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やっぱり好きだわ、オゾン!
![]() 2000年/フランス/90分 「焼け石に水」を改めてみると「スイミング・プール」「ふたりの5つのわかれ路」「まぼろし」「ぼくを葬る」と続く長編作品に通じるものを感じる。人間の内面を深く静かに描いたこれらの作品の素地を、オゾンはこの「焼け石に水」ですでに確実に固めているなって思います。 計算された映像、効果音、贅肉のない見事な演出。オゾンという映像作家のクォリティの高さにうなってしまう。 「焼け石に水」には鳥肌が立つほどの澄み切った鋭さを感じる。 この作品はやっぱり好きだわ。初めて観た時よりさらに好きになりました。 恋愛関係とは、トキメキの出会いがあり、幸福な蜜月期間があり、日常の中で、そんな刺激的な日々もマンネリ化してきて、惰性となり、新しい刺激が欲しくなり…… 相手が変わり、時代が変わり、状況が変わっても、この堂々巡りは変わらない。 だから恋愛をテーマにした映画や小説が尽きることなく出てくるのでしょう。 例えば男と女の場合、結婚がハッピーエンドで終わる物語も多くあります。 オゾンの今回の「焼け石に水」も関係がテーマ。 「カップルについての映画を撮りたいと思っていた。一緒に暮らすことの難しさ、ルーティンの毎日を耐える難しさを映画にしたかった」とオゾンは語っています。 ニュージャーマン・シネマの代表と呼ばれ、37歳の若さで亡くなったドイツの映画作家ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーが19歳のときに執筆したという未発表戯曲を原作にしています。 それにしても、こうした未発表戯曲にしろ、彼のセレクトする楽曲をみても、曲自体は良く知られているけれど、歌っている歌手がステージで歌っただけの曲だったりとか、そんな曲をどこからかオゾンは見つけてくるそうだ。楽曲も含め映像表現に関して、彼はとても貪欲かつ精力的に勉強している。そんな見えない部分の一面も感じてしまった今回の作品。 今回ブログでオゾンについて記事UPしようと、製作年順に作品を追って観ていってますが、彼にとって映画作品は、彼の中にある映像を表現するための実験の場ではないかしらと思えてくる。試行錯誤の実験というのではなく、彼の中にすでにほぼ90%は映像化できているものを、役者を使い、音をいれ、音楽を入れ、どこまで映像表現できるか、どのような手法が可能かといった表現方法を落としこむという意味での実験の場。常にそういう姿勢で彼は一作一作撮っているんではないかしらと思えてくる。そして、確実にものにしていってると思う。 ![]() 青年と恋愛関係を持とうという意図を持って近づいた男と、何の意識も持たず彼を受け入れた青年。 より意識するものと、無自覚なものとの優劣の力関係は明らか。 「日常のセリフから生まれる緊張感」 二人芝居の雰囲気。出会いの始めは、青年は男に対して優位に感じていたのだろう。二人の会話のやり取りからも男が青年に気遣っている。そんな青年の思い込みの優越感が一瞬にして崩れる瞬間がある。 「送ってくれます?、遠いから」「いいとも、その時がきたら」 一瞬、青年と男の間に一つの間が生まれる。次の瞬間、青年が男の気を引こうとする。 力関係が一瞬にして転じる。 こんな微妙な緊張感あるセリフのやり取りが面白い。 共に生活する中でも二人の拮抗する力関係は、さらに生々しさを見せる。 寄り添えば邪険にされ、拒まれれば、男の愛を確認しようとさらにすり寄る。 離れれば追ってくる。そんなシーソー関係の中で、フランツはレオポルドへの愛に囚われ、翻弄されていく。 二人が交わす日常会話のやりとりの一つ一つから、男から青年へ、青年から男へと、拮抗の玉が行きかう様が面白い。 レオポルドが横暴な亭主なら、フランツは世間知らずの新妻といったところでしょうか。 はじめにとびきりの甘くて美味しい蜜の味を教えられたフランツは、レオポルドとの関係に従属し、彼に愛されるために彼に尽くす。 恋愛関係にとどまらず、力関係と言うものは人、社会、あらゆる関係の中で存在する。 「恋愛関係」という様相をとりながら、人間関係の本質に迫るテーマ。 ファスビンダーは「愛は存在しない。存在するのは愛の可能性だけだ」と語っている。 ファスビンダーの戯曲が素晴らしいのか、それを取り込んだオゾンの演出手腕が優れているのか。 「クリミナル・ラヴァーズ」でみせた完成度に加え、二人の力関係の中で弱者となったフランツの内面の心理描写の繊細さがこの作品ではとても際立っている。 ![]() 物語は舞台劇のように4幕から構成されている。 