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Francesco1989年/イタリア/160分 悔悛と神の国を説き、もう一人のキリストといわれるほどキリストの教えを生涯忠実に守り続け、中世イタリアにおける最も著名な聖人の一人であり、フランシスコ会の創設者として知られるカトリック修道士フランチェスコを描いた作品。 「愛の嵐」の監督で知られる本作の監督リリアーナ・カヴァーニの長編デビュー作が「アッシジのフランチェスコ」で、本作は再びフランチェスコに挑んだ作品といえるだろう。 聖フランチェスコを描いた映画は、本作のほかにロベルト・ロッセリーニが監督をし、フェデリコ・フェリーニと共同で脚本を書いた「神の道化師、フランチェスコ」(1950)、や「ロミオとジュリエット」のフランコ・ゼフィレッリ監督「ブラザー・サン シスター・ムーン」(1972年)を観ているけれど、記憶が曖昧となっていて、今回「フランチェスコ~ノーカット完全版」をみていて、記憶の中で3つの映像が結構混線しているのに気がつく。 本作ノーカット版は第七藝術激情で昨年に短期間だけど公開されていたが時間都合つかず見逃してしまったので今回の放映は嬉しい。だけれど劇場公開版はどこがカットされていたのかもそんな記憶も薄れているのだけれど…。 そんな曖昧模糊となった記憶だけれど、今回見直してみてもやはりカヴァーニ監督の描いたフランチェスコがもっとも生身の人間の痛みや苦痛、弱さに迫った作品に仕上がっているように思う。 聖人フランチェスコの伝記ではなくって、一人の放蕩息子が聖人になろうと改心し、彼に賛同する友と共に無一物で各地を放浪する。 無一物となることで束縛から解き放たれ自由であると説くフランチェスカに賛同し、彼を慕って各地から集まってきた者たち。しかし信者が増えるにしたがって、そこには自ずと組織の論理が発生するのも避けては通れないことだろう。膨れ上がった弟子たちの間から制度をつくり組織化を図ろうとする動きは避けては通れないこととして湧き上がる。 世俗の全てを捨て去り、何ものにも束縛されず自由たらんとするフランチェスコの歩む道と、彼の周りに出来上がった信者たちの組織論が乖離していく。そこには組織存続の動きの中で自ずと政治が生れてくる。 個と組織。 一人の人間の意思が組織の論理に蹂躙されていく。 こんな鋭い視点もカヴァーニ監督らしい。 「命ある限り無一物であれ」と説くフランチェスコの教えは厳しすぎる、自己満足だと批判され、自らを責め、絶望感に苛まれ神の声を必死に求め続ける姿は、人間の原罪に苦悩し聖人たらんと神の道を必死に捜し求める一人の弱い生身の人間の姿であり、雪の中で裸になって幻の妻とわが子の像をつくり涙する姿もまた一人の生身の男の姿であり、そんな人としての脆さや優しさを抱える一人の人間フランチェスコに迫ろうとしたカヴァーニ監督が、「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」、「ナインハーフ」、「エンゼル・ハート」等で主演をつとめ、セクシーな魅力を持ったキャラクターと称されながら、精気ムンムンというよりもどちらかと言うと中性的で無重力感のあるミッキー・ロークの起用も肯ける。 一人山に籠もったフランチェスカの肉体に起きた聖痕の奇跡。 ただひたすら神に通じる道を求め歩み続けようとした一人の人間としてのフランチェスカ。 彼に賛同しあるいは心酔し付随ってきた弟子たちや、一人の男としてもフランチェスコを愛し、彼の信ずる道を共に歩まんとするキアラの回想で綴られた迷える子羊としてのフランチェスコ像。 ミッキー・ローク熱演でした。 ミッキー・ロークも美しかったけれど、キアラを演じたヘレナ・ボナム=カーターもまだこの頃は可愛かった。 久々の再鑑賞で、本作のみならずロッシーニ監督の「神の道化師、フランチェスカ」や「ブラザーサン シスタームーン」のシーンなども重なり、この2つもまた見たくなってきた。 それぞれの監督がそれぞれのアプローチで描いた聖フランチェスカ。見比べてみたら面白いだろう。 「神の道化師、フランチェスコ」
by mchouette
| 2009-10-01 09:36
| ■映画
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