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THE DREAMERS
I SOGNATORI [伊] 2003年/イギリス・フランス・イタリア/117分/ R-15 20世紀後半のフランス現代史上、最大の出来事といわれる1968年「五月革命」 そして映画人達は、シネマテーク・フランセーズのアンリ・ラングロワ解任に抗議する街頭デモを行い、このパリの熱気をカンヌまで持ち込み五月革命の最中に開催されるカンヌ映画祭の是非を問うアピールへと変わり、ゴダールやトリュフォーら若手監督たちがカンヌ映画祭の会場になだれこみ映画上映を阻止し、この年のカンヌ映画祭中止の決定がなされた。 そんな1968年激動のパリを舞台に、詩人を父に持つブルジョワ家庭の双子の姉弟イザベルとテオ、そして交換留学でフランスにやってきたアメリカ人青年、共に映画狂の3人がみせる青春の危ういエロスの世界。 ![]() 街頭デモや抗議声明をアピールする当時の映画人たちのドキュメント映像も挿入され、随所にハリウッド黄金期の名作やヌーヴェルヴァーグへのオマージュが随所に散りばめられている。抗議声明を読み上げるジャン・ピエール・レオの実写映像とかぶさって当時のドキュメントフィルムでフランソワ・トリュフォーが映し出されるのもなかなか面白い。 みんな熱く燃えていた。 3人がゴダールの「はなればなれに」を真似てルーブル美術館を駆け抜けるシーンなどは、「はなればなれに」の3人の映像も挿入されており、やはりチンピラ青年2人とアンナ・カリーナの3人を描いた「はなればなれに」はこのシーンだけみてもワクワクしてしまう。 初めて観た時は、過ぎ去った我が青春に対する甘美なオマージュか? なぜに今頃ベルトルッチはあえてこの時代を? と、かつて生意気で早熟の天才と言われてレオナルド・ベルトルッチが60歳を過ぎて撮った「ドリーマーズ」 しかし、本作の脚本は原作者であるギルバート・アデア が担当しており、ベルトルッチが作品のメンタル面でどのように関わっているのか、逆に原作でどのように3人を描いているのかが気になるところではあるが…。 あの時代の危うさと脆さを描き出した映像表現と映像の美しさはやはりベルトルッチ。 そして気になるのは、テオ役を演じたルイ・ガレル。 ![]() 以後の彼にはキャラクターとしての色がつき始めたきらいがあるけれど、この作品の彼には無色透明なエロティックさがあり、危うさと純粋なまでの一途さを見せていた。 案外と彼が漂わせているこの透明感が、後半は殆んど3人とも全裸に近い姿なのだけれど、紛れもなく傷だらけの青春映画だと思えるものにしているんではないかしらと思うが、これもこの作品のガレルが気に入っている私の身贔屓な見方かもしれないけれど……。 そしてテオが投げた火炎瓶を引き継ぐような形で、当時20歳の学生だったフィリップ・ガレルは、手持ちカメラで撮影するも失われてしまったあの出来事のフィルムを手繰り寄せるように、2005年に、テオを演じた息子ルイ・ガレルを主演に五月革命の失敗から急速に収束していった学生たちの挫折と焦燥を描いた「恋人たちの失われた革命」を撮っているのも興味深い。 当時の若者たちにとって、「パリ五月革命」で味わった高揚と挫折は人生の出発点で初めて味わった生身の傷であり、それは生涯でただ一度の熱愛のごとき痛みと甘美さを残して通り過ぎていったといえるだろう。そして、停まったままの振り子を数十年たってようやく揺らせるようになったということかもしれない。 そして五月革命をはじめベトナム戦争をきっかけに先進諸国の学生たちの間で沸き起こった「革命」という運動は、労働者、知識人をまきこんだ大きなうねりとなるも、急速に終息していき、 60歳を過ぎたベルトルッチにとっても、我が人生を振り返った時、やはり鮮やかに蘇ってくるのはパリ五月革命の季節なのだろう。 あの時代を駆け抜けた若者群像をとてもストレートにかつ鮮やかに描いている作品だと思う。映画と時代と我が青春へのオマージュ。とても素直に語っていると思う。 10代で既にして熱狂的なシネフィルだったベルトルッチはイタリア人だけれど、監督デビュー前からロベルト・ロッセリーニとピエル・パオロ・パゾリーニ以外のイタリア人監督を認めないと公言する生意気な天才で、ジャン=リュック・ゴダールを始めとするヌーヴェルヴァーグの面々を兄貴分的な同胞と見なし、インタビューや記者会見でも一切イタリア語を使わずフランス語で押し通したというほどだったそうだ。