舞台はレオポルドの部屋の中 第1幕:レオポルドとフランツの出会い 第2幕:レオポルドとフランツの日常 第3幕:フランツの元恋人のアナが関係を復活させるためにフランツを訪ねてくる。 第4幕:レオポルドの前の恋人で、男性から女性へ性転換手術をしたヴェラが尋ねてくる。 戯曲の味をそのまま生かしているのか、舞台仕立ての仕掛けが面白い。 冒頭、舞台のような設定。暗闇の中。真ん中に見える白い長方形。それが開かれ人が現れたことからドアであるが分かる。そのドアを開けて入ってきたのは中年男性、続いてまだ若い少年ぽさを残した美青年。電気が点けられると室内であることが分かる。ソファを真ん中に家具でさえぎられた狭い視界。そして観客に対し正面を向いた演技。こんな演出から、閉ざされた一つの空間を感じとってしまう。観るものもいやおうなく彼らと正面から向き合うしかない。 映像と観るものとの間に緊張感を生み出すための仕掛けだろう。 何かを暗示させる映像、効果音は見る側のイマジネーションを刺激する。 …いろんな意味が見えてくる。一筋縄では捉えられない。 …観るものは映像に、登場する人物の心の内に入り込み共鳴する。 映像からうけるこんなイマジネーションには身震いしてしまう。 「窓枠の肖像画」 窓から外を眺めている二人を、外からカメラが二人を切り取る。 それぞれの窓枠に、それぞれ別々に収まっている。 室内では二人が会話しているのに外から見れば一人ひとり別々に切り取られている。 二枚並んだ肖像画に見える。 不安と空疎さな表情がその肖像画から漂ってくる。不条理な辛さ。 この構図は、見る人によっていろんな意味に解釈できると思う。…囚われた存在、孤独な存在、内なる存在… 「雨の音」 レオポルドとの関係に疲れていたフランツは、訪ねてきたアナと「結婚」という安定した関係に逃げ込もうとする。 外では降りしきる雨の音が、室内の二人にかぶさり、その音がいっそう激しくなる。 こういう効果音の使い方は本作で初めてではないかしら。 「まぼろし」「ぼくを葬る」の波の音の使い方に繋がる。 全てを洗い流してアナとやり直すための激しい雨の音? それとも、フランツの心の叫びをかき消すように激しく降る雨の音? フランツは結婚より自由な愛を求めたはずが、愛の呪縛に疲れて逃げようとする。けれど逃げよとするほど、フランツはアナとの関係では感じなかった レオポルドとの過去の幸福だっためくるめく日々に執着する自分がいる。 「結婚して幸福になるのよ」というアナ。 「幸福て何?」「愛って何?」 激しい雨の音から、フランツの心の叫びが聞こえてきそうな痛みを感じる。 ![]() 「愛している」といっても、「愛の正体」が見えない。 そんな不安と焦燥があの肖像画なのだろう。 レオポルドは求めたはずの目の前の愛が、色褪せ飽きてくる。 アナは「結婚」によってフランツとの愛を形にしようとする。 フランツは求めてもすれ違うレオポルドの愛に翻弄され自らを見失っていく。 そしてヴェラは、レオポルドとやり直したいと願う。 「堂々巡りの愛」 愛を求めた方が愛を得たときから、いとも簡単に愛を棄て、新しい愛に移っていく。 愛を求められた方は、その愛に応えたときから、愛にしがみつき、愛を繋ぎとめようとする。 日常の中で色褪せる愛 逃げ去る愛 それを追う愛 追われる愛 求める愛 与える愛 すがりつく愛 繰り返される愛の形 愛の闘争。 堂々巡りの愛 「美しい肖像」 レオポルドは、倦怠と惰性の日常に埋もれ、色褪せた愛から、アナという新しい「愛」を求める。 アナとセックスするレオポルドをみて、フランツは棄てられたことを知り毒薬を飲む。 床に横たわるフランツにヴェラが寄り添う。 ともに棄てられ、傷みを知った者同士、顔を寄り添わせた二人は諦めたものだけが見せるある種の悟りともいえる穏やかな表情を見せている。二人の美しい肖像。 死んだフランツの上をまたぎ、アナのところへもどるレオポルド。 愛の醒めた人間の残酷な愛の一面 レオポルドの愛を得られず、行き場所を見失うヴェラ。 一番無邪気な存在はアナ。けれどアナもまた同じ不幸を味わうだろう。 閉塞した空間に空気を入れようと窓を開けようとするヴェラ。窓は決して開かず窓枠の中で、堂々巡りのその結末にうなだれるヴェラの顔が肖像画としてラストで浮かび上がる。 とても美しい肖像画。 今回フランツ君は少年の雰囲気を残した美しい男の子。この役、オゾンは「ぼくを葬る」のメルヴィル・プポーにもオーディションの声を掛けたそうです。プポーはオーディションは好きではないから断ったそうです。プポーが演じていたら、彼は20歳ごろから目に妖しさが潜んでいたから、もう少し艶かしいフランツになったかもしれない。今回のフランツ君はGoodだったと思う。