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寒い寒いとか言ってる間に、もう2月も今日で終わり。 ![]() ![]() ![]() 金木犀の下がなんとなく寂しくて、葉が生い茂ると程よい日蔭になるので、昨年に近くのホームセンターでクリスマス・ローズ小さな苗を買ってきて地植えしたもの。ところがいつもは秋にお願いする植木の剪定を五月にしてもらったら、金木犀までもこざっぱり過ぎるほど散髪されてしまって刈上げ状態に。格好悪いけど夏の間中、金木犀の上から黒い遮光ネットで覆って昨夏の猛暑を乗りきり、ぐんぐん大きく育ってくれた。寒い1月のある日、ふとみると葉の下から蕾がほころんできた!と思ったら、この週末には花が咲いて。蕾も一杯。これから次々に花が咲くんでしょうね。 ![]() 一昨年に続き頂いた富山のチューリップも、土の中から芽を出し始めてる~! 10月に植えたところはもう葉が伸び始めてるそうだけど、私が植えたのが11月だからこれから。春のぬくもりごとに大きくなっていくんでしょうね。 ![]() 昨年買った小さな鉢植えのヒヤシンス。花が終った後の球根を、駄目元でとりあえず地植えしたら…ツワブキの横から出てきてるのはヒヤシンスだよね! この場所は、リフォームで広げた亭主の「俺の部屋」のおかげで日蔭になってしまった場所。この辺りはもともとは西南門でブロック塀と生垣でほどよく太陽が遮られて、我が家で飼っていたゴールデンレトリーバ(ラッキーとベル)にとっては夏場の避暑ゾーンだったところ。生垣の下の一等地は上のラッキーが占領し、ベルはその横に穴を掘って涼んでいたところ。ここには動物霊園で火葬してもらったラッキーとベルの骨が埋まっている。優しかったベルを思わすようなアジサイを植えたけど、日蔭なのでうまく芽吹いてくれるかしら。 この週末は友だちを招いて雛祭り。 せっかく飾った雛壇も嫁いだ娘には写メールだけで、誰にも愛でてもらえずにまたお蔵入りって可哀想だから、乙女に戻って華やぎましょう(笑) ♪When a man loves a womanやっぱりこの曲聴いて頭に浮かぶのはニール・ジョーダン監督の本作「クライング・ゲーム」でしょう! THE CRYING GAME カメラが川を臨む河川敷ののどかな遊園地をゆっくりと映し出すオープニング映像に重なって、マイケル・ボルトンが歌うパーシー・スレッジのこの曲「When a man loves a woman(男が女を愛する時)」が流れてくる。 ♪男が女を愛する時アカデミー脚本賞を受賞した本作が放映されていて、久々に観て、やっぱりこの曲はこの映画!って思う ブロンドの女ジュードに誘われたイギリス軍兵士ジョディ。 遊園地を出た二人は抱き合うも、ジョディの頭上に拳銃が。 こうしてIRA(アイルランド共和軍)に拉致されたジョディは、イギリス軍に捕らえられた同志と引き換えの人質として彼らのアジトに監禁される。ジョディに拳銃を突きつけたIRAのファーガスが彼の見張り役につく。 IRA闘志ファーガス役のスティーヴン・レイと英国兵ジョディ役のフォレスト・ウィッテカーのアジトでの二人の演技というか、徐々に親密さが芽生えてくる二人のやり取りがGood! ジョディがファーガスに語るサソリとカエルの話。 『川を渡りたがっているかなづちのサソリが、カエルの背中に乗せてくれと頼む。カエルは云う。君を乗せたら僕を刺すに違いない。サソリは答えた。僕が君を刺したら両方とも溺れてしまう。カエルはしばらく考え納得し、サソリを背中に勇敢に川を渡り始める。だが半分まできたところで強烈な痛みを感じ、自分がサソリに刺されたことに気づく。徐々に沈み始めるサソリとカエル。カエルは叫んだ。サソリ君なぜ僕を刺したんだ?溺死すると分かっていながら。サソリは答えた。仕方がないんだ。これは僕の性(さが)だから。』そしてファーガスに向ってジョディは言う。 「お前は優しい。それがお前の性なんだ。その性から人は絶対に逃れられないもんだ。そういうもんなんだ。」 ![]() 処刑が決まったジョディはファーガスにロンドンにいる恋人のディルにあって、「愛していたと伝えてくれ」と頼む。縛られた縄を解きまんまと逃げたジョディ。その後を追うファーガス。だが、ジョディをどうしても撃てないファーガス。 「お前には俺の背中を撃てないんだ。ファーガス」そう叫んで道路へ飛び出したジョディはIRAアジトに強行突入せんとするイギリス軍トラックと衝突してあえなく死んでしまう。 アジトを襲撃され、ファーガスはそのまま身を隠してロンドンへ。 ロンドンでジョディの恋人ディルに会ったファーガスは、彼女の不思議な魅力に惹かれる。 ディルと愛を交わし、そして服を脱いだディルを見て驚愕し、そのままトイレに駆け込みゲロを吐く。 ディルは男だった。 それでも翌日になると、ディルが常連の酒場に行って昨晩の非礼をわびるファーガス。 「優しくされると、とことん尽くしたくなるの」というディルはファーガスを『ハニー』と呼び、そんなとことん一途なディルの愛を、優しいファーガスは愛しく受け止める。 ジョディを拉致するために誘惑したIRA女兵士ジュードを拳銃で撃ち殺したディルの罪をかぶり刑務所送りになったファーガス。 「ハニー」とよんで面会に来たディルに「ハニーはよせ」といいながら、サソリとカエルの話を語ってきかせるファーガス。 本作の主題歌はカルチャー・クラブのヴォーカリストとして知られていたボーイ・ジョージが歌う「Crying Game(涙のゲーム)」。 死んだイギリス兵士ジョディの恋人ディルが、作中で酒場のステージで歌うシーン。 ![]() 「When a man loves a woman」と「Crying Game」 二つの歌がまるで男から女への、女から男への、愛するものから愛するものへの一途な愛の相聞歌のよう。 そして四面楚歌の中にあって、なお、律儀なまでに愛に誠実なファーガス。 これぞニール・ジョーダン流「When a man loves a woman」。そして「人が人を愛する時」 どこまでもいい奴ファーガスを演じるスティーヴン・レイは北アイルランド出身の俳優。ニール・ジョーダン監督作品の常連ともいえる人。 MOULIN ROUGE!娘は「トレインスポッティング」以来のユアンのファンだけど、私は「シャロウ・グレイプ」で、床下の札束の上で彼が見せたニタリ顔で、「なかなかの曲者役者じゃん」と思って以来のユアンのファン。 「ベルベット・ゴールドマイン」では、イギー・ポップがモデルと言われるカート・ワイルドはなりきり演技。「ナイトウォッチ」や「悪魔のくちづけ」などという、ミステリアスだかの変な作品にも出ているし、キャメロン・ディアスと共演の「普通じゃない」は、クビになった腹いせに社長令嬢を誘拐する気の弱いビルの清掃員の気の弱さも様になっているしで、彼が出る映画は駄作でもなんでもそれなりに楽しませてくれる。 ![]() 彼の出演作で結構お気に入りは、メジャーな作品じゃないけれど「猟人日記」。 スコットランド・グラスゴーにあるクライド川を行き来する一隻の平底荷船が主な舞台。冷え冷えとした心をもつ作家くずれの青年役なんかはユアンならでは。共演のティルダ・スウィントンの存在感には鳥肌が立つほど。 それからアルバート・フィニーの若き日々をユアンが演じたティム・バートンの「ビッグ・フィッシュ」も好きな作品。 それから本作。 相手役がニコール・キッドマンというのがちょっと気に入らなかったけど、ユアン大好きで観にいったのが、レオナルド・ディカプリオとクレア・デインズ版「ロミオとジュリエット」のバズ・ラーマン監督作品の「ムーラン・ルージュ」。 1899年、夜のパリを象徴する魅惑のナイトクラブ「ムーラン・ルージュ」を舞台に、踊り子そして愛を金で売る高級娼婦サティーンと若き作家クリスチャンの悲恋のラブストーリー。 ビートルズやエルトン・ジョンやマドンナなどの曲に乗せて綴られていて、そんな辺りが好き嫌いが分かれているそうだけど、絢爛な衣装と美術と歌と踊りと、まるでおもちゃ箱を引っくり返したような賑々しい楽しさで結構お気に入り。 