共に映画狂の3人は直ぐに友だちとなり、マシューはイザベルたちの両親がバカンスで留守の間、彼らの家で共に暮らすことになった。イザベルとテオがみせる迷路のような危ういエロスの世界にマシューも次第に引きずり込まれていく。 双子の姉弟が住むアパートの迷路のような室内。このドアがどこに繋がっているのか、いきたい部屋のドアを探しあぐねるマシューの戸惑い。 青春とは、どこに通じるかも見えないそんな袋小路のような世界で、自分の居場所を必死に求めて走り回っていた時代かもしれない。 イザベルとテオは一卵性双生児の姉弟で、裸で一緒に寝るという近親相姦ギリギリの強い愛情で結びついている。ファッショナブルで全て知っているかのようにみえるイザベルだけれど実はバージンだった。イザベルにとってセックスはテオ以外の男性とは考えられないけれど、感性も考え方も全て共有する二人の間で唯一許されないのがセックス。そしてそんな二人にとってイザベルのセックスの相手は、二人が共有できる人間でならず、そんな白羽の矢が立てられたのが、映画狂のアメリカ人留学生マシューだった。 イザベルとマシューのセックスを境に、危うく保たれていて3人の関係が微妙に頼りなげに揺らめき始める。頭で考えていることと生身の感情の間で鬩ぎあうイザベルとテオ。そんな二人の間で真剣にイザベルを愛そうとするマシュー。 観念と理屈の世界で生きてきた現実に対する脆弱さ、青春というものの生身の姿が露呈する。作家活動に埋没し反戦の意思表示をしない父に対するテオの性急すぎる批判。ベトナム戦争に参戦しないマシューに対するテオの批判、言葉で革命を弄繰り回しているだけのテオに対するマシューの批判。ブルジョワ学生たちの理論武装の軟弱な実態も垣間見せる。 一人の人間の抱える矛盾を一卵性双生児という形で、時代に対する批判精神を滾らせるテオと、愛する者の手を不安げに必死にまさぐるイザベルという二人にわけ、そこへ本質的には保守的なマシューという青年を投げ込むことで二人の内にある保守の部分を揺さぶらせ、カウンターカルチャーが台頭し時代の価値観が崩壊し大きく変わりゆく中で揺れ動く60年代後半のあの時代の迷路にも似た揺らぎをベルトルッチは描きだしている。 学生たちの投石で目覚めた彼らは、デモ隊の呼びかけに弾かれたように外に出る。デモ隊に加わろうとするテオたちを暴力はいけないと必死にとめるマシュー。火炎瓶を手にしたテオが警官たちに向かって火炎瓶を投げつける一瞬。二人はマシューから離れ、革命の火の手が上がる方にひきつけられるように飛び込んでいく。一人取り残されたマシュー。 このラストでテオが火炎瓶を投げる瞬間。 テオを突き動かしたのは、彼が読みふけっていた理論書でかかれていたイデオロギーとか主義・主張とかといったものではなく、燃え滾る溶岩の炎が噴出する似た熱さだろう。 そしてこのテオがみせるこのシーンには、この作品に鬱々と垂れ込めていた閉塞感を突き破るものがある。殆んど室内だけで繰広げられる、3人の奔放でデカダンの匂いが立ち込める彼らの姿には痛ましさすら感じた。それを突き破ったテオの行動には、無謀だけれど見えない明日に向う青春を感じる。 今も生々しく蘇るのは何かに突き動かされて振り上げた火炎瓶を持ったあの手の感触であり、あの時の胸に突き刺さるほどの高揚感だろう。 あの時代の青春とはこの一瞬に象徴されているといっていいだろう。 ラストのこの一瞬を、ベルトルッチは本作で描きたかったのではないかしらと観るたびに思えてくる。 本作はエヴァ・グリーンの映画デビュー作であり、均整のとれた裸体を惜しげもなく披露し、本作での彼女はやはり魅力的だった どうも私の中で、火炎瓶を投げるテオの姿が夜の闇の中、燃え盛る炎にくっきりと浮かび上がったシルエットが頭にこびりつき、このシーンがとても印象的だったから、つい私の思い入れも強くなってしまった感ありの文章になってしまったようだけれど、極めて私的なブログと思っているから、まっ、いいか。これも含めて私の本作の感想。 監督: ベルナルド・ベルトルッチ 製作: ジェレミー・トーマス 原作: ギルバート・アデア 『ドリーマーズ』(白水社) 脚本: ギルバート・アデア 撮影: ファビオ・チャンチェッティ 出演: マイケル・ピット/エヴァ・グリーン/ルイ・ガレル/ ロバン・ルヌーチ/アンナ・チャンセラー /ジャン=ピエール・カルフォン/ ジャン=ピエール・レオ
by mchouette
| 2008-07-12 00:00
| ■映画
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