![]() by mChouette 検索
以前の記事
カテゴリ
全体
■映画 =映画:あ行 =映画:か行 =映画:さ行 =映画:た行 =映画:な・は行 =映画:ま~わ行 ■映画・雑記 ■ドラマ ■展覧会・コンサート ■一冊の本 ■徒然なるままに… ■美味しいもの ■アウトドア・旅 ■勝手にバトン ■ご挨拶・お知らせ 未分類 タグ
ドキュメンタリー(59)
エリック・ロメール(19) フランソワ・オゾン(19) アキ・カウリスマキ(12) A LETTER TO TRUE(10) ケイブルホーグ・コレクション(10) ニコラ・フィリベール(10) フランソワ・トリュフォー(8) ジャック・ドゥミ(7) ルネ・クレマン(7) ジャック・リヴェット(6) フェデリコ・フェリーニ(6) ミヒャエル・ハネケ(6) 今村昌平(6) アルフレッド・ヒッチコック(5) エルンスト・ルビッチ(5) サイレント映画(5) アッバス・キアロスタミ(5) ジャン=リュック・ゴダール(5) ロマン・ポランスキー(5) 最新のトラックバック
最新のコメント
お気に入りブログ
リンク
映画と暮らす、日々に暮らす・vivajijiさん プロフェッサー・オカピーの部屋[別館]P様 気まぐれ映画日記・リカ さん オバサンは熱しやすく涙もろい・dimさん 茸茶の想い∞祇園精舎の鐘の声 愛情いっぱい!家族ブロ!しゅべる&こぼるさん 活動写真放浪家人生・冨田さん 描きたいアレコレ・あん シネマ蟻地獄・優一郎さん つぶやきJUN君 skuram君photo gallery 豆酢館・豆酢ちゃん キネマじゅんぽお・ジューベさん 真紅のthinkingdays・真紅さん Have a movie-break !・fizz♪さん UkiUkiれいんぼーデイ・ なぎささん テアトル十瑠・十瑠さん 良い映画を褒める会。用心棒さん 虎猫の気まぐれシネマ日記・ななさん Don'tThink!!ぷりぷりちゃん Yururi kansho・ゆるりさん Every dog has his day・kanakoさん errance…ecumes des jours THE CULINARY TRIBUNE オムニバス映画ワールド・NARCYさん ライフログ
ファン
|
SENSO
1954年/イタリア/119分 監督: ルキノ・ヴィスコンティ 舞台は1866年のベネツィア。 19世紀のヨーロッパ大陸は小国に分かれ極めて不安定な政情にあった。新興国家プロイセンが力をつけドイツ圏を形成のための対外戦争に明け暮れ、イタリアも1861年にようやくに国家としてのまとまりをみせ、ベネツィアはまだこの時点ではイタリアに属さず独立していた。普襖戦争でプロイセン・イタリア側に参戦することで併合されるが、ベネツィアはオーストリア帝国と隣接していたため、すぐにオーストリアに占領されてしまう。ここでイタリア愛国者のレジスタンスとオーストリア占領軍の抗争が起こる。 こんな情勢を背景に、イタリア貴族ロベルト・ウッソーニ侯爵は仲間達と謀り観劇の人ごみに紛れ独立運動声明文のビラをオペラ劇場内にばら撒き、劇場を出た時にオーストリア軍のフランツ・マーラー中尉に逮捕されるという事件が起きた。 フランツ中尉は女の噂が絶えない色男。 ロベルト侯爵の従妹でベネツィア独立運動を支援する伯爵夫人リヴィア・セルピエーリは、従兄ロベルト侯爵を助ける為にフランツ中尉に面会を申し出るが、たちまちに彼の放つオーラに心を奪われてしまう。 一瞬にして恋におちたリヴィア。 そんなリヴィアに甘言を囁くフランツ。 イタリア貴族の誇りを胸に気高く生きてきた女性が、砂上の楼閣が崩れるように、プライドも恥じらいも失い、フランツに会うため、敵視していたオーストラリア兵たちの宿舎に躊躇いもなく訪れ、上着を脱いでくつろいでいる兵士たちの中にあって彼らの嘲笑や侮蔑的な視線も眼中になく、ただひたすらフランツの姿を追い求めるまでに彼の虜になってしまう。 ![]() ![]() 恋に狂った一人の女の哀しいまでに浅ましい姿。 果てはフランツを戦地に行かせない為、病気を偽り軍籍離脱を図らせるため医者への賄賂に、従兄から託された独立運動の義援金に手をつけてしまう。 女に貢がせることといかさま博徒で俺は今まで生きてきた。 そう語るフランツもまた、手の届かない貴族という上流階級の夫人が自分に恋焦がれていることに有頂天になったことだろう。リヴィアのいうままに軍籍を離脱した時に、軍服を脱いだ時にフランツは初めて気がつく。軍服の中の己が何者でもないことを。軍人としての誇りも軍服とともに脱ぎ捨て、卑怯な脱走兵に成り下がり、伯爵夫人の囲われ者に堕ちてしまった己をまざまざと思い知る。 あなたは本当の俺を見ていない。俺という男の実態を見ていない。 リヴィアに向かって浴びせたフランツの悲痛な叫び。 