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OTTO E MEZZO
1963年/イタリア/140分 監督: フェデリコ・フェリーニ映画「NINE」を観ていて無性にフェリーニの「8 1/2」を観たくなって、観ている間中ずっとフラストレーションがたまってしまった。 映画「NINE」はミュージック・ビデオだと思ってみれば、それはそれでゴージャスな面々のキャストで楽しめるんでしょうけど…。しかし、あれだけの女優陣を相手に、存在感のあるオーラを放っていたダニエル・ディ・ルイスはさすが!って思う。おかげで、今更ながらに「8 1/2」ってどれだけ素晴らしいかって改めて再認識できたのは「NINE」のおかげ。 マストロヤンニ演じるグイドはフェリー二自身の分身といわれている。 しかしグイドが苦悶する世界はグイド固有のものではなく、観る者の心の扉を叩くように響いてくる。グイドの感覚が映像を通して共有できる。 若い時に観ていたときは、フェリーニの映像世界を味わうだけに過ぎなかっただろう。それなりに幾許かの人生を生きてきたこの年齢だから響いてくるのかもしれない。 巨大な宇宙船発射台の屋外セットで、「人生は祭りだ、さぁ、一緒に楽しもう」と妻役のアヌーク・エーメの手をとり、登場人物たちが手に手をとっての踊りの列に入るグイド演じるマストロヤンニ。 だからこんなラストシーンに、心に沁みるような懐かしさと、泣きたいほどの切なさと、そしてそれを突き破るほどの思いで、「映画って、生きているって、なんて素晴らしいんだろう。」叫びたいほどの幸福感が胸にヒタヒタと押し寄せる。 本作まで共同作品を除いて自らの監督した映画作品が8本。 9本目に当たる本作をあえて1/2とし、構築してきた映像世界と自らを解体し突き放した形で自画像として描いた本作「8 1/2」。本作は映画人としてのフェリーニにとっても、20世紀における映画の歴史においても大きな契機ともなる作品だろう。そしてフェリーニ自身の人生と、そして映画人としての自らに対する熱いメッセージが込められた作品でもあるだろう。 フェリーニ作品にはいろんな人間が登場するが、人間を善悪で捉えて描いていないんじゃないかな。人間をじっと見つめ、悲しい部分も、弱いところも醜い部分もあって、そんな人間一人ひとりを描いている。ラストシーンにフェリーニの人間に対するそんな眼差しも心に響く。 ![]() こうして改めてフェリーニのこの作品を観ていると、映画って、語りかけてくれる映像を観るままに受けとめ、感応すればいいんだって、映画ってそういうものだって、しみじみと思う。 そこに何か意味を見出そうとか、説明をしようとするから、フェリーニ作品って難解だといわれるんだろう。感ずるままに、思うままに受けとめればいいんだって思う。 それよりも、言葉を失うほどのフェリーニの描き出す映像世界。 ジェラシーや憎悪や怖れまでもが映像の世界に吸い込まれ、一つの音となり色となり動きとなる。 グイドの頭の中に渦巻く幻想と現実、位相の異なる時間軸と空間が、空に浮かぶ雲の如く、映像の世界で変幻自在に流れるように、なんの衒いもなく描きあげていくフェリーニの才能! 手腕! 映像の魔術師フェデリコ・フェリーニ。 そしてフェリーニの創りだす無限の映像世界でマストロヤンニは、まさに雲のごとき存在となって動く。 フェリーニの描き出す映像世界から浴びるほど感じた、そのわずかも語れていないけれど、というより、フェリーニの作品をみてそれを言葉にしようとすると、どう表現すればいいのかと、言葉にするとどんな言葉もなんとも陳腐でありきたりのように思えてきて、語る言葉に窮してしまう。 フェリーニについて、私ごときが今更なにを語れるだろうか。 観るほどに、感ずるほどにフェリーニの描き出す映像世界が私の中で広がっていき、どう表現すればいいのかわからないけれど、そこからざわめくような映画に対する高揚感が沸々と生れてくる。 フェリーニについて我が愛するジム・ジャームッシュはこのように評している。 「フェリーニの映画は子供の打ち明け話のように幻想的で、そのスタイルは映画の登場人物のまわりに巨大なカオスを作りあげる」 こんな言葉に大いに肯いてしまう。 ![]()
by mchouette
| 2010-05-24 00:00
| ■映画
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