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ANNA KARENINA 豪華絢爛なオペラの舞台を観るような舞台仕立ての幕開け。 登場人物のセリフも動きも芝居がかっていて、まるで美しく着飾った精巧な繰り人形たちが動く舞台劇を観ているような錯覚さえ覚える。 実写シーンも交えながらも、舞台劇そのものといった場面も随所にあり、舞踏会などはその舞台裏まで見せてくれる。時には額縁にはめ込まれた美しき母子像といった絵画のごときシーンもある。 競馬のシーンですら交錯するように実写シーンもあるのだけど、狭い舞台に馬も人も押し込められる。 華やかな貴族の邸宅、舞踏会、貴族たち、オペラハウス、ペテルブルグの街並み…全て舞台の上で繰り広げられる、これはお芝居、作り物の世界という感覚を観るものに常に意識させながら、アンナ・カレーニナはヴロンスキー公爵との不倫の愛に向かって突き進む。 アンナがヴロンスキーとの恋に歓喜しても、身悶えしても、社交界の掟を破った二人に冷たい目を向けても、カレーニンが妻の不貞を許しても、憤っても、観ている方は彼らに対してなんのカタルシスも覚えないし、そのことに苛立ちも覚えない。 貴族社会という虚飾に満ちた狭い舞台のなかで蠢く者たちが織りなす、実のない虚構の世界だから。 ブロンスキーとの不倫に走り貴族社会の中で自らの居場所を喪い死に追いやられたアンナ。 列車に身を投じたアンナのその死に顔は、遊びに飽きられ片隅に打ち捨てられた陶器のお人形のよう。 ![]() そんなアンナとヴロンスキーの不倫狂想曲ともいえる舞台がアンナの死で幕切れとなり、その幕の下で静かに育まれていた地方の純朴な地主リョーヴィンとアンナの兄嫁の妹キティーの恋がスクリーンに静かな息遣いで浮かび上がってくる。 都会で身を持ち崩した兄とは対照的に、太陽の穏やかな光を浴び農奴や小作民たちとともにロシアの大地に立って働くリョーヴィン。 かつてヴロンスキーに夢中でリョーヴィンのプロポーズを断ったキティ。だが愛しいヴロンスキーはキティを捨てアンナの方へ。失恋の痛みを味わい、真の幸福のありかを知ったキティ。 ロシアの凍てついた広大な大地をリョーヴィンとキティを乗せた馬車が走る。 死の床にあるリョーヴィンの兄を看護するキティの博愛。 二人の間に生まれた幼子を抱くリョーヴィンとキティを包み込む優しさに満ちた空気が映像一杯に広がるよう。 そしてアンナとカレーニンの子供、そしてヴロンスキーとの間に生まれた幼い娘、アンナの忘れ形見である二人の子供が一面に花が咲き誇るロシアの大地に遊ぶ。 それを穏やかに見守るカレーニンの穏やかな笑顔。 都会の貴族社会から抜け出せず、その狭い舞台の中で死んでいったアンナ。 夫の浮気癖を嘆くより母である幸福を選んだアンナの兄嫁の穏やかな笑み。 そして農村で生きるリョーヴィンとキティ、大地に遊ぶ子供たちに光を当てた本作の最後。 トルストイがその小説「アンナ・カレーニナ」で本当に描こうとしたのはきっとリョーヴィンとキティの姿だったのだろう。 そして時代はロシア革命へと大きくうねり、貴族社会を中心とした帝政ロシアの時代は終焉を迎える。(蛇足だけど、そして映画は「ドクトル・ジバゴ」へと向う~) 映画という狭いスクリーンの中でそのイメージが固まってしまっていたかのごときトルストイの「アンナ・カレーニナ」を、再びロシアの大地に解き放ったともいえるジョー・ライト監督の「アンナ・カレーニナ」 もう一度、この視点で本作を見直したいと思う。
by mChouette
| 2013-04-02 12:30
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