恋という嵐に無我夢中になり、その果てに残されたのは茫漠としたな時。砂を噛み締めるようなざらついた乾き果てた心。 愛と憎しみは表裏一体。 フランツの心変わりに茫然自失となったリヴィアは、軍にフランツの偽装工作を通告する。 逮捕され即座に銃殺刑に処せられたフランツ。 夜の街をフランツの名前を叫びながら彷徨うリヴィア。 恋に狂い自分を見失った者たちの破滅的な末路を描きあげられた本作は、官能、耽美、退廃に満ちた濃厚な美しさに、胸が潰れそうになる息苦しさを覚えるほど。 男女の愛と憎しみ。人間の心に生じた目に見えない感情が理性をも凌駕し、人を虜にし、狂わせ、人を破滅にまで導いてしまうという。 オーストリアからの独立をめざし、革命に己を捧げて闘うマッシモ・ジロッティ演じるロベルト侯爵を誰よりも敬愛していたリヴィアが、フランツとの男女の愛の前に脆くも砕け散る様に、人間とは考える葦であると同時に、感情の動物であるという、これが人間かと、その本性を見せつけられる思いにドキドキしてしまう。 そのロベルトも逮捕したオーストリア兵のフランツに決闘を申し込むといった軽率さをみせている。 さらにフランツは理性を失いフランツの追ってきたリヴィアを罵る。 「貴婦人であるあんたと娼婦とどこが違うんだ?!」と。 男女の愛憎と復讐のドラマを描きつつ、ヴィスコンティはその一方で自らも属する「貴族」という人種の愚かさ、傲慢さを情け容赦ない筆致で描いているといえるだろう。 観るほどに、官能と退廃の美学にドキドキし、いたたまれなさにドキドキ感が募ってくる「夏の嵐」。 「山猫」で凋落していく貴族社会を描き、ドイツ圏の爛熟と崩壊を描きドイツ三部作といわれる「地獄に堕ちた勇者ども」「ルートウィヒ」「ベニスに死す」など没落していく貴族や芸術家を描き、退廃と耽美に彩られたヴィスコンティ作品の、本作はその萌芽を感じさせる作品ではないだろうか。 そして、ヴィスコンティが半身不随の身で車椅子に座って製作し、ダビングを待たずに逝去し、遺作となった「イノセント」では、数々の女性と浮名を流し男の美学を生きてきた貴族が、妻の不倫に、激しく嫉妬し我を見失い、最後には銃口で自らの頭を打ち抜くという壮絶なラストに至るまで、「貴族」という種が自ら撒き散らした官能と退廃の美学によって自滅していく様を描きあげている。死にゆく貴族という種を見事なまでに体現したジャンカルロ・ジャンニーニ。「夏の嵐」のリヴィアの自滅と色濃く通じるものを見る。 ![]() ヴィスコンティは当初主演にマーロン・ブランドとイングリッド・バーグマンを迎える予定が実現しなかったそうだ。フランツをマーロン・ブランドが演じていたら、恋の狂気と破滅の匂いはもっと凄まじかっただろうと思う。 イングリッド・バーグマンもいいけれど、「欲望という名の電車」(1951年)のマーロン・ブランドとヴィヴィアン・リーで本作を観たかったなって思う。しかし、フランツ中尉を演じたファーリー・グレンジャーの軽薄な色男ぶりもなかなか魅力的だった。 冒頭で上演されるオペラはジュゼッペ・ヴェルディの「イル・トロヴァトーレ」 この物語も中世の騎士物語、男女の恋愛、ジプシー女の呪いを織り交ぜ、最後には実の兄が弟と知らずに処刑し、ジプシー女が勝ち誇ったように「処刑されたのはお前の実の弟だ。お前は実の弟を殺したんだ! 母よ復讐は遂げられた!」そう叫ぶという、本作にも優るとも劣らない凄まじい内容。 Tags:#ルキノ・ヴィスコンティ
GRUPPO DI FAMIGLIA IN UN INTERNO
1974年/イタリア・フランス/121分 監督: ルキノ・ヴィスコンティローマ市内にある屋敷で、人との関わりを避け、世捨て人のように家政婦とひっそりと暮らしている一人の老教授。彼の趣味は18世紀イギリスで流行した「家族の団欒を描いた絵画」を収集すること。 そんな老教授のもとに、伯爵で右翼の大物実業家夫人ビアンカが訪れ、2階を貸してほしいと強引に要求し、教授の断りも意に介さず、その娘リエッタとフィアンセの青年ステファーノ、そして夫人の愛人で2階に住むべくコンラッドまでがやってきて、教授の平穏な日常は彼らの他人お構いなしのペースにかき回されてしまう。 こうして世捨て人だった老教授の屋敷の2階にコンラッドが住み始め、老教授と彼らとの奇妙な関係が生れ始めた。 老教授にバート・ランカスター。 コンラッドにヘルムート・バーガー そして伯爵夫人ビアンカにシルヴァーナ・マンガーノ 教授の回想シーンに登場する若かりし頃の彼の妻にクラウディア・カルディナーレ。 教授の母親にドミニク・サンダ。 もっと若い時はヴィスコンティ作品でも「郵便配達には二度ベルを鳴らす」とか「地獄に堕ちた勇者ども」とかが好きだったし、本作よりも「地獄に堕ちた勇者ども」のヘルムート・バーガーなんかの方が感覚にぴったりきていた。 