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北イタリア・トスカーナ、シチリアを舞台に兄弟で映画を撮る
歴史と寓話の映像作家~タヴィアーニ兄弟 兄弟で映画を撮っているといえば、 ■アメリカのコーエン兄弟 (兄:ジョエル・コーエン 弟:イーサン・コーエン) カンヌ映画祭の常連といわれ「バートン・フィンク」「ファーゴ」「バーバー」など同映画祭での受 賞歴も多い。 ■ベルギーのダルデンヌ兄弟 (兄:ジャン=ピエール・ダルデンヌ、弟:リュック=ピエール・ダルデンヌ) 「イゴールの約束」「ロゼッタ」「息子のまなざし」「ある子供」など一貫して社会の底辺に生きる若者たちを撮り続けている。 最近では「バウンド」「マトリックス・シリーズ」を撮ったアンディ・ウオシャウスキーとラリー・ウオシャウスキー兄弟も共同で脚本・監督している。「マトリックス」の撮影現場では一人がカメラを覗き、一人が演技指導している。「こういう時、二人だから便利なんだ」と和気藹々で阿吽の呼吸がみえる。 コーエン兄弟も一応、監督はジョエル、製作はイーサンという風にクレジットでは分かれているけれど、実際はすべて二人で行なっていて役割なんかはごちゃごちゃだそうだ。特にコーエン兄弟の場合は、二人で一人みたいなところがあって、同じ感覚を共有しているという印象を強く持つ。 そして、 ■イタリアのタヴィアーニ兄弟(パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ兄弟と表記される) 兄:ヴィットリオ・タヴィアーニ(1929年9月20日生) 弟:パオロ・タヴィアーニ(1931年11月8日生) 彼らもまた、コーエン兄弟、ダルデンヌ兄弟と同じく、原案・脚本・監督を二人で行ない、撮影現場でも二人で監督している。 やはり二人の間で考え方の違いは起るそうだ。けれど役割分担せず、二人とも交互にカメラのファインダーを覗き「同等の資格で映画を撮る」のだと、そして二人の正反対の性格がお互いを補完しあっていると言っている。ちなみに兄のヴィットリオは乙女座、弟のパオロはさそり座だそうだ。 ![]() 私が彼らの作品を知ったのは、カンヌ映画祭でグランプリを受賞した「父 パードレ・パドローネ」から。日本でタヴィアーニ兄弟の作品として初めて公開された作品でもある。 以後、タヴィアーニ兄弟は一貫してイタリア北部のトスカーナ地方、サルデーニャの僻地やシチリアといった、イタリア地方の農村を舞台に、自然の中で生きる素朴な人々の喜び、哀しみ、怒り、あるいは貧しさ、抑圧といったものを撮りつづけている。 土着の歴史と寓話の世界がつづれ織りのように混じりあい、ざらついた岩肌と土と草の匂いのするタヴィアーニ兄弟の作品が好きだ そして土着の逞しさ、あるいは頑固さ、素朴さを持つ、彼らの作品に出てくる人間も好きだ。 今までばらばらに観ていたタヴィアーニ兄弟についてブログで整理してみたいと思う。 以降、随時日本公開作品を紹介していきます。 まずは、私が大好きな「父 パードレ・パドローネ」から…… ![]() 父パードレ・パドローネ <Filmography・日本公開作品> アロンサンファン 気高い兄弟(1974) 父/パードレ・パドローネ(1977) サン・ロレンツォの夜(1982) カオス・シチリア物語(1984) グッドモーニング・バビロン! (1987) 太陽は夜も輝く(1990) フィオリーレ/花月の伝説(1993) 復活(2001) <Filmography・日本未公開作品> ■ドキュメンタリー サン・ミニアート44年7月(1954) クルタトーネとモンタナナーラ(1954) カルロ・ピサカーネ(1955) 街の画家たち(1956) 中世都市ヴォルテッラ(1957) 石工(1958) カルヴナーラ(1958) 日曜日の狂人たち(1958) アルベルト・モラヴィア(1959) ■長編ドキュメンタリー イタリアは貧しい国ではない(1960) ■長編劇映画 火刑台の男(1962) ああ離婚/結婚アウトロー(1963) 過激派たち(1967) さそり座の下で(1969) サン・ミケーレのおんどりさん(1971) 平原(1979) 親和力(1996) 君は笑う(1998) LuisaSanfelice(2003) moreでタヴィアーニ兄弟の映画との出会いから今の作風にいたるまでを…… タヴィアーニ兄弟は、北イタリア、トスカーナ地方の、サン・ミニアートのブルジョワの家庭に生れた。 