、台詞、感情を一切排除した映像というのだろう。 ただ、「スリ」の行為については、その手の動きをクローズアップさせ、青年と仲間が連係プレーで繰広げる数々の華麗なる手口を、いともしなやかに流れるような美しい映像で見せている。 この緊張感とスリルの中にしか、自分が生きている実感をもてない青年の高まる心臓の鼓動のように、音楽がドラマチックに彼らの行為を浮き彫りにしていく。 社会の中で行き場を見失った一人の青年の孤独とスリという冒険。 「本作は刑事ものではない。 スリという許されざる冒険に駆られてしまった若者の悪夢を 映像と音で描こうとする試みである。」 こんな字幕で始まる本作。 陸上競技が好きで、とりわけマラソンが好きで、黙々とひた走る彼らをテレビの画面でじっと見つめている。一人の人間が自らの肉体のギリギリの状態まで追い詰めながらなおも走り続けるこの人間ドラマをじっと見つめるのが好きな私の感覚には、こういう映像はスコンと私のツボに見事におさまってくれるんだろう。 この作品が好きで、監督がだれか、ブレッソンとは何者ぞなどとは頓着せず、ただこの作品が好きだった。 無一文になりアパートも追い出され、当てというものもなく、行き所もなく、パリの街を歩き回る一人の男を追い続けた、エリック・ロメールの初監督作品「獅子座」(1959)。 虚無に憑かれ自殺する日を決めた一人の青年の、自殺までの2日間の魂の彷徨を描いたルイ・マルの「鬼火」(1963) どちらも好きな作品だ。ブレッソンの「スリ(掏摸)」に通じる作風だ。 プロフェッサー・オカピーさんから教えていただいた情報によると、ルイ・マルはブレッソンの「抵抗」で助監督を務めていたそうだ。多分に影響を受けているだろう。 ロベール・ブレッソンについては観ている作品も少なくあまりよく知らず、『ウィキペディア(Wikipedia)』によると……、 「自らの作品群を「シネマトグラフ」と総称し、初期の作品を除き出演者にはプロの俳優を一切起用せず、感情表現を抑えた作風を貫くなど独自の戒律に基づいた厳しい作風が特徴。」とある。 また1956年のフランソワ・トリュフォーのインタビューで演出について語っている。 「私は物の映画と魂の映画をつくるつもりです。ですからひとは本質的に手とまなざしを見るでしょう。私は物のクロウズ・アップとまなざしのクロウズ・アップのあいだに、不変の平衡をもとめます。私はできるだけ現実につきまとい、なにもあたらしくそれにくわえないつもりです。しかし生活の現実と映画の現実のあいだには、一致したズレがあるでしょう。………私は「田舎司祭の日記」の方向にむかって仕事をしています。だがもっと大きな純粋さに、もっと大きな皮剥ぎに到達したいと思います。こんどは一人の職業俳優も使いません。そのほうが私はずっと自由です。」 シネマトグラフとは、リュミエール兄弟がスクリーンに映写できるシネマトグラフを発明し、映画を撮ったリュミエールのシネマトグラフが有名だし、ここから映画は始まったといわれているものだが、手っ取り早くいえば「活動写真」となるだろう。 そしてジャン・ルノワールが「リュミエール映画の偉大な点は、映らなかったこともまた観る者に想像させる、この点にある。作品と観客の関係は重要だ。」と語るように……。 また写真家ロバート・キャパやアンリ・カルティエ=ブレッソンたちが創設した写真家集集団「マグナム」の今も受けつがけれいる精神ともいえる信念は、一切の作意や嘘は排除し「撮影する対象や人間に対し敬意をもって撮影すること。ありのままを記録すること。」そして彼らが切り取った写真に映された被写体から、どれほど多くのものを感じることができることか! 前作の「抵抗」以来、プロの俳優は基本的には使わず、映画に出たことのない新人を起用し、彼らの演技や台詞といった無駄な贅肉を削ぎ落とし、彼らの身体の動きそのものによってリアルさを追及し、より本質に迫ろうとするロベール・ブレッソンの精神は、マグナムのありのままに撮り被写体の内面にまで肉薄しようとするマグナムの精神と通じるものがあるだろう。 私が魅せられたのは、突きつめれば、そこに存在する人物そのものを精細にとらえ、クローズアップし、彼の内面にまで至ろうとする、その研ぎ澄まされた映像が、卑近な例えで恐縮するけれど、肉体の限界を超えてひた走るマラソンランナーをじっと見詰め続ける私の触覚に敏感に触れるのだろう。 本作は原作がドストエフスキー。 スリという冒険に駆られた青年ミシェルが友人に吹聴する持論は「非凡な才能をもった人間は法を犯す自由が認められるべきだ」というもの。 ドストエフスキーの「罪と罰」で、頭脳明晰ではあるが貧しい元大学生ラスコーリニコフが「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」という独自の犯罪理論をもとに、金貸しの強欲狡猾な老婆を殺害し、奪った金で世の中のために善行をしようと企てるということをモティーフにしているんだろう。 ミシェルの場合この持論は、疎外感の裏返しでもあり、現実逃避ともいえるものであり、意固地に片意地を張って世間に背中をむけている寡黙で孤独な青年の姿が浮かび上がって来る。 そしてブレッソンは青年を刑務所にいれることで、彼に本当の孤独感を味わわせることで、青年を自分の心と素直に向き合えるところまで辿りつかせる。 ずっと以前から二人はすでに出会っていたけれど、ミシェルが現実そして自分自身の本当の姿から逃避し続けていた時は見えなかった愛にようやく彼は目覚める。 留置所の金網越しに互いの愛を確かめあうミシェルとジャンヌ。 「ジャンヌ、君に至るまでの道程はまるで迷路だった。」 ミシェルのこんなモノローグで終わる本作。 監督: ロベール・ブレッソン 脚本: ロベール・ブレッソン 撮影: レオンス=アンリ・ビュレル 音楽: ジャン・バディスト・リュリ 出演: ピエール・レマリ/マルタン・ラサール/マリカ・グリーン/ピエール・エテックス
by mchouette
| 2008-06-18 00:00
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