しかし、最近はなぜか「家族の肖像」がお気に入りで、ここにきて繰り返し観ている。 観るほどに、解放感とは無縁の室内のちょっと息苦しさを感じる閉塞感と、蝋燭の炎と、骨董的重厚感のある空気と、そして隠微ななまめかしさが、静かな魅力でもって私の胸にひたひたとにじり寄ってくる。 傍若無人と映った青年コンラッドが、音楽や絵画に造詣が深いことを知るにつれ、教授の内でコンラッドという青年が、彼の心の襞を震わせ、次第に大きな存在となり始める。そんな教授の微妙な心情が見えてくる。 コンラッドもまた、人間との関わりを拒み、肖像画の家族の光景を慈しむ教授に、どこか自分と同じ匂い、同じ虚無感を嗅ぎ取ったのだろうか。 同じ音楽を愛し、同じ絵画に惹かれる初老の男と、過激な学生運動に身を投じ、社会から逸脱し上流階級の夫人たちの男娼として生きる若い青年。 喪った愛の痛みを抱えて老いた男と愛を売って生きる青年と、愛に背を向け、だからこそ誰よりも愛に敏感な二人の間に流れる、二人にしか触れ合わないような微かな合図のようなものが、二人の間に流れ合うような空気が静かにそれと分からぬように描かれている。 老教授を演じるバート・ランカスター。ヴィスコンティが、ヘルムート・バーガー主演の「ルートウィヒ」撮影中に心臓発作で倒れながらも執念で完成させ、その2年後に半身不随の身で撮りあげた本作。 「地獄に堕ちた勇者ども」がヘルムート25歳、 「ルートウィヒ」が28歳そして本作「家族の肖像」が30歳と、美しく変化していく20代後半から30歳のヘルムート・バーガーのそれぞれの年齢の美しさを映像に描きつくしたルキノ・ヴィスコンティ。 「地獄に堕ちた勇者ども」でヘルムートを全裸で立たせ、そして5年後の「家族の肖像」でも全裸でシャワーを浴びるヘルムートは、入ってきた教授の前で極めて当たり前のように全裸で向き合い、普通に会話をする。5年という歳月がこういうシーンすらすんなりと絵になる、ヘルムートの成熟すら感じさせる。 「ルートヴィヒ」の撮影現場ではスタッフたちがそばに近づけないほどヘルムートに対して激しい叱責と檄が飛んだという。そして私生活ではヘルムートにも自分と同じレベルの芸術的感性を求め、ヴィスコンティもまたヘルムートが好む音楽を理解しようとし、ビートルズをランチに招待したりなんかもしたそうだ。招かれたビートルズもさすがにこのランチには緊張しまくったとか。師として尊敬する人であり、父親以上に父親的な存在であり、そして恋人でもあったヘルムートにとってのヴィスコンティという存在。老教授とコンラッドとの関係に投影されているように思えてくる。 ![]() 彼の美しい裸身を撮り、蝋燭の光の中でビアンカの娘リエッタと裸で踊るシーンは妖しいまでのなまめかしささえ覚える。ナイーブさと過激さの危ういバランスを抱えたコンラッドという青年。そしてその過激さゆえから起きた彼の死。 2階を歩く今は亡きコンラッドの足音を聴きながら、涙し、孤独を噛み締めて一人静かに息をひきとった教授。 実生活と重ね合わせて映画を観るというのは、あまり好きではないのだけれど、本作をなんどもみていると、ヘルムート・バーガーに対する愛情、シニカルな思いも含めヴィスコンティ最期のメッセージのように思えてくる。 「山猫」でバート・ランカスター演じたサリーナ公爵と、実の息子以上に愛情を注いだアラン・ドロン演じた甥のタンクレディだが、両親のいない甥に対する肉親の情愛以上のものは感じられなかったが、本作で老教授がコンラッドに抱く愛情は、魂そのものが求める、そんな叫びのような愛を感じずにはいられない。 しかしそれ以上にヴィスコンティは、本作で、第二次大戦を経験した教授、そして資本主義体制国家打倒を叫んだ1968年という時代のコンラッド、そのあとの豊かな物質文明を享受し、研いだ爪と自我を優しさのオブラートで包み世間と巧みに調和させる術をもったリエッタとステファーノという3世代を登場させることで、70年代以降の社会、家族、世代間の断絶、希薄な人間関係といった戦後社会の歪みを鋭い洞察眼で指摘し、痛烈な眼で描いていることにも驚嘆する。 今更ながら、私ごときがですが、ルキノ・ヴィスコンティの描いた映像世界って凄いなって思うし、好きだなって思う。 Tags:#ルキノ・ヴィスコンティ
ROCCO E I SUOI FRATELLI