作中の歌はユアンとニコール吹き替えなしの自前で歌っていると劇場パンフに書いてあったのを覚えている。撮影中にニコールが肋骨だかを骨折したというのも書いてあったっけ。 ![]() ORDINARY PEOPLE シカゴ郊外の瀟洒な住宅に暮らす弁護士一家。 ヨット事故で母親が溺愛していたスポーツ万能の長男を亡くし、生残った次男は自殺未遂を図る。愛情と信頼に溢れ幸せにみえた家族の歯車が、一つの不幸な出来事によって軋みだし噛み合わなくなっていく。幸福という甘い衣で覆われていたものが、不幸な出来事によってつけられた傷口から滲み出してきたといっていいだろう。 父親、母親、次男の一人一人の内面、彼らの生活を丁寧に描き出している。そこから一人一人の人物像が浮かび上がり、彼らが抱える問題の本質が見えてくる。そしてその背景にあるアメリカ社会が内包する問題そのものが浮かび上がってくる。 ロバート・レッドフォードの監督作品に一貫して流れるのは、丁寧な人物描写とバランスの取れたドラマ性。淡々と描いているのだけれど、観るものを知らず惹きつけさせるものがある。 そして作品に貫かれている社会を見据えた彼の視線だろう。 これはクリント・イーストウッド作品にも通じるものだ。 淡々と描きあげているけれど、単なるヒューマンドラマでは終らず、社会全体を見据えた視線とテーマが作品に深い奥行きを与えているのだろう。 豊かで幸せな家庭像を演じ、にこやかな笑顔で開かれるホームパーティ。 財テクの話題でもちきりの隣人達。 ティモシー・ハットン演じる次男の心の中の悲痛な叫び、恐怖。 本作で助演男優賞でオスカーを手にした当時20歳だったティモシー・ハットンの、瑞々しい演技が素晴らしい。 快活でスポーツマンの長男と弁護士の夫。彼女の中の完璧に理想の家族の構図が長男の死で崩れ去った。夫と妻の二人の幸せの構図に必死な妻を演じたアリー・タイラー・ムーア。彼女の家庭の構図のどこにも次男の存在はなかった。 彼女はコメディ出身の俳優で、本作でそのコメディアンのイメージを見事に覆し、オスカー主演女優にノミネートされた。 家庭をなんとか元の穏やかな状態に戻そうと努めていたドナルド・サザーランド演じる父親が、自分の中にある小さなひっかかり、妻に対する小さな蟠り。それを口にするまでの彼の葛藤の姿には思わず涙腺が緩んでしまう。 父と息子の関係。 アメリカ映画で常に描かれる父と息子の関係。 その再生がテーマとして描かれている。 裏返せば父性の喪失はアメリカ社会ではそれほど深刻な問題としてあるのだろうか。 家族の崩壊と父性再生を描いたドラマともいえるだろう。 以降、さまざまな監督が同様のテーマで映画化していて、ある意味言い尽くされたテーマともいえるだろうけれど、久しぶりに鑑賞してやはり素晴らしい作品だと思った。 本作から30年経ち、アメリカ経済の恩恵をシャワーのように浴びていた作中に登場していた隣人達。 大企業の破綻、リーマンショックがアメリカは大きく揺れ動き、株価に踊り、税テクに熱中していた隣人達はいずこへ… そんなことも頭に浮かぶ。 十七歳的単車農村から北京にやって来て自転車宅配便の配達人となったグェイだが、会社から借り受けたマウンテンバイクを盗まれてしまった。 宅配会社では、最新式のマウンテンバイクを配達員に支給し、売上は歩合制で配達員と会社で分配。自転車は配達員の給与から差し引かれ償還が終ったら自転車は配達員のものになるというシステム。農村から出稼ぎに来たものにとっては、返済するとはいっても、足となる自転車を支給されての仕事だから恵まれた条件といえるだろう。 北京に住む高校生ジャンは、家の金を盗んで中古自転車を買った。 その自転車は小貴の盗まれたマウンテンバイクだった。 彼が着ている制服から察するに北京でも名門の進学校なのだろう。一人っ子政策で受験熱が盛んな中国にあって進学校に進学するのは裕福な家の子供たちが多いだろう。彼らの間ではマウンテンバイクの曲乗りが流行している。マウンテンバイクは高校生の彼らにとっては一つのステイタスでもあるんだろう。 