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LA STRADA
1954年/イタリア/115分 監督: フェデリコ・フェリーニ 映画史的にフェリーニを語ると、1956年のアカデミー外国語映画賞を受賞した本作「道」で映画監督として国際的な名声を確立し、 「甘い生活」で世界の映画賞を総なめにし、映像の魔術師の異名をとり、 「81/2」で20世紀における映画の新境地を切り開き…となるのだろう。 フェリーニ作品は順不同で後追い鑑賞しているから、最初に観たのは何だったんだろうと記憶が曖昧だ。 「道」が先だったか、「81/2」が先だったか。どっちにしろ人生の半分も見えてなかった青くさく若い時の鑑賞だった。 「道」はビデオ全盛時代にビデオテープ(高かった!)でも買っているから、どこか惹かれるものがあったのだろうけれど、ニノ・ロータのメロディも物悲しく、置き去りにされるジェルソミーナのシーンとか、彼女のザンパノを見るときの怯えと媚びと優しさの入り混じった目とか、ジェルソミーナの死を知ったザンパノが夜の浜辺で身をよじって慟哭するシーンとか、ザンパノの運転するトラックの荷台からジェルソミーナがじっとみつめる遠ざかっていく道の映像とともに記憶に強く残っていて、そのトーンは「81/2」や「甘い生活」などと趣を異にしているようにも思い、重苦しく痛ましい印象からか、買ったもののついぞ鑑賞しないまま、いまやDVD、そしてブルーレイの時代になっている。 映画「NINE」がきっかけに「8 1/2」そして「甘い生活」と観ていくと、やはり「道」も見たくなっての今回の再鑑賞。 改めて本作を観てみると、旅芸人ザンパノの手伝いをしていたローザが死に、その代わりに1万リラでザンパノに買われローザの姉ジェルソミーナ。ザンパノの粗暴さに怯えながら、ザンパノに仕込まれ太鼓を叩き、道化役になって客に愛嬌を振りまき、彼の運転するトラックに乗って村から村へと旅を続ける。 男と女が一つ屋根を共にして、その日の糧を求めて一本の道を連れ立っていく。 ジェルソミーナをみていると、ザンパノに対する女心が見えてくる。 家に帰りたいと思っていたけれど、今はあんたの行くところが私のいるところって思う。 私たちってずっと一緒にいて夫婦みたいだと思わない? ザンパノ、私のこと好き? ザンバノの粗暴さに逃げ出そうとしたジェルソミーナ。 眠りこけたザンパノに向かって「あんたなんかもうイヤだ。家に帰る。」 そう言って背中を向けるけれど途中でザンパノを振り返る。 ザンパノがイヤなんじゃなくって、ザンパノといるといつも悲しく辛い思いをしてしまう。 その事がジェルソミーナにはたイヤなんだろう。 優しい言葉の一つも期待するけれど、帰ってくるのは怒鳴るばかり。 他の女に向けるように見てもらいたい。 逃げ出す私を止めて欲しい。 でもザンパノは眠りこけたまま。 「あんたなんかもうイヤだ。」 逃げ出したジェルソミーナが夜更けの街で男達に弄ばれそうになったとき、ザンパノのトラックのライトが見えた。そのライトを見つめるジェルソミーナの眼が潤む。 ザンパノを待ちながらも、暴力を振るうザンパノが嫌だと思うジェルソミーナ。 ザンパノ<Zampa>:イタリア語で悪の意味から悪漢の象徴。「アザミみたいなブス女」 ジェルソミーナに優しく微笑んでくれる綱渡り芸人の男は、そういって彼女をからかう。 「こんな女をザンパノはどうして連れてるんだろう?」 「逃げ出したのにどうして連れ戻したんだ? 俺だったら一発でそんな女は捨てちまうね。」 「ザンパノはあんたに惚れてるんだよ。 石ころでも何かの役にたっているんだ。あんたはきっとザンパノの役にたっているんだよ。」 綱渡りの男はそういってジェルソミーナを慰める。 綱渡り芸人イル・マット<il Matto>:イタリア語で狂人の意味。「私がいてやらないと、あの人は一人ぼっちなんだ。」 綱渡りの男とナイフをかざしての喧嘩騒ぎを起したザンパノが刑務所にぶち込まれ、サーカス一座に誘われ、綱渡りの男からも一緒に旅回りを誘われたけど、やっぱりジェルソミーナはザンパノを見捨てられない。 刑務所の前でザンパノの出てくるのを待つジェルソミーナ。 「ザンパノ、ザンパノ。あんたを待っていたんだよ。」 作中でジェルソミーナがザンパノを呼ぶ声を幾度も聞く。 