1960年/イタリア・フランス/118分 監督: ルキノ・ヴィスコンティ 製作: ゴッフリード・ロンバルド 原作: ジョヴァンニ・テストーリ 原案: ルキノ・ヴィスコンティ/ヴァスコ・プラトリーニ 脚本: ルキノ・ヴィスコンティ/スーゾ・チェッキ・ダミーコ/パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ/マッシモ・フランチオーザ/エンリコ・メディオーリ 撮影: ジュゼッペ・ロトゥンノ 音楽: ニーノ・ロータ 出演: アラン・ドロン/アニー・ジラルド/レナート・サルヴァトーリ/クラウディア・カルディナーレ/カティーナ・パクシヌー/アドリアーナ・アスティ/シュジー・ドレール/ニーノ・カステルヌオーヴォ 「時代の情景」のトムさんがご自身のブログで、ルキノ・ヴィスコンティの「若者のすべて」を通して、無産階級であるプロレタリアートについて興味深い考察をされていて、それに大いに刺激をうけて、久々に「若者のすべて」をじっくりと見直す機会を得た。 ![]() 産業の発達とともに農業国から産業国へと社会経済の基盤が移り変わっていく中で生み出される南北格差、労働者の職を求め南部の農村から産業都市への移住問題、そこから生み出される様々な摩擦や差別。 そして経済活動の変化が人々の生活や家族のあり方を変え、ひいては人々の意識や価値観さえも大きく変えていったことは経済社会の変遷の歴史を見るまでもなく明らかだろう。 こうした時代の流れが社会の運命であるならば、大都市ミラノに移住してきたロッコとその兄弟たちが味わう家族の転落と崩壊のシナリオもまた時代がもたらす運命といえるのだろうか。 貧困にあえぎ家畜のように扱われてきた悲惨な思いを子供たちにさせたくないと、故郷を捨て、よりよい暮らしを求めてミラノに移住してきた無産階級のこの家族が都会の中で無残にも分解していく過程を、シモーネとロッコの二人のパトスを通してヴィスコンティが描いたテーマは、現代社会が抱える病巣にも通じるものであり、いかにヴィスコンティが人間の本質を深く見据えていたかがよく分かる。 ちょっと横道にそれるが、ヴィスコンティが本作で描いたテーマに直裁に通じる作品を、今までブログで感想をあげた作品でみてみると…。 ポーランドの映画作家キェシロフスキは「デカローグ」(1988~1989)で物質文明とひきかえに現代人が味わう孤独を描き、 「ある殺人に関する物語」では、緑のフィルターをつけて撮影されたポーランド・ワルシャワの町を「空虚な都会、薄汚れた都会、悲しげな都会、人々もそれと同じだ」とキェシロフスキは語っている。 そしてフランスの作家ミシェル・ウエルベックは「素粒子」において、人類の手でクローン操作によって生み出された新人類に、旧人類の20世紀を検証・総括するという形でヨーロッパに蔓延する病巣を抉り出している。そして映画「素粒子」 (2006)ではその病巣の膿にまみれた人間の姿を生々しく描き出している。 また、パロンディ家が暮らしていた南イタリアのルカニアでの暮らしは、次男のシモーネが四男のチーロに語った「ただひたすら奉仕するだけの家畜同然の扱い」であり、また三男のロッコがボクシングの試合でチャンピオンになったその祝いの席で家族たちに語った「俺たちの故郷はオリーブの国だ。月が美しい国だ。明るい虹の国だ。」と語る慈愛にあふれた故郷でもあった。 こんなロッコたちの故郷での暮らしは、オルミ監督の「木靴の樹」(1978)で描かれた、過酷な現実を生き、けれど労働の喜びに溢れ、神に祈り、家族が寄り添って暮らし、そして家畜のように故郷を追われていく貧しき民の姿と重なるものだろう。タヴィアーニ兄弟の「カオス・シチリア物語」(1984)の中の第1話「もう一人の息子」でも移民の悲哀が色濃く描かれている。 こうした現実はイタリアやヨーロッパのみならず、市場経済の波によって砂漠化する内モンゴルを追われ、騎馬民族という男の誇りを捨て町で暮らす決意をするに至る一人の男の葛藤を描いた「白い馬の季節」(2005)でも描かれている現実でもある。 関連作品で長くなった続きでさらにもう少し。横道にそれるが……。 人間の歴史の中で社会の発達が避けられない流れであるならば、「ミラノに移住してきたロッコとその兄弟たち家族を襲う転落と崩壊のシナリオもまた時代がもたらす運命といえるのだろうか」と書いたが、社会の発達は家族形態や生活形態のみならず戦争の形態をも変えていった。「木靴の樹」のオルミ監督は「ジョヴァンニ」(2001)で「新しい兵器が戦いを変え、戦いが世界を変える」と語り、「機械とテクノロジーに支配される現代、倒すべき敵は顔も声もない。痛みや憐れみを理解する心はもはや失われてしまった。激しい愛にも憎しみにも無関心になり、他人との距離を保つことばかりに気を取られている。」と16世紀の戦いの物語を通して現代に警鐘をならす。 話は戻って…。 「若者のすべて」におけるパロンディ家の家族の崩壊あるいは人々の意識の変貌は、すでに冒頭で色濃く描き出されている。 父親を失ったロッコとその兄弟は母親と共に、出稼ぎに来ていた長男ヴィンチェンツォをたよって大都会ミラノに移住してきた。 長男ヴィンチェンツォ 彼は、父親の死を知っても故郷には帰らず、同じ南イタリア出身で先住のジネッタ家の娘と婚約し、すっかリ都会の生活になじんでた。