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LA DOLCE VITA
1959年/イタリア・フランス/185分 監督: フェデリコ・フェリーニ 「強烈な通俗性の中に、豊潤な映像美学を開花させ、一つの大都市をこれだけ魅力的に捉えた作品は他にない。」allcinemaのこんな一文は大いに肯いてしまう。 1950年代後半のローマ。上流階級や芸能人たちが出入りするクラブやレストランの並ぶストリートは車がひしめき合い、そんな彼らのスキャンダラスな写真を撮ろうとカメラマン達が群がり、ネオンとライトに彩られた明るさと喧騒は不夜城のごとき。 そんな世界に出入りするマルチェロは、作家を志しローマにでてきたものの今では彼らのゴシップ記事で生計を立てている記者。そのマルチェロにくっついて、彼らのゴシップ写真をスクープしようとするカメラマンを彼は「パパラッツォ」と呼んでいる。(これが「パパラッチ」の語原だそうだ。) そして今、本作を再鑑賞してみると、バブルの時代と言われ、日本中が乱痴気騒ぎのごとく浮かれ走った数十年前のあの時代を思わず重ね合わせてみる。 セレブたちの華やかな生態を描きながら、甘い芳香の下から熟しきった腐臭が漂い、闇の孤独を恐れ、群れて蛾のように灯りに集まり毒々しい粉を撒き散らしながら嬌声をあげ、死臭ただよう退廃と彼らに巣食う空疎感が見事に描きあげられている。 一つの時代の生態と感覚を見事に切り取り、それら一つ一つの断片を生々しい匂いを撒き散らしながらも、どこか幻想的な世界のような美しさで描きあげたフェリーニの「甘い生活」 ![]() ゴシップ記者として彼らを醒めた眼で見つめ、彼らの間を泳ぎまわるマルチェロは、時代の生き証人的役割を担わされた存在ともいえるだろう。 大富豪の娘マッダレーナ(アヌーク・エーメ)やハリウッドのグラマー女優(アニタ・エクバーグ)に惹かれる一方で、真っ当な文筆生活を送りたいという思いに焦がれつつ、友人の自殺を引き金に彼らの狂気と退廃の渦の中で自ら飛び込んでいく。 ![]() そんなマルチェロに向かって海辺の向うから一人の少女が呼びかける。その横顔をマルチェロがペルージャの教会の天使の絵のようだといったその少女を見たマルチェロは少女の声を必死に聞こうとするが、彼の耳には届かず、マルチェロは清純な天使ともいうべき少女に背を向け、方向を見失った迷える子羊のように彼らの一人が差し出した手に引かれ、海辺を離れ、砂浜を甘美な退廃と腐臭に満ちた世界の方へと歩いていく…。 マルチェロの中に残っていた無垢な魂と痛みは彼は自ら手放してしまったのだろうか。決して充たされる事なくざらつき乾いた砂の上を歩き続ける彼そして現代人の悲劇を思わずにはいられないラストシーン。 説明的な手法をほとんど行わない難解な表現方法は公開当時から世界中の批評家の議論の的となる一方で、カンヌ映画祭パルム・ドールやアカデミー賞衣裳デザイン賞など、世界中の映画賞を総なめにしたフェデリコ・フェリーニ監督の代表作でもある「甘い生活」。 50年経った今、20世紀後半から21世紀に入った現代においても、フェリーニが描きあげたこの映像がどれほど鋭く現代という時代そのものを描きつくしていることか。同時にどれほどの美学が充満していることか。 フェリーニの映像とは、例えば… 血の匂いと恐怖を強烈に感じさせながら、同時に血がもつエネルギーと血の赤が持つその美しさと忌まわしさを芸術的な域にまで高め描きあげられた映像。 観るほどにそう思う。 60年代は堕落の時代だわ。「甘い生活」で語られるセリフの一言一言が鋭く突き刺さり、いまなお時代の中でドクドクと脈打って鮮やかに生き続けている。 価値観が不可視の21世紀という時代こそ、フェリーニが描いた世界を再び語るべき時代ではないかしら。そんな風に思う。 この映画で、マルチェロを演じたマルチェロ・マストロヤンニは本作で、その才能を一気に開化させたといわれ、映画俳優として世界的な名声を博した作品といわれている。
by mchouette
| 2010-05-26 00:00
| ■映画
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