そして、そんな美しい青年に悲劇の毒を飲ませるのですから、これはもう美しく感動してしまう。オゾンの役者選びのセンスも今回も満足のキャスティグ。そして、フランソワーズ・アルディが歌う「夢」がフランツ、ヴェラの心に重なる。 この曲は大好きになり、早速フランソワーズ・アルディのCDをアマゾンで注文。ただこの曲は探しても入ってないんです。オゾンはこんなお宝曲をどこからか探してくる。 最後に「これは喜劇?」 第4幕で登場人物4人が揃い、とても微妙で緊張した空気が張り詰めた中、突然、サンバ「僕とサンバを踊ろう」のリズムに乗って踊りだす4人。 アナ・レオポルド・ヴェラ・フランツ…この順番は何か意図があるのかしら。観ている方は修羅場見るよりサンバ・ダンスを見せられる方が良い。こんな「どつぼの状態」に陥ったらサンバでも踊ってぶった切るしかない状態。違和感なくこれを観させるというのが、又これをもってくるとこなどはさすがと思う。(そう思うのは私だけ?かな)。これはファスビンダーの戯曲にはなく、きっとオゾンのオリジナルなんでしょうね。この辺がドイツ人とフランス人の感覚の違いかもしれない。 ヴェラを演じたアンナ・トムソンのインタヴューによると オゾンはこの映画はコメディだと言ったそうです。「撮影が終わってから、フランソワが私のところに来て、『アンナ、ラッシュを見たよ、とても暗い映画だ、ちっともおかしくないんだ、でもダンス・シーンは最高だよ。』って言うんです。」と語っていました。 オゾン自身は 「僕には暗い側面こそが、力を、笑いをもたらすある種の距離感を生んでいるのだと思います。この理由から、特にレオポルドのフランツとヴェラに対する自然な残酷の中で、コミカルな状況を押し出してみたかったのです。ダンス・シーンをある種、人物を突然台詞から解き放ち、感動的でグロテスクな感じで、彼らの身体を使って表現したのです。」と語っていました。 オゾン独特の目線外し。 深刻さも突き詰めれば喜劇になる。 オゾンは、とても優しい目で人間を見つめている人! 監督:フランソワ・オゾン 製作: オリヴィエ・デルボスク / マルク・ミソニエ/アラン・サルド / クリスティーヌ・ゴズラン 原作:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー 脚本:フランソワ・オゾン 撮影:ジャンヌ・ラポワリー 出演: ベルナール・ジロドー(レオポルド) マリック・ジディ(フランツ) リュディヴィーヌ・サニエ(アナ) アンナ・トムソン(ヴェラ) オゾンを見ていて、ブログでこうして彼の作品について感想などを書き始め、彼の映像をみていて、重なる人物がいる。あくまでも私のいつもの根拠のない直感でしかないのだけれど、オゾンと彼とは、クリエイターとして、対象物にアプローチする姿勢とか仕方とか、表現するプロセスといったものについて、その根底に同質のものが流れているような気がする。 平野啓一郎 1975年生れ。1998年、京都大学在学中に『新潮』8月号に第一小説『日蝕』を投稿、前代未聞の一挙掲載がされ(同人誌でない文芸誌がこのようなことをするのは、非常に珍しい)、衝撃的デビューを飾る。1999年『日蝕』が第120回芥川賞受賞(当時最年少タイの23歳。但し月数も考慮すると、平野は丸山健二より約5ヶ月年長)。ヨーロッパ中世の異端審問の世界を描いた「日蝕」の美しい文語体に惹きこまれるように読み、ついで二月革命前後の19世紀パリを舞台に、音楽家のショパンと画家のドラクロワの実在の二人の芸術家を主人公に据えて近代ヨーロッパの精神史を描き出した「葬送」。彼の作品は、滑らかでいてその重厚なタッチが、私の中でとても心地のいい重さの充足感をもたらしてくれる。 そんな彼が鮮烈なデビューの頃だったと思う。インタビューで、「物語は映画をみるように僕の中で映像が表れるんです。僕はその映像を文章に綴っていくだけです。」と語っていた。 数年前の記憶で読んだ文書も定かでないのですが、正確ではないですがほぼ同様のことを語っていました。この彼の言葉が頭にずっと残っていて、今回オゾンの映像をもう一度見直していると、平野啓一郎のこの言葉がいつも頭に浮かんできた。オゾンもきっと彼と同じように自分の描きたいテーマについては、やはり映像として捉え、それを脚本に落としこむことで対象化させ、再び映像の世界で表現するという作業があるんじゃないかしら。 そんなことを、彼の作品を観るたびに、観るごとにそう思えてきてしようがない。
by mchouette
| 2007-07-15 05:54
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