時には哀願するように、 時には媚びるように、 時には詰るように、 そしてこの時のジェルソミーの彼を呼ぶ声のなんて愛おしさと優しさに満ちた響きだろう。 「情けなんか知らないから優しい言葉をかける代わりに吠えるんだよ。あいつは犬なんだ。」 綱渡りの男はザンパノをそう評する。 情けなど受けることなく、一人で生きてきたザンパノは、何も考えず直情的で粗暴な男。そんな無骨なザンパノがみせる不器用な優しさが切々と描かれている。 出所した彼がジェルソミーナに海を見せてやったのも、彼なりの精一杯の優しさだろう。 映画の冒頭シーンはじっと海を見つめるジェルソミーナの姿があった。 海を見詰めながらジェルソミーナは心の中で自分の居場所を捜し続けていたのだろう。 ザンパノに自分の居場所を見出そうとするジェルソミーナ。 ザンパノに心の充足と糧を求めようとしても、帰ってくるのは悲しみばかり。 旅の途中で出会った修道尼は、神と二人で旅をしているとジェルソミーナに穏やかに語る。修道院から見送る尼たちに手を振りながら涙するジェルソミーナ。 ザンパノのトラックに乗って、家から離れ、そして今、神のご加護からも離れていく。真っ白い心がくすんでいく。そんな自分を哀れと思ったのだろう。 そしてザンパノが綱渡りの男を誤って殺してしまった時、ジェルソミーナの心は完全に壊れてしまった。 そんなジェルソミーナを呵責を感じながらも眠っている間に置き去りにする。ジェルソミーナがいつも吹いていたトランペットを添えてやったのはザンパノの精一杯の優しさだろう。 数年後、中年の衰えかけた筋肉でいまも鋼鉄の鎖破りを披露するザンパノの姿に悲哀が漂う。 巡業で立ち寄った村で、ジェルソミーナがいつもラッパで吹いていたメロディを耳にしたザンパノは、置き去りにした後のジェルソミーナのことを聞き、そして彼女が死んだことを知る。 夜の浜辺で指の間から零れ落ちる砂をかきむしり、生れて初めて味わう胸を切り裂くような喪失感に身をよじって慟哭するザンパノ。 人を愛することも愛されることも知らず、生きていく為にこれしか知らずに生きてきたザンパノ。男社会にあって、男が振りかざす暴力、権力と言う力の前で、女はいかに弱く悲哀に満ちた存在であることか。 でもその一方で、男にとって女とは守護天使として存在するものなのだろう。 「私がいないと、あの人はひとりぼっち。」そういってどこまでもザンパノについて行こうとするジェルソミーナ。 「甘い生活」でもマルチェロにとって、堕落する彼を必死に引きとめようとした愛人のエマがそうであり、ラストで彼に必死に呼びかけた少女がマルチェロにとって最後の守護天使だっただろう。 ザンパノもマルチェロもその守護天使を自ら置き去りにし手放してしまった。 動物的に生きてきたザンパノはその喪失感に涙することで、人間性に目ざめたともいえるんじゃないかな。心に痛みを感じる。それが人間なんだろう。 しかし「甘い生活」のマルチェロは、無学でただその日を生きることに精一杯の、貧しい時代の中の貧しい旅芸人のザンパノと較べると、物質的に豊かな時代のいわゆる知識人階級ともいえる人種。そのマルチェロにいたっては喪失感の自覚すらなく、あるのは自らに対する疎外感。 こんなことも頭をよぎる。 そして、そして… 賑々しく厳かなキリストの復活祭、サーカス小屋、綱渡り、走り回る子供達、食べこぼしたご馳走にありつこうとテーブルの下をかぎまわる犬、波が寄せては返す海…… こうして再鑑賞してみると、フェリーニ!と言えるシーンがなんとふんだんに溢れていることか。 本作でジェルソミーナを演じたジュリエッタ・マシーナ。彼女はこのあとのフェリーニの「カビリアの夜」(1957)の娼婦カビリア役でカンヌ映画祭女優賞を受賞している。小柄な体と、愛嬌とペーソス溢れる個性的ともいえるその風貌と演技で、愚かともいえるほどの純真さと一途さで男につくす女を見事に体現している。 そして男の無骨さと、そんな不器用な男の精一杯の優しさと、そして中年の疲れた男の悲哀を滲ませたザンパノ役アンソニー・クインの演技も見事。 「道」を観ての感想…ジェルソミーナ、そしてザンパノのそれぞれの悲劇、心のうちが見えてきて、ついつい長くなってしまった。
by mchouette
| 2010-05-28 00:00
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