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ヴェルナー・ヘルツォークの撮った「ノスフェラトゥ」で白塗りメイクの怪演と、しかし生きつづける宿命のドラキュラの孤独を体現したクラウス・キンスキー。ヘルツォークとキンスキーという宿命とも修羅場ともいえる二人。こんな作品をみていたら、ヘルツォークが語るクラウス・キンスキーというこのドキュメンタリーは外せない。MEIN LIEBSTER FEIND - KLAUS KINSKI 1999年/ドイツ・イギリス/95分 監督: ヴェルナー・ヘルツォーク ヘルツォークの出世作とも言える「アギーレ/神の怒り」ではキンスキーは狂信的な英雄像を体現。ここからキンスキーとヘルツォークの憎悪と愛情表裏一体の関係の中で、二人は「ヴォイツェック」、 「ノスフェラトゥ」、 「フィツカラルド」 、「コブラ・ヴェルデ」(1987)といった問題作でもあり傑作でもある作品をつくり上げていった。 しかしその撮影現場では常にスタッフ、監督はじめ撮影地での現地住民たちとも衝突。数多くの争いの火種を生み、一筋縄ではいかない性格俳優、怪優としてつとに有名なクラウス・キンスキー<Klaus Kinski> 本名:Nikolaus Karl Günther Nakszyński 1926年10月18日~1991年11月23日。享年65歳
……………………………………………ちょっとだけ寄り道…………… 「彼を殺したいと思った。本気で彼の家を襲撃する計画をたてていた。」ヘルツォークはそう語る一方で「今も、彼を抱きしめたいと思う時がある。」と語る。 共犯関係でもあったとヘルツォークは二人の関係を評している。 キンスキーは狂気が必要だと知っていた。彼はヒステリックに叫び罵り、自らを狂気へと追いこみ、その狂気をヘルツォークは映像にとりこんでいった。あえて彼を挑発し怒らせるように仕向けていった時もあるとも語っている。修羅場の中でキンスキーという野獣を抑え込み、映像の枠にしかるべき狂気と、しかるべきエネルギーを収めていった。 キンスキーもまた知っていたのだろう。自分の狂気に対峙できうる監督は、そしてその狂気を映像世界に引きずり込める監督はヘルツォークだけだということを。 「フィッツカラルド」は、当初フィッツカラルド役にジェイソン・ロバーツ、その助手にミック・ジャガーで撮影が始められていたが、ロバーツが病気で撮影続行の許可が下りなかったため、キンスキーが交代することになった。 ロバーツとミックで撮影したシーンも作中で紹介されていた。そして同じシーンをキンスキーで。ロバーツとミックの映像は夢の実現に歓喜する二人。キンスキーの映像は歓喜を越えてその極限ともいえる夢と理想に憑かれた男の狂気にまで至っている。そして本当の贅沢とはこのことかとラストシーンに余韻が