父親は反ファシズムの弁護士。 兄弟は、幼年時代から音楽教育を受け、パオロはヴァイオリン、ヴィットリオはピアノを弾き、またオペラに情熱を燃やし、毎年、フィレンツェで開催される、フィレンツェ五月音楽祭に熱心に通ったそうだ。 ■映画との出会い タヴィアーニ兄弟は、1944年までサン・ミニアートに住んでいたが、第二次大戦下、ドイツ軍に家を破壊されてピサに移住した。そしてここで兄弟は初めて映画と出会うことになる。それまで住んでいたサン・ミニアートには映画館がなかったからだ。 ある日、兄弟は学校をサボって「イタリア」という映画館にもぐりこんだ。そこで上映していたのがロッセリーニのネオレアリズモ映画の傑作と言われる「戦火のかなた」(46)だった。客席はがらがらで、観客は既にこの映画にはうんざりしていたそうだが、タヴィアーニ兄弟は、この映画にとても感動し、強いショックを受け、そして映画監督になる決心をした。 コーエン兄弟もそうだが、若い頃から一緒に行動しているのが面白い。やはり性格が違っても共通する感覚を持っているのだろう。 「戦火のかなた」は映画監督になっても、兄弟の頭から離れず、「サン・ミケーレの雄鶏さん」ではラストシーンは「戦火のかなた」のラストシーンへのオマージュとして画かれているそうだ。 タヴィアーニ兄弟は、ピサの大学に進み、パオロは教養課程を、ヴィットリオは法学を学んだ。父親は息子たちが自分と同じ弁護士か、あるいは技師になることを望んでいたようだ。 しかし、兄弟は学校の勉強を放棄して、ピサのシネクラブに通い、ひたすら映画を追っかける日々を過ごしていた。 ピサのシネクラブで兄弟は、ヴァレンティノ・オルシーニと知り合いになった。オルシーニは共産党員で、戦時中はレジスタンスの闘士であった人物で、兄のヴィットリオより3歳年上であった。 そして兄弟はこのオルシーニと1950年~15年間、10本のドキュメンタリー映画と2本の劇場映画を共同監督で撮っている。 オルシーニはタヴィアーニ兄弟との共同監督にピリオドをうって以降、第三世界に目を向け「大地の呪われた人々」(70)やエリオ・ヴィットリーニ原作の「人間と人間にあらざるもの」(79)などの作品を発表している。 一方、タヴィアーニ兄弟は、その頃、地方紙に映画の批評を書き始めている。ヴィットリオは「にがい米」の映画評を投稿して入選、4000リラの賞金を手にしている。 ■演劇体験 地方で映画を撮ることは、実際にはほとんど絶望的な企てだったとタヴィアーニ兄弟は語っている。そこで二人は、演劇の演出を手がけることにした。1950年から51年にかけて兄弟とオルシーニは2本の前衛的な舞台を演出する。この舞台の出資者はリヴォルノ地区の労働組合で、ファシズム時代から戦後にかけてのリヴォルノの庶民生活の変遷を画いたものである。出演者はリヴォルノの住人で、台本も彼らととも書いた。これは「戦火のかなた」をみて感動し、ネオレアリズモを目指す兄弟にとっては、その舞台版ともいうべき作品である。そしてこの演劇体験を通じて、タヴィアーニ兄弟は、初めて労働者階級の人々と接触した。後にタヴィアーニ兄弟の作品が、農民や労働者階級の人々を描いていることを思うと、これは貴重な経験といえる。 ■初の映画作品 1954年、タヴィアーニ兄弟は、オルシーニと、最初のドキュメンタリー映画「サン・ミニアート44年7月」を撮った。 この短編ドキュメンタリーは、ドイツ軍によるサン・ミニアートの住民の大量虐殺を扱ったドキュメンタリーで、1944年、ドイツ軍は村でノパルチザン活動の報復として村の青銅に村民を集め、すべての出入り口を塞いだ上で、聖堂を爆破させたという。兄弟たちは写真しりょう、生存者や犠牲者の家族にキャメラを向け、ドイツ軍の残虐な行為を再現した。 タヴィアーニ兄弟の出発点ともなったこのドキュメンタリーは、レジスタンス活動10周年を記念して戦死者を追悼するために組織された市民団体に支持され、ピサのドキュメンタリー映画祭では二位に入賞した。が一方、この映画を忌避する動きもあり、撮影の団塊からボイコットもあり、最終的には「公共の秩序」を理由に検閲をパスできず、ごく限られたところでしか上映されなかった。 