そんな彼の姿には族よりも個人の幸福を求める個人主義が芽生えている。 そして同郷だったジネッタ家も、ミラノにやってきたロッコたち家族に対し、厄災扱いし追い払う。地縁の絆が都市では絶たれているという現実を見せつけられる光景だ。 安いアパートを借り、家賃を滞納し立ち退き処分を受け、役所が提供する無償の立ち退き宿舎に入る、いわば法の網をくぐる方法で一家は住む場所を確保する。都会における無産階級者たちが、貧困ゆえに法をかいくぐらなければ生きていけないというこの現実は、貧困が犯罪の温床となる構図でもあるだろう。 次男シモーネ。 おとなしい兄と違い、シモーネは兄弟の中でいちばん強ぶっているけれど、甘えん坊で内面は弱い男だろう。家畜のような南部の生活から抜け出そうという野心を誰よりも強くもっていたことだろう。シモーネは、多くの南部民たちと同様、成功すれば金持ちになれるボクシングで身を立てようとする。しかし一人の娼婦ナディアに溺れ、ボクサーとして少しは成功したことが災いし、都会の享楽の中で身を滅ぼしていく。 四男のチーロ 彼は、次男のシモーネ、そして三男のロッコを冷静な目で見つめ続けてきた存在といえるだろう。 シモーネが執着するナディアを殺害した時、自首を主張するチーロに対し、シモーネを救うのが家族だとロッコは主張した。そんなロッコを振り切って警察に通報したチーロ。翌朝シモーネは逮捕された。それを五男のルーカはチーロに告げにやってきて「警察に兄弟を密告して満足だろう?」となじられた時、チーロは静かにルーカに諭す。 「優しかったシモーネは都会の毒に染まったんだ。それに追い討ちをかけたのがロッコの寛容さだ。ロッコは聖人だ。なんでも許そうとする。でも世の中には許してはいけないことがあるんだ。」 さらにチーロは 「ロッコは故郷へ帰れというけれど、故郷に帰って何がある。故郷も変わっていくんだ。みんな都会のようにいい暮らしがしたいんだ。これが俺たちの運命なんだ。」とルーカに語る。 ![]() 三男のロッコは「都会になじめる人間もいるけれど、僕は故郷に帰りたい。都会には住めない人間なんだ。」と、兄弟の中でいちばん故郷を引きずっている人間といえるだろう。ロッコの姿に「木靴の樹」の神に祈り、すべてを受け入れる農民たちの姿が重なる。 そしてそれは兄弟が「ロッコは一度決めたら、絶対に決心を変えない」という強靭さでもある。 シモーネがその貧しさに、ロッコがその美しさに、それぞれの故郷の生活を強く引きずっていたのに対し、少年だったチーロやルーカたちは農民の暮らしの中で受け継いだ価値観や意識に囚われていない、いわば新しい世代、移民2世ともいえるだろう。 だからこそ、シモーヌの犯した行為について、ロッコの規範が神にあるのに対し、チーロの規範は社会の掟である法にあったともいえるだろう。 しかし、ロッコが「正義なんて信じない。シモーネを誰にも裁けないんだ。」というこの言葉は、キェシロフスキの「デカローグ第5話:ある殺人に関する物語」 (1987)で弁護士ピョートルがまさに苦悩する命題でもある。 シモーネが溺れたナディアは、ロッコにとっても最愛の女性だった。娼婦だったナディアはロッコと出会ったことによりまっとうな人間として生まれ変わろうとしていたが、それがシモーネをさらに修羅場に追い込むことになった。ナディアはシモーネよりもロッコを愛し、内面の弱さからボクサーとして自分を律しきれず身を持ち崩していくシモーヌに代わり、ボクサーとしても評価をたかめていくロッコ。 「あいつならチャンピオンになれるさ」そういったシモーネの言葉の裏にあるは、兄としてロッコの上にたっているけれども、ロッコの方が自分より優れているというコンプレックスとプライドをない交ぜにしたロッコに対する屈折した感情が読み取れる。シモーネは直情的な性格から理性より力に訴えて押さえつけ獲得しようとするタイプの男だ。だからこそ、ロッコの寛容さが結果的にはシモーネの立つ瀬を奪い、さらにその屈折率を深めていったのだろう。 ![]() ロッコを見ているとそんなシモーネの思いを知っていたのではないだろうか。注意してみると、常にシモーネを気遣い、彼の前に出ないようにしているロッコの姿があることに気づく。家族を大事にしようとする気持以上に、シモーネを気遣い庇おうとするロッコがいる。 「僕が悪いんだ。僕のせいなんだ。僕が何とかする。」 そして、ボクシングで相手に勝利してチャンピオンになった時、彼は涙を流す。「勝ったんじゃない。自分の中にある憎悪が一度に吹き出して相手に叩きつけたけなんだ。」自分の内に潜む暴力に彼はおそれおののく。 ロッコは兄弟の中で誰よりも強く原罪の意識を持っていた人間ではないだろうか。家族を守るため捨石となろうとする自己犠牲精神は、彼の贖罪の意識から出たものではないだろうか。 こうしたロッコにみられる罪の意識についてヴィスコンティは「私の作品に出てくる南部人特有のものとされる中に充分に感じ取れる」と指摘している。 大地と自然の恵みによって糧を得ていた南部人にとって、神への信仰は宗教というレベルを超えて、自らの生存そのものに立脚するものでもあっただろう。 三男ロッコ チーロが聖人と称し、アナクロニズム的ともいえる自己犠牲でもって家族を守り抜こうとするロッコを演じたのがアラン・ドロン。 ヴィスコンティと初めて組んだ映画が本作である。 ロッコこそアラン・ドロンであり、もし他の俳優を強制させられたら、私はこの映画を撮らないとまでヴィスコンティに言わしめたアラン・ドロンの美しさ。ヴィスコンティは、ドロンの単に美しいだけではない複雑な内面をうかがわせるその美貌に、家族の受難をその身に引き受け、ボクサーという世界に生きようとするロッコの悲劇性と、「一度決めたら決心を変えない」強靭さ見出したのだろう。 ![]() ヴィスコンティは映画づくりの中で俳優についてこう語っている。1960年はルネ・クレマンの「太陽がいっぱい」の製作年でもある。同じ年にフランスのルネ・クレマンとイタリアのルキノ・ヴィスコンティが、ドロンの一筋縄ではない複雑さを帯びた美貌から、それぞれにドロンの魅力を最大限に引き出した作品が生まれたというのも興味深い。後にドロンがルネ・クレマンとルキノ・ヴィスコンティによって磨き上げられた男といわれるのもこのためだろう。 こうしてロッコとその兄弟たちの強い絆はミラノで崩壊してしまったように見える。長男ヴィンチェンツォは自分の家族の幸福だけを願い、次男シモーネは殺人罪で逮捕され、三男ロッコはシモーネの多額の借金を返済するためボクシングジムと10年間の契約をし、涙を流すほど嫌う戦いの世界で生きなければならず……。 ![]() しかし、恋人の「あんたが大好きよ」というその一言に四男チーロに生きる喜びにも似た笑顔が生まれ、家路につく五男のルーカが、街路の壁にずらりと貼られたボクサー姿のロッコのポスターを手で撫でながら帰る姿に、ロッコに対するルーカの労わりを感じてしまうのは思い入れすぎるだろうか。 故郷を引きずってミラノにきたシモーネやロッコの悲劇もまた家族の歴史だろう。そしてパロンディ家の歴史はチーロとルーカによって新しいページが開かれていくだろう。絶望の中に彼ら二人に家族再生の希望の光を見出す。 それは「揺れる大地」で、何もかも失ったアントニオが再び漁船に乗り、風に帆がはためく中、漁師たちの掛け声、波の音の中、力いっぱい魯をこぐ、漁師として生きる喜びを知った姿に見出した光でもある。 しかし、ルキノ・ヴィスコンティが本作以降、上流階級あるいは貴族階級に視線を移しても、一貫して「崩壊」をテーマに人間を描き続けた彼の視線は変わらない。しかし、本作以降のヴィスコンティの作品に描かれているのは人間の終末の姿だ。 時代の中で取り残された者の転落、あるいは崩壊という悲劇のシナリオは、次作「山猫」でバート・ランカスター演じるサリーナ公爵が最後に見せたあの悲哀の眼差しから、さらに退廃と狂気へとその色を濃くしていく。 本作は当時のイタリアの最大の社会問題であった南イタリア住民の北部への移住問題を描いており、それは現在も根強くその影を引き摺っている問題でもあり、この南北問題は、単に貧富の格差の問題のみならず、文化、民族、宗教的な違いによる問題も大きく、時として差別問題にまで発展する問題でもあり、作中でもそうした描写は随所にある。ヴィスコンティは当時のイタリア社会の問題を真正面から描いたともいえるだろう。そのため、時の政府は、国内の暗部を暴くことに強い嫌悪感をみせ撮影時もかなりの弾圧を受け、公開後にも検閲が入り、その後30年近く国内ではまともな形で上映されなかったそうだ。 Tags:#ルキノ・ヴィスコンティ
LUDWIG
1972年/イタリア・西ドイツ・フランス/184分 ![]() TSUTAYAでレンタル。 邦題は「ルードウィヒ 神々の黄昏」となっている。 一緒だった友人が「まだ観るの? 今ごろなんで?」って。 なんでって、実は先日ヘルムート・バーガーの美しき裸身の写真をじっくりと見る機会がありまして、これは彼が何歳くらいかしら。顔の雰囲気だと「家族の肖像」あたりかしら。ギリシャ彫刻(ほど筋肉質ではない)のようなその全身像に、涎まではいかずとも、やはり美しいものはじっと見つめてしまう。(実際のバーガーは初老の域。でも写真や映像は永遠にその時の美しさをとどめている) で、やはりバーガー出演の作品が観たくなる…となると、ヘルムート・バーガーといえばルキノ・ヴィスコンティ。 「ヴィスコンティ最後の愛人」 「ヴィスコンティの盛った数々の毒杯を飲み干し、沃花として、観客を心地よく酔わせ……毒杯を盛る主がいなければ、彼は死んだも同じ……」 「ヴィスコンティの作品に出るためにこの世に生まれてきた男」 ヴィスコンティとの関係の中でバーガーを語る言葉は多い。それほどヴィスコンティ作品におけるヘルムート・バーガーからはヴィスコンティの美学がむせ返るほど匂い立っている。 21歳で、59歳だったヴィスコンティに見出され、25歳で「地獄に墜ちた勇者ども」(1969)でドイツ鉄鋼財閥の継承者として生まれ、母を犯し、ナチに傾倒し、ナチの軍服を身にまとい、自滅の狂気の淵に向う青年マーティンを演じ、28歳で、19世紀小国に分立するドイツの一国であるバイエルン国王ルードウィヒを演じ、30歳「家族の肖像」(1974)は、死を予感したヴィスコンティのバーガーへのオマージュが散りばめられたともいえる作品。バート・ランカスター演じる老教授が、バーガー演じる青年に見せる愛情は、ヴィスコンティのそれと重なるような……。 1976年3月17日、ルキノ・ヴィスコンティは心不全により69歳の生涯を閉じている。まさに若い男の一番美しいその時々に、いちばん相応しい役を演じさせ、バーガーから毒の花を妖しく咲かせ、ヴィスコンティによって役者の精気を全て搾り出されたバーガーには、後には何も残っていないと評されるほど、ヴィスコンティによって創り出されたバーガーの役はどれもゾクゾクする魅力がある。 狂気、退廃、破滅、死、邪悪……ヘルムート・バーガーには、そのエキセントリックさを感じさせるような台詞の言い方とか声とかその表情や、彼の演じる役から、こんな言葉がよく似合う。晩年のヴィスコンティが描こうとした世界でもあるだろう。 そんな中で美しき裸身から、美しきバーガーを堪能するとなると、やはりヴィスコンティの執念の作ともいえる「ルードウィヒ」。 19歳でバイエルン国王となったその戴冠式で見せたクリスタルのような緊張と硬質な輝きで初々しい美しさをみせたルードウィヒ。 しかし高い美意識をもつ彼の関心は国政よりも芸術の世界に注がれ、作曲家ワグナーに心酔し国費をつぎこみ、更に彼の美学を注ぎ込んだ城を3つも建造し、戦争に負け、ほとんど財政破綻にまで追い込み、医師からパラノイアと診断され、側近によって王位を剥奪され、40歳で自殺か暗殺かとその死が謎とされる非業の死を遂げる。美しかった彼の容貌は、孤独と絶望が精神を荒ませ醜悪な歪みを見せるまでに至る彼の失意の半生。 国王になったばかりのルードウィヒの美しさが際立つだけに、晩年のルードウィヒの荒み歪んだ容貌に、さらに彼の悲劇性を思い涙腺がゆるんでしまうほど。 ![]() 「このまったく孤独で、精神異常を宣告された、若く壮健で、とほうもなく美しいルードウィヒ」とヴィスコンティが語り、「地獄に墜ちた勇者ども」「ベニスに死す」に続く「ドイツ三部作」の最後を締めくくるに相応しい人物として、そして、「彼を演じられるのはバーガーしかいない」と言わしめたヘルムート・バーガーのルードウィヒ2世。 流れる音楽と美しい映像に酔いしれ、ルードウィヒの心情にウルウルとなりながら、時間など忘れ魅入ってました。ラスト、雨が降る夜の闇の中、幽閉されたルードウィヒのたっての希望でグッデンに付き添われて庭を散歩するルードウィヒをシルエットのように映し出す蒼い闇。こんな映像も美しい。 そんなルードウィヒ2世が生きた時代の貴族社会を完璧に再現した豪華絢爛な衣装、調度品、装飾の数々。ルードウィヒの子孫にあたる一族の協力を得て、生誕地であるニンフェンブルグ城や、彼が建造したノイシュヴァンシュタイン城、リンダーホーフ城で実際のロケも行っている。「監督よりも衣装や装置を担当したかった」とヴィスコンティが語るほど、貴族の家柄のヴィスコンティには本物が当たり前。これらに要した費用だけでもどれだけ膨大だったか想像するだに恐ろしい。 しかし、その映像はどの場面をとっても、ため息が出るほどゴージャスで美しく上品な重厚さがある。 おかげで映画製作会社は倒産し、自身も酷寒のロケなどの過酷なスケジュールから、心臓血栓の発作に倒れ左半身付随になるも、車椅子で撮影に臨み、恐るべき執念と強靭な精神力で完成させたという、そんな気迫は作品にも濃厚に立ち込め、息苦しさを覚えるほど。 ヴィスコンティにとって、少年と大人が共存する28歳というこの微妙な年齢。バーガーのこの時を逃がしたら二度と撮れない作品だったのだろう。 私生活ではこの年若い愛人であるバーガーに翻弄されていただろうヴィスコンティだが、撮影現場では、周囲がたじろぐほどバーガーの演技に対するヴィスコンティの要求は過酷きわまるほど厳しかったという。私生活では姉弟のように仲の良かった共演者のロミー・シュナイダーは「バーガーはストレスに耐え切れなくなると、私の部屋にきてベッドにもぐりこんで泣いていたわ。そんな彼をよく慰めてあげたわ。彼は弟みたいな存在だから、変な関係じゃないわよ」ってそんなエピソードも記憶にある。 そんなヴィスコンティの要求に応え、この作品でバーガーがみせる演技はまさに渾身の一作。表情、顔の動き、動作の一つ一つがルードウィヒの内面に肉薄し、彼の悲劇を見事に体現している。この一作だけで燃焼仕切ったとしてもいいんんではないかしらって思うほど。 従姉であるオーストリア皇妃エリザベートに対する彼の一途な思慕、添い遂げられない思い。彼女の前ではいつも緊張と恭しさがあり、彼女の言葉、振る舞いに敏感に反応する様などは見ていて、ちょっと微笑ましいところもある。エリザベート役のロミー・シュナイダーも勝気で輝くばかりの美しさを見せている。そんな2人の逢瀬を楽しむ姿の幻想的な美しさ。ルードウィヒがまだ幸福に輝いていた頃。 ![]() 彼にとって美が全ての基準。 彼の感性はあまりにも純粋であったがために、自分を偽れなかったのだろう。 彼の美意識から外れる醜悪、偽り、策謀といったものは受け入れがたく、ドイツの小国家、同じ一族の血が流れ、一族の中で近親結婚と戦争を繰り返しているこの世界もまた、彼にとっては醜悪以外の何者でもなく、策謀による愛の無い結婚もまた苦痛を強いるものだったのだろう。 彼のプライドもまた国王のそれというよりも、彼の美意識に基づくものだろう。 美に対する謙虚さを持つ一方で、美から外れたものに対する残酷さも表裏一体のものとして内在させている。 そんな彼の美意識は、ことごとく現実の中で踏みにじられていく。国王としての義務と自らの美意識が引き裂かれていく様は、見方によっては我儘となるのだけれど、そんなルードウィヒの内面の葛藤がバーガーを通して表出され、彼が心酔する世界に引き篭もっていく様も痛ましい。 男色に人知れず苦悩し、ワーグナーに裏切られ、前線に赴いた弟君オットーは精神が壊れ、気に染まぬエリザベートの妹ソフィーとの婚約、エリザベートからの拒絶、プロイセンの属国に成り下がるという屈辱的な敗戦、利害に奔走し彼を抑える側近たち……失意の彼にとって自分が建造した夢の城で幻想に浸ることだけがルードウィヒに残された世界。 余談ながら、この弟君オットー殿下を演じたジョン・モルダー=ブラウン。私は勝手にMilkyBoyと呼んでいるかわいい子。その彼が戦場のおぞましさに精神を病んだ姿も痛ましい。暴れる彼が、自分の名を呼ぶ兄の声に見えない目で兄を求め、その胸に顔を埋める姿にも泣けてくる。 突出した美意識と純粋さが国王ルードウィヒ2世の悲劇だったのか。 領土をめぐる戦争と陰謀が渦巻く現実で生きるには、余りにも繊細で硬くて透明すぎたのだろうか。美の極みの腐敗した肉体を抱え、精神の孤高に自らを追い込んだその姿は、常人には狂気と映るのだろう。国王としてのルードウィヒを案じる故に彼を拒絶するも、彼の唯一の理解者であったオーストラリア皇后エリザベートは「国王は狂ってなんかいなかった。夢の世界に逃げただけ」と彼の死を暗殺と信じ、彼のデスマスクの写真を終生離さなかったという。そのエリザベートもアナーキストによって暗殺されるという悲劇。 そして遺体となって横たわるルードウィヒの死に顔が映し出され、その映像とかぶさって流れるのは、ルードウィヒが敬愛したワーグナーの未完の曲で本作で初めて演奏されたというから、ヴィスコンティ最後の最後まで拘り抜いて、この悲運の王ルードウィヒ2世を描いている。 「ルードウィヒ」は当初、製作会社との契約により上映時間は3時間以内と決められていたため、ヴィスコンティは多くのシーンをカットした187分のイタリア語版と、120分の英語版を仕上げたが、カットされたことを惜しむ声を受け、ヴィスコンティの死後4年たって240分の完全復元版が作られた。 今回私が観たのはカットされた187分の方。 完全版は側近達が回想するシーンはなく、エリザベートとの逢瀬シーンや王家の悲運を案じる皇太后の改宗シーンなどが加えられていて、幽閉されてからの様子などもももう少し描かれているけれど、以前みた完全復元版の記憶も薄れ本作と絡まり、あのシーンがない!って思うほどのものではなかったかと…続きで見比べたらどうかな? 監督: ルキノ・ヴィスコンティ 製作総指揮: ロバート・ゴードン・エドワーズ 脚本: ルキノ・ヴィスコンティ/エンリコ・メディオーリ/スーゾ・チェッキ・ダミーコ 撮影: アルマンド・ナンヌッツィ 音楽: フランコ・マンニーノ 出演: ヘルムート・バーガー ロミー・シュナイダー トレヴァー・ハワード シルヴァーナ・マンガーノ アドリアーナ・アスティ ソニア・ペトローヴァ ジョン・モルダー=ブラウン マルク・ポレル ゲルト・フレーベ Tags:#ルキノ・ヴィスコンティ
< 前のページ次のページ >
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||