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最近公開の映画に少々不満気味もあり、買ったままだった……ハネケの作品って、さあ観ましょ!ってウキウキ気分ではなくって、正座をして居ずまいを正してからでないと、ちょっと手を伸ばすところまでいかないところがあって……「ミヒャエル・ハネケ DVD-BOX」のうちVOL.1を観る。
それぞれに、ハネケの日本未公開作品の初期の作品が集録されているもので、特典映像にカイエ・デュ・シネマの元編集長セルジュ・トゥビアナのインタビューが収録されていて、作品について、あるいは自身の映像作家としての姿勢、映画そのものについてハネケが語っているのがとても興味深い。 ハネケ作品には日常生活のリアルなリズム感と独特のテンション…日常の中に潜む非日常が絶えず感じられるようなテンション…最近の作品にどうかすると距離感を抱いてしまう私には、ハネケ作品を観て感じるこのリズムとテンションが、実にしっくりと馴染んで、心地よい。 BOX/VOL.1に収録されているのはハネケの初監督作品である「セブンス・コンチネント」に始まる「感情の氷河期・3部作」と称される初期3作品が収められている。 「セブンス・コンチネント」(1989年) 「ベニーズ・ビデオ」(1992年) 「71フラグメンツ」(1994年) 3作品とも、新聞記事からテーマを得たもので、「セブンス・コンチネント」は一家心中したある家族の3年間を描いたもの。「ベニーズ・ビデオ」は少年が少女をピストルで撃ち殺すという少年犯罪に題材を得て、少年とその両親を描いたもの。「71フラグメンツ」は一人の大学生が突然ピストルを持って銀行に行き無差別に銃を乱射し、彼自身も頭を打ち抜いて自殺を図ったという事件から、青年と、銀行にいて被害にあって射殺された人たちの、事件が起きるまでの数日間の日常生活の断片を描いている。 これらの初期作品は、ハネケが映像を通して描こうとしているテーマ、彼の映像スタイル、リズムといったものが、とてもシンプルにかつストレートに描かれており、とても分かりやすい。 というか、ハネケ作品は難しいといわれるけれど、彼の作品には確固たるファジーさがあって、そこに、観ているものが自分なりに考える、その余地があって、押し付けがましくなくって、一方的ではなくって、「彼は今黙っているけれど、こんな風に考えているんだろう」とか、目の前に描き出された断片から、観察者の眼でもって登場人物たちの内面や状況を推し量りながら観ていく。こういう緊張感は心地よく、ある種の充足感がある。 ハネケは「人は作品の中で答えを与えられることに慣れている。しかし、人生で答えが分かることなどは決してない。現実は断片だ。断片で理解している。小さな断片の総和が観客に向っていささかの可能性を開く。知っていることと理解することとは別だ。」「本なら言葉で多くのことを説明できるが映画は見せなければならない。それがメディアの特性だ。言葉だらけの映画もあるが、それは映画的とはいえない。答えを出すのは観客を安心させ、なだめるだけのことだ。」と語っている。 目の前に現れた事柄の事実は一つだけれど、その中には無数の矛盾する真実が存在する。イエスでもノーでもない、心の内を突き詰めていけば矛盾した感情が存在する。言い切れるものなどない。イエスとノーの隙間から零れ落ちるものを抱きしめたい私には、だからハネケの作品は、今のところ相性の良さを感じる。 ハネケは「映像を通して僕も探している」と……。 「セブンス・コンチネント」THE SEVENTH CONTINENT 「一家心中をした一家が、死ぬ前に持ち物の一切合切を壊した」という記事を読んだことがきっかけになって作られた映画。地球上には6つの大陸がある。この映画の題名にもなっている「セブンスコンチネント=第七番目の大陸」とは地球上には具体的に存在しない大陸のこと。彼岸の世界でもあるのだろうか。 ハネケは本作を「富める国の肖像」だと語っている。 あらゆる物が道具で支配されている世の中。 道具に支配されていることへの破壊。 車の中にいて洗車の各工程が終わるまでじっと座っているシーン。カートを押して棚から次々と食材を取り、レジに並んで、終われば押し出されるように前に進む…文明国の享受と感じる人もいれば、そこに人間性の疎外と感じる人もいる。 自殺を決めた家族は死ぬ前に、彼らの生活を囲んでいたありとあらゆる物を破壊する。紙幣は破り捨てられトイレに流される。 