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L' ENFANT SAUVAGE
THE WILD CHILD 1969年/フランス/86分 フランスの医師で聾唖教育者であったJ・M・G・イタール(1774~1838)の「アヴェロンの野生児」の記録をもとに、フランソワ・トリュフォーが映画化した作品。 インタビューで、トリュフォーは本作について、ドキュメンタリーとして撮る気はなかったと語っている。トリュフォーはドキュメンタリーを嫌悪するとも語っている。カメラの前に立った人間のぎこちなさは、カメラの存在によって作られたぎこちなさであって、日常生活の中でみられるぎこちなさとは違うと語り、シネマ・ヴェリテでは映画(シネマ)の時間が歪められ、従って真実(ヴェリテ)が歪められていると語っている。 トリュフォーは、むしろイタールの記録の文体そのものに惹かれたと語っている。 「アヴェロンの野生児」とは、1799年、カンヌの森アヴェロンで完全な裸体で獣のような状態で発見・捕獲された子どもで、診断の結果11~12歳と推定された。喉を鋭利な刃物で切られた跡があることから、恐らくは3~4歳ごろに死ぬのを承知で捨てられだのだろうと推察された。パリに移送されたこの少年を、多くの専門家たちは知的障害で捨てられた子どもであり、治療、改善の余地なしとしたものを、軍医だったジャン・イタールが引き取り、ヴィクトールと名づけて5年間にわたる教育を施し、それを詳細に記録したものである。 そして、このイタールの記録を元に映画化された本作でトリュフォーが描こうとしたテーマは、野性の少年に対する「エデュケーション」と「コミュニケーション」。そしてそこには必ず「愛」が必要だということだろう。 ![]() 身体を揺すらせ月を仰ぎ、雨が降る中で、全身で雨の感覚を受けとめ、室内で必死になって言葉を教え込もうとするイタールをよそに、少年の関心は窓の外の鳥たちに向けられているといった、拘束された状態から、野性に戻ろうとする少年と、イタールとの間で繰り広げられる相克、葛藤、そして人間としての知覚や感情を身につけていく様を描いている。 そして、そんな籠の中の鳥のような家から少年は逃げだし森に帰るも、木に登る術さえも忘れてしまっていた。そして再びイタールの元に戻ってきた少年は、駆け寄った家政婦のゲラン夫人に抱きつき、ゲラン夫人も少年にキスをする。そしてイタールはそんな少年を父親的な慈しみで受けとめる。 少年が発見された村でも一人の老人は、慈しみをもって少年に接した。その老人に対してだけは少年は暴れることなく、心を落ち着かせ素直だった。 少年への教育にどうかすると性急な結果を求めようとするイタールと、無学ながらも心で少年を受け止めるゲラン夫人。少年をあるがままに受けとめる隣家の若夫婦。 森に置き去りにされ、人と接することなく生きてきた野性の少年を、人間社会へ回帰させるための教育を試みる。イタールは「人と人とのコミュニケーション」を少年に教えようと、その手段として言葉を認識させようとする。しかし少年にとって本当に必要なものは言葉よりもまず愛情だったのだろう。 そして少年を教育するイタール博士をトリュフォー自身が演じている。「俳優としての野心や利害を忘れて、自分よりも、まず何よりも子どもを大切にできる人」というのがイタール博士を演じる俳優の条件だったが適役がおらず、映画の中で少年をいたわり教え込む役目は、実は演出家の仕事ではないか、ということで自身が演じたそうだ。 冒頭で「ジャン=ピエール・レオへささげる」という献辞があった。 親から見放され感化院に入れられ、精神的に「野性の少年」だったトリュフォー。そして映画「大人は判ってくれない」から、ずっとトリュフォー自身でもあるアントワーヌ・ドワネル演じ続けているジャン=ピエール・レオ。これもまたトリュフォーの自伝的作品ともいえるだろう。 この映画の前までは、映画を撮っている時、ジャン=ピエール・レオと自分自身を同一視していたとトリュフォーは語っている。トリュフォーは「大人は判ってくれない」の撮影中に、分身でもあるジャン=ピエール・レオにカメラ・テクニックや映画のトリックを詳細に教えていったそうだ。これは、とりもなおさずイタールと野性の少年との関係と重なるものである。 映画そのものが、フランソワ・トリュフォーにとって彼の人生そのものなんだって、彼のインタビューを読んでいてつくづく思う。そんな彼の映画人生のなかで「野性の少年」は、アントワーヌを引きずり続けていた彼にとっては、トンネルを抜け出たエポックともいえる作品でもあったのだろう。とはいえ、「野生の少年」以降のアントワーヌが、女たちから「あなたってダメねぇ」などと言われたりするのには、「そうなんだ」ってクスリとしてしまう。 そして、イタール医師の試みと、それに対するヴィクトールの反応が綴られており、さほどドラマティックな場面もあるわけではないのだけれど、二人のやりとりになぜか目を反らせられない。 静かな場面だけれど、その映像から少年の内面の葛藤が伝わってくるからだろう。 サイレント映画を思わせるようなモノクロの映像。人間社会に回帰しようとする少年を暖かく見つめる眼差しにも似た、柔らかさのあるモノクロ映像の撮影は、「天国の日々」などで素晴らしい色彩映像をみせてくれたネストール・アルメンドロス。本作で初めてトリュフォー作品の撮影を手掛け、以降、度々トリュフォー作品に彼の名前をみる。森の中、うっそうと生い茂った葉が覆い尽くす空間で、木の幹にもたれ体を揺らしながら空を仰ぐ少年のシルエットは、猿でも獣でもなく紛れもなく人間。冒頭のこんな映像で、少年を人間として描いていこうとする作品の愛と呼べる意思を感じる。蝋燭の炎のシーンも印象深い。 子供を教え導く時に、いかに愛情が大切かということを本作で描き、そしてその後「トリュフォーの思春期」(1976)でもトリュフォーは、この「愛」について小学校の先生を自身の代弁者として熱く語っている。 愛に見捨てられ野性化し、それでも一人で生き延びてきた少年に対するトリュフォーの人としての「愛」が感じられる作品だ。そして、その「愛」とは少年だったトリュフォーが渇望したものであり、また不良少年だったトリュフォーが、15歳年上の批評家のアンドレ・バザンに助けられ、映画批評を書き始め、映画監督の道を歩き始めたという、世間から外れた少年が大人の愛によって社会に復帰していった、そんな彼自身と重なる。 本作品に込められたトリュフォーの思いを知るほどに感慨深い作品である。 監督: フランソワ・トリュフォー 製作: マルセル・ベルベール 脚本: フランソワ・トリュフォー/ジャン・グリュオー 撮影: ネストール・アルメンドロス 音楽: アントワーヌ・デュアメル 出演: ジャン=ピエール・カルゴル フランソワ・トリュフォー ジャン・ダステ フランソワーズ・セーニエ
by mchouette
| 2008-03-12 00:00
| ■映画
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