しかしジャンの家は貧しい家庭で父親は生活を切り詰めて教育費を捻出している。ジャンと約束した自転車も再婚した異母妹の進学費用で先延ばし先延ばしになっている。 親の金を盗んで買った自転車は友人達の賞賛を受け、ガールフレンドも出来た。 原題は「十七歳的単車」。グェイもジャンも17歳の少年だろう。 一台の自転車をめぐる二人の少年を通して、経済的な急成長を遂げ急激に変貌する中国社会の、都会と農村、貧富の落差、その著しい落差社会の実態が見えてくる。 夫が一時期単身赴任していた北京を私と子供たちで観光気分で訪れたのは15年ほど前だっただろうか。メインの道路は車と自転車がひしめき合って走っている。グェイが暮らす家からみえる高級マンションの窓の向うに見える一人の女。とっかえひっかえ服を着替え、窓越しに見えるその姿を「窓辺の女」と呼び高嶺の花と思われたその女は、農村からの出稼ぎで、主人の留守に勝手に服や靴をきて、いくつかを盗んでは売りさばいていたという。 急速なモータリゼーション社会の中国だけど、自動車をもてるのは一握りの富裕層だけだろう。庶民の足はもっぱら自転車。盗まれた自転車を捜し求める小貴の姿とともに、荷台に中古の冷蔵庫や、マットレスを荷台に積んで走る自転車もあれば、家財道具を積んで走る自転車もある。 日本に例えれば、戦前と戦後の復興期とそして現代が一緒くたになっているような、そんなアンバランスに歪んだような中国社会。 物質主義経済の波を急激に浴びる一方で、本作が上映禁止処分になるその厳しい規制との間の落差は、マウンテンバイクを巧みに乗りこなす青年にするりと乗り換えたガールフレンド。 ジャンが自転車で小路を走り回る二人を追いかけて、石の塊をその青年にぶつけた暴力。報復で巻き添えを食ったグェイ。彼の自転車を狂ったように破壊し続ける報復仲間の一人。その少年を石で殴りつけた小貴。 よろける身体で自転車を担ぎ、自転車と車のいきかう北京の大通りを歩くグェイの姿は、雑踏の中でその姿は見えなくなる。 ![]() 同級生からの苦肉の折衷案で、一日交代で自転車を共有することになったグェイとジャン。いつしか二人の間に一台の自転車を通して親密感が生まれ握手するまでになった。 そんな二人の少年の純な部分も、暴力という形で掻き消されてしまう。 農村から出てきたグェイの一本気で真っ直ぐな眼差しが、北京の町で薄汚れてしまわないかしらと、そんな思いを抱きながら、彼の姿が埋もれた北京の雑踏の映像が映し出されたラストシーンを見つめていた。 ![]() 一台の自転車をめぐって二人の少年がみせるそれぞれの執着。 一人にとってそれは生きる糧であり、一人にとっては都会に暮らすものの欲望を充たす為のものだった。 一台の自転車を通し、中国社会の現実を描き出した本作。 17歳の少年二人のリアルな青春を見事に演じたツイ・リンとリー・ピンは、ベルリン映画祭で新人男優賞を受賞。 そして、カメラが映し出す中国・胡同の街並みは美しい。 その胡同も北京オリンピックで一部の保存地区を残し、大部分は取り壊されているとのこと。 かつての日本以上の加速度で押し寄せる近代化の波は、中国から美しい物までも踏み潰していくんだろう。日本が歩んだ同じ道を中国も進んでいくんだろう。 一握りの都会人口と、正確な数字がつかめないといわれる農村人口。 ワン・シャオシュアイ監督が、変りゆく中国に対し、さまざまな思いをこめて撮りあげた作品なんだろう。 BEGINNERS75歳にして突然にカミングアウトした父と、そんな父に戸惑う、内向的で愛に臆病な息子という設定。そして「リトル・ミス・サンシャイン」を思わすようなポスターに、ハートウォーミングでコミカルなテイストの作品って勝手に想像していたけど……とっても穏やかで静かな口調でもって、父を語り、父が生きた時代を語り、父と母を語り、そして僕自身と僕の人生、僕の恋愛を語っている。マイク・ミルズ監督自身のとっても私的な映画。 私的なんだけど、決して独りよがり的とか自己陶酔の作品ではない所も素晴らしい。 彼自身が葛藤し、殻を打ち破ったという実感を確かに掴んだからなんだろうと思う。 