何がこの一家をここまで駆り立てたのか? マスコミは、アレコレとこの一家について自殺の原因について説明しているが、ハネケは「説明は行為の持つ力を卑小化する。」と語っている。 一つの事柄として感情を排除して彼らの日常生活の断片を提示する。唯一、感情がほとばしるシーンは、父親が水槽を壊した時、水が溢れ、中にいた魚たちが床の上ではねる。生命の破壊。少女は思わず「やめて!」と泣き叫ぶ。 この作品もそうだが、他の2作品についても同様に、ハネケは説明的な台詞や感情は一切排除し、見るものに、彼らの日常の断片を提示し続ける。そしてその断片の中に挿入されるのはテレビやラジオといったメディアを通して世界のニュース、主に世界で起きている紛争でありテロであり、それらは人の死にまつわるニュースである。 血肉の通った人間の死が活字になって報道される時、一つの事件として片付けられ、彼らの姿や感情や思いといったものは、そんな日々の出来事の中に埋もれてしまう。抹殺される。 「ベニーズ・ビデオ」BENNY'S VIDEO 少女をピストルで撃ち殺した少年に父親が「なぜ?」と彼の行動を訊ねる。少年は「どんなものかと思って……」と答える。 新聞で少年が犯罪について語っていた言葉であり、少年犯罪ではこの言葉が犯罪を犯した少年たちの口からよく聞かれる言葉だ。 現実と関わりを持てない人間の言葉だとハネケは語っている。 「人はメディアを通して現実を人生を知り現実を知る。そして欠落感を覚える。もし私が映画しか観なければ現実は映像でしかなく、私は現実の“外”にいる。そして、それがどういう感覚か知りたい」とハネケは本作について語っている。 あらゆるものをビデオに撮り続ける少年。 「少年はビデオで現実を集めることで、現実をコントロールできるという幻想があった。これは危険な幻想だ。なぜ、人はバカンスに来てビデオを撮るか?映像を撮ることで対象を所有すると思っている。メディアによってもたらされた強烈な欲望だ。メディアを通して知り得たことだけを現実と信じ込む危険がある。」さらにハネケは「映像は反応しない。だから緊張もないし、ずっと見ていられる。映像に対して幻想を抱くことはかまわないが、だが人間に対しては許されない。危険だ。ホラー映画はこうしたことから生まれた。実害はないが恐怖を楽しめる。」と映像と幻想について語っている。 「映像はトリックだ。映像は現実より熱い。映画は現実をもてあそぶようにできている。それを現実と混同すると危険だ。」 あらゆる情報がメディアを、映像を通して知らされる現代という時代に対する警鐘とも言える。 「自分の罪に対する責任について、正義とか社会のモラルに向き合った時、自分の感情とどう折り合いをつけていくのか。」 少年の犯罪を知った両親は、犯罪の隠蔽を図る。両親の言われるままに母親と一緒にエジプト旅行に行き、戻ってきた時には父親の手で部屋はすっかり片付けられていた。 夜に密かに話し合う両親の様子すらビデオに撮っていた少年は、その自らの犯罪のビデオと、その後のビデオを持って警察に行く。淡々と事件について話す少年。警察を伴って家に戻った少年は、両親に一言「ゴメン」といって部屋に行く…。 少年が何を思っているのか? 贖罪か? 両親に対する抗議か? 彼が心の奥底で何を思っていたのか? その断片から考えていくしか、捉えるしかない。 「71フラグメント」 71 FLAGMENTS OF A CHRONOLOGY OF CHANCE 「これは私が生きている、私が知っている社会のポートレートだ」とハネケは語っている。 フラグメント=断片 ウィーン市内の銀行で、19 歳の大学生が銃を乱射、3人が死亡し、その後この青年も頭を打ち抜いて死ぬ。本作では、彼らの日常生活の断片と同時に、世界中で起きている悲劇的な事件のニュース映像が流されている。その中でマイケル・ジャクソンの性的虐待に関するニュースが異質なニュースとして挿入されている。そして、銀行で起きたこの事件もニュースで報道される。 世界情勢も、芸能ゴシップも、テロも、殺人も、そしてこれら3つの物語も、我々が眼にし、知りうる現実は、全てが断片(フラグメント)にしか過ぎないということか? そして、知るということと、理解するということは別物だ。 一切の解答を提示せず、観客にその答えを委ねるハネケの、これは現代に生きる、映像をとおして様々な情報を、そして一方通行の情報を受け入れている私たちへの挑戦でもあるのかも知れない。
by mchouette
| 2008-01-18 15:37
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