後日「サン・ロレッツォの夜」で、再度このサン・ミニアートの虐殺を描いているが、映画のタッチは全く異なるものになっているという。 「サン・ミニアート」ではタヴィアーニはネオレアリステッィクな映画を目指し、「サン・ロレッツィの夜」では寓話を目指しているといえる。 ■ローマでの修行時代 1955年、タヴィアーニとオルシーニは、ピサを後にしてローマにいった。イタリアではローマは映画を志すものにとって自らの力を試す場所であった。しかし彼らがローマに出た時期は、映画界は危機の真っ只中にあった。映画の製作本数は非常に少なく、監督になる唯一の道は、脚本を書くか、助監督になるしかなかった。 そこでタヴィアーニ兄弟とオルシーニは、ドキュメンタリーの分野から映画界へ入ろうとした。そして友人、両親から資金を集めて9本のドキュメンタリー映画を製作した。 ヨリス・イヴェンスと出会い、彼と共に「L'Italia non e un paese povero (イタリアは貧しい国ではない)」に取組むが、TV局の勝手な編集で放映されてしまう。最終的に彼らはドキュメンタリーは表現手段としては自分たちには適していないとい結論に達した。 ■長編映画 タヴィアーニ兄弟の作品が、世界に広く知られるようになったのはカンヌ映画祭でグランプリを受賞した「父パードレ・パドローネ」からであり、以降、彼らはイタリアの地方の農村に目をむけ、そこに住む人々を描くようになった。 ここにいたるまでのタヴィアーニ兄弟の長編作品を追ってみると、1962年、ドキュメンタリー「Carvunara」(58)でも取り上げたマフィアに暗殺された労働組合の指導者サルヴァトーレ・カルネヴァーレを描いた「火刑台の男」で長篇劇映画デビュー。一転して、5組のカップルの離婚を描いた「ああ離婚」でコメディにも挑戦している。 この後、オルシーニとのチームを解消し、兄弟での作品製作に取組み、人気歌手ルーチョ・ダッラ主演「過激派たち」、ジャン・マリア・ヴォロンテ、ルチア・ボゼ共演「蠍座の星の下で」といった作品を発表。1972年には短篇小説「神性と人間性」を映画化したジュリオ・ブロージ主演「サン・ミケーレのおんどりさん」で初めてトルストイ作品に取組んでいる。マルチェッロ・マストロヤンニ主演「アロンサンファン/気高い兄弟」(73)で国際的に注目された後、ガビーノ・レッダの自伝的小説を映画化したサヴェリオ・マルコーニ、オメロ・アントヌッティ共演「父/パードレ・パドローネ」(77)でカンヌ映画祭のグランプリと国際批評家連名賞を受賞し、一躍イタリア映画界を代表する存在となった。 彼らの映画作品として、まず、その真価が発揮されるのが「サン・ミケーレのおんどりさん」と「アロンサンファン」といわれている。 「サン・ミケーレのおんどりさん」の主人公は、地方のブルジョワ革命家で、少数の同士と蜂起するが失敗に終わり、10年間の牢獄生活を送ることになる。そして10年後、革命家はヴェネト地方の監獄に移送されることになり、その途中、若い政治犯と出会い、自分がもはや時代遅れの革命家であることを知って絶望し、自殺する。 「アロンサンファン」は、19世紀初頭の王政復古のイタリアが舞台で、マストロヤンニが演じる貴族階級出身の裏切り者の革命家の物語で、この物語の悲劇は、農民を解放するために南部に上陸した秘密結社の一団が、当の農民たちに無抵抗なまま、あえなく殺されてしまうことだ。 この2本の貴族・ブルジョワ出身の革命家の挫折の悲劇を経て、タヴィアーニ兄弟が辿り着いたのが「父パードレ・パドローネ」の農民の世界である。 タヴィアーニ兄弟は農民の土着の世界に彼らの描きたいユートピアを見出したのかもしれない。 そしてタヴィアーニ作品には語り手が介在している。この語り部によって物語の現実感が薄れ、民話や童話の世界に似た物語となっている。 また、「記憶から生れた物語」、あるいは「一定の距離をおいた歴史、年代記でありながらどこか寓話的な物語」にもなっている。 そして、トスカーナやシチリアを舞台にした映像と、この寓話的な語り口がタヴィアーニ兄弟の作品の魅力の一つともなっているといえる。
by mchouette
| 2007-05-12 00:00
| ■映画
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