優柔不断で最後の一歩で臆病になってしまう息子オリヴァーを演じたユアン・マクレガーの、僕の心情を淡々と語るナレーションは、芝居がからず作品にとっても素敵な味わいをもたらしていた。 恋愛の切ない葛藤も初々しく、オリヴァーという青年役をユアン好演。 父の死を静かに受け止め、カミングアウトした後の彼と、それまでの彼が生きてきた長い人生を息子の目を通して辿りながら、一人の男であった父に対する深い愛と敬意が、作品とユアンのナレーションとマイク・ミルズの映像から穏やかに静かに伝わってくる。 カミングアウトして、長きにわたってクローゼットに閉じ込めていた人生を、残り少ない我が人生を、思いっきり弾けて生きた父ハルにクリストファー・プラマー。1929年生まれだから80歳は過ぎて尚、役者としての健在振りをみせてくれている。 今も老いたからこその若い時の硬さのある美形が、加齢とともに柔らかさを増してきたからでしょうか、味わいのある役で新作映画に次々と出演されている。 ![]() オリヴァーの恋人アナにメラニー・ロラン。 彼女の醸し出すヨーロピアン的雰囲気がこの映画に透明感をもたらしている。アメリカンでは出せない空気。とっても魅力的な女優。 そして人間以上にこの作品で重要な存在であるのが、オリヴァーが引取った父の愛犬アーサー。犬種はジャックラッセル・テリア。オリヴァーとアーサーのツーショットがまたGood!アーサーの心の声も字幕で出てくるあたりは、グラフィック・デザインやミュージック・クリップ、TVCMなどで活躍するマイク・ミルズならではのユーモラスなセンスかしら。 マイク・ミルズ監督の前作「サム・サッカー」(2006年)も人生に自信がもてず指しゃぶりがやめられない青年が主人公 ブログにレビューないなって思ったら、この作品を観たのはブログ開設前だったんだ。マイク・ミルズ自身、本作を撮ることで「サム・サッカー」からさらに一歩踏み出して、作品の最後を「BEGINNERS」という言葉でもって明るく締めくくれたんじゃないかしら。
ANIMAL KINGDOM オーストラリア出身の俳優や監督はハリウッドでも名前を挙げたらきりがないほど。 でもオーストラリア発の映画は少ないなぁ。 才能ある映画監督や役者たちの多くはハリウッドに招かれ、そのままハリウッドに。その後オーストラリアに戻ることは稀だということもあるんだろう。その一方で、アメリカの製作会社の多くが、コストの安いオーストラリアにスタジオを構えるようになっているという現実もあるようだ。 ともかくも本作はオーストラリア発の映画で、演技陣で知っているのは巡査部長レッキー役のガイ・ピアースぐらい。 80年代のオーストラリア・メルボルンが舞台。 母親と二人暮しの高校生のジョシュア。 薬物の過剰摂取で母親が急死し、何をどうすればいいのか分からない彼は、疎遠になっている母の実家に連絡をし、祖母が迎えにやってきた。 母は祖母の一人娘。母には3人の男兄弟がいた。 母の実家コディ一家は祖母を頂点に強盗や麻薬売買で生計をたてる犯罪一家。 母の死で住む家を失ったジョシュアは、居心地の悪さと戸惑いを感じながらも彼らと生活をともにし、普通の高校生活を送るも、否応無しに彼らの渦に巻き込まれていく。 ![]() こんなコディー一家をみていると、1930年代のアメリカを荒らしまわったケイト・バーカー一家の犯罪を描いたロジャー・コーマン監督の「血まみれギャングママ」(1970年/日本未公開)を思いだす。警察に収監され精神を病んでしまった本作の三男と、「血まみれギャングママ」で、薬物に逃避した挙句自ら命を絶ったロバート・デ・ニーロ演じた末っ子の姿が重なる。犯罪撲滅を掲げ、コディー一家壊滅を図ろうとする警察は、ジョシュアからなんとかコディー一家の犯罪の証言を取ろうと目論む。そんなジョシュアに対し、コディー一家も警戒する…。 証人保護制度下におかれたジョシュアだけど、コディー一家は一家を守る為ならジョシュアの犠牲もやむを得ないと、ジョシュアの口封じを図ろうとする。 今までの犯罪映画のパターンだと、青年は犯罪の世界から抜け出し、法社会に戻り真っ当な生活を送るか、または真っ当な生活への願望を抱きながら若い命が絶たれてしまう…というような結末が。 でも本作はそんなのとはちょっと視点が違う映画。 ジョシュアは根無し草のようにコディー家と警察、そしてガールフレンドの家を行ったり来たりする。 ひ弱そうに見えたジョシュアが、世間の荒波をまともに受け、自ら生きる本能に目ざめていったともいえるだろうか。 作中どっちつかずでぼやっと輪郭がぼやけていたジョシュアが、その終盤で見せた顔。 受身から能動へ。 そっから先はどんな道であろうと、ジョシュア自身が見出していくだろう。 こんな映画をみていると、ハリウッド映画となると、どうして装飾過多気味な映像や演技になってしまうのかしら。この映画みたいに普通の表情で普通の現実感で描けないのかしら?って思う。 THE GIRL WITH THE DRAGON TATTOO(今のハリウッドではそんなことありえないけど、仮に)ハリウッドがいち早く原作に注目して映画化権をとっての本作だったら、オオッ!と思えた作品だったかも。 でもでも そんな評価を前提として…スウェーデン版の「ミレニアム/ドラゴン・タトゥの女」を観た後だと、比較するつもりはないけれど、フィンチャー監督の本作は、ちょっと違うなって思うところが多々ありで、私的にはちょっと違うよなって思う所を書き連ねてみたい。 スウェーデン版リスベットが強烈な印象でもって焼きついている私には、予告映像では美形過ぎるのでは?とこの作品の象徴的存在でもあるリスベットというキャラに、弱さを感じたルーニー・マーラ演じるリスベットだったけど、登場してしばらくは、これはこれでいいんじゃないって思わせてくれた。 けど、けど… ミカエルとリスベットとのセックスシーン。 ミカエルの上に乗っかったリスベットの背中が映し出されたけれど、肩だか脇だかの辺りにちょろっとドラゴンのタトゥ。 これには「へっ!?」と思ってしまった。 フィンチャー版が見せたいのは、結局は、ハリウッドお馴染みの観客サービスで、ダニエル・クレイグとルーニー・マーラのセックスシーン?って思いたくなる。 スウェーデン版が見せたかったのは、リスベットの背中一面に彫られたドラゴン・タトゥー。背中のドラゴンがうねりながら吠えているような……。 どれほどの思いをこめて、リスベットはこのタトゥを彫らせたんだろう。リスベットに対する興味が俄然沸いてきたシーンでもあった。 リスベットが味わった地獄が徐々に明らかになるにつれ、背中のドラゴン・タトゥーが一層痛々しく、彼女の孤独な闘いがドラゴン・タトゥを通して見るものにじんじん伝わってくる。 そのかわりといってはなんだけど、フィンチャー版の「移民の歌」で始まったオープニング映像だけは、強烈なインパクト!フィンチャー版ではこのセックスの後、ミカエルとリスベットの距離はぐんと近くなり、優秀で良き相棒となってリスベットはハリエット失踪の謎に迫っていく…。 ミカエルに対してリスベットかなり『女』入っている。 たしかにミカエルに対してリスベットの中で乙女の恋心が芽生えているのは確かなんだけど……「女」してるリスベットってちょっと違うんだなぁ。 リスベットって、ずっと対男に対しては「女」であることを拒んでいる。肌と肌を合わせる情愛も同性にだけは許している。 原作の原題は「Män som hatar kvinnor」女を憎む男と訳せるけれど、物語はハリエットの失踪も含め、男たちの欲望と暴力の対象として蹂躙され、そして惨殺された女たちを描いている。リスベットもまた男たち(権力)によって精神病院に隔離され社会から抹殺されようとした少女時代を送ってきた被害者。 誰からも命令されず、誰からの助けも受けず、誰からの優しさも受けず、それらを拒絶して生きていく決意があのドラゴン・タトゥ。 誰かと何かを共有したり、求め合ったり、分かち合ったり…そんな関係を拒絶して生きてきたのがリスベット。そう思う。 リスベットとミカエルの関係って… スウェーデン版では、この初めてのセックスシーンはリスベットのマスターべーション的なものとして描かれているように思う。 ミカエルに揺れ動く自分に戸惑い、ミカエルを求めた自分の衝動に驚き、事が終るとプイとその場を去ってしまうリスベット。翌朝、ミカエルの親近感のある挨拶にそっぽを向き、そんなリスベットに戸惑うミカエル。 ミカエルに惹かれながらも、ぎこちなくそっぽ向いている、リスベットのこんな行動や心理状態ってとってもよくわかる。 こんな風にミカエルもリスベットも、互いにちょっとぎこちなく始まり、そしてハリエットの残したメモの謎の一つ一つを二人して丁寧に解きほぐしていく中で、阿吽の呼吸のような親密さと信頼関係が生まれていく。それ以上の情愛を抱きながら、どっか互いに暗黙の了解みたいに、超えない線を引いているところもある。そんな微妙な関係がそこはかとなく感じさせるのがスウェーデン版。 フィンチャー版だとミカエルの娘が登場し、彼女がハリエットの残したメモのヒントを口にする設定もなんか蛇足っぽいし、そんなヒントでぴんときて、すぐさまミカエルの指示でリスベットが真相を探るためにバイクをぶっ飛ばしてあちらこちらというというのも、ちょっと違うよなぁって思う。 寸でのところでマルティン・バンゲルに殺されかけるミカエルを、リスベットが救い、逃亡したマルティンを追いかける際に、「殺してもいい?」ってリスベットが訊ね、ミカエルが息も絶え絶えながら肯くシーン。 これは違うやろう! リスベットは誰にも何も訊かない。自分の行動は自分で決める。 おまけに、目には目を、歯には歯をのリスベットならそれもありだけど、犯罪をペンでもって告発弾劾するジャーナリストであるミカエルが自分を殺そうとしたものであってもその殺人を承諾するなんて! これは違うやろうって言いたくなる。 ハリエット失踪事件が解決した後、ミカエルがミレニアムの編集長であり恋人であるエリカと仲良く連れ立って歩く姿を観て、一瞬ショックを受けた後に見せた自嘲的な表情に胸がキュンとなるのはノオミ・ラパス演じるリスベット・サランデル。 ミカエル役には、スウェーデン版のミカエル・ニクヴィストよりも雰囲気としてはいいんじゃないかしらって思ったダニエル・クレイグだったけど、フィンチャー版はどうも映像の端々に男と女が匂ってきて、ハリウッドという水に染まっていない朴訥なミカエル・ニクヴィストの方がいいなぁって思えてきた。 同じ原作の2つの作品を観たけれど、スウェーデン版のようなトキメキは本作では感じられなかったナァ。 ![]() 料理人が違えば素材の料理も味付けも盛り付けも違うもの。 どちらを支持するかはそれぞれの嗜好の問題だろうけれど、今の私が気になるのは、果たして原作者スティーグ・ラーソンは、ミカエルとリスベット、そして二人の関係をどんな風に設定して描いているんだろうということ。 原作を読んでみたくなった。 ドラゴン・タトゥの女は3部作だけど、ラーソンは5部作で構想を練っていて彼のPCには4部の途中まで残されていたとか。 さてさて、ハリウッド版ドラゴン・タトゥの女も3部作だとか。 ミカエルとリスベットの関係をどんな風に描いていくのかしら? なんか陳腐な設定になってしまいそうな気配もするけど……。 その第一作目「ドラゴン・タトゥーの女」は、見た目はとっても素敵だけど、あれこれ盛りすぎて急ぎ足過ぎてるみたいな印象。 余談だけど、クリストファー・プラマーの若い頃を、ジュリアン・サンズが演じていて、これはまた懐かしいお顔。 昨年は、どうも、いささか不感症傾向にあって、感動映画であればあるほど、作品と私との間にどうも波長のズレを感じる始末。この映画も予告編を観て素晴らしそうな映画だけど、、その素晴らしさを十分に享受できなさそうと思って、敢えて劇場鑑賞をスルーした作品。今回wowow放映で鑑賞。 美しい作品 観終わった後、作品に対する思いをあえて言葉にするならば…「美しい映画」 魂の救い、一人の人間の再生のドラマ…。崇高な…。あるいは、精神の高みへ…。そんな言葉を連ねて語られるだろうけれど、それらのどんな言葉よりも、ただ「美しい」という言葉そのものが、私にはもっともこの作品に近しいと思える。 舞台はフィンランドの片田舎。登場人物は、年老いた盲目の牧師ヤコブと、その牧師の元で働くことになった、、恩赦で12年ぶりに釈放された無期懲役囚だった一人の女性レイラ。そして脇役が一人。歌うように「ヤコブ~、郵便だよ~」とヤコブに信者からの手紙を届けに来る郵便配人。 75分という短さのなかで、人間の魂、神への信仰が凝縮して描かれている。、作品のこの寡黙さ、いささかの気負いも感じさせず、それでいて観るものの視線をひきつけ、観終わった後には優しさと癒されるような安らぎを覚える。 真の信仰とはこんなような感覚なんだろう。 そんなことも頭に浮かぶ。 ![]() 週末ともなると、遠足の前の夜みたいにワクワクしながらベッドに潜り込んでいたのが、劇場に足を運ぶたびに、悪くは無くって、良いんだけれど…どうも観終わった後の充足感の膨らみが今ひとつが続くと、アドレナリンも淀んでしまって、ハッピーモードも冬眠状態。で大好きなオゾン監督のマジックも効き目無しで、ドヌーブのジャージ姿やリッキーの無邪気なポスターを素通りし、WOWOW放映で、どんなもんだかと気乗りしないままで見始めたのが本作2つ。「しあわせの雨傘」なんて、短編王と異名をとった初期の頃の彼の作品のテイスト(さらりさらりと撒き散らされた毒気)を感じさせてくれて、見ていて嬉しくなる。 原題「POTICHE」は「飾り壷」の意味。 ドヌーブ演じるブルジョワ主婦している母親を称して、キャリアウーマンを目指す娘が「ママみたいに飾り壷になりたくないの」というセリフ。「飾り壷」とバカにしていたママが、いとも軽やかにして、誰よりも過激でタフだった。近頃では女優というより女実業家然としたドヌーブだけど、やっぱり役者ネェ。こんなに、にこやかでおっとりした奥様然とした役を軽々とこなしている。ドヌーブに赤いジャージでのランニング姿させられるのもオゾンなればこそでしょうね。 ![]() それにしても、観るたびにますますでっかくなってるジェラール・ドパルデュー。本作の彼のでかさは「地獄の黙示録」のマーロン・ブランド以上のやばさ。フランス映画界にはドヌーヴの存在感に太刀打ちできる相手役は他にいないのかしら?(フランス男性って総じて小柄だけどねぇ)。 クラブで並んでダンスを躍る二人を見ていると、トリュフォー監督の「終電車」の時からずいぶんと歳月が経ったもんだわぁって感慨が沸いてくる。 本作は、「雨傘」をモチーフにするところなんかもそうだけど、オゾンのドヌーブに対するリスペクトであり、彼女の出演した作品に対するオマージュでもあるんでしょうね。 しあわせの雨傘 「リッキー」は、「まぼろし」「ぼくを葬る」の三部作の完結編ともいえる作品で、オゾンは前々から次回は子供が主人公って語っていて、どんな作品だろうって思っていたけど、羽が生えたベビーとは。 愛する者の喪失感を描いた「まぼろし」、そして癌を宣告された青年が、自分の人生の一つ一つに愛情をもって訣別していく足跡を描いたともいえる「ぼくを葬る」を振り返ると、生きることに精一杯で愛を失くしていたカティが最後に「愛しているわ」って言って娘のリザと恋人のパコと抱き合うラストシーンは、なんて静かな愛と幸福なんでしょう。3作が静かなトーンで繋がっている。 岸辺でリッキーを見つけ、話しかけるシーンでのカティ役のアレクサンドラ・ラミーの表情が素晴らしい。 愛を見失った一人の女性に、リッキーは愛を運んできた天使? カティの中で何かが変わっていく様相がオゾン流のさらりさで、でも、とっても丁寧に描かれている。 リッキーとの愛しさと切なさの再会シーンにも、家族の絆に愛を見出す優しさのラストシーンにもオゾンならではって嬉しくなる。 「愛してるわ」そんな言葉が素直に口にできる人が、家族がいることが幸せ。 幸せを押しつけず、幸せを枠で囲まず、でも幸せそのものを描いた「リッキー」。 Ricky リッキー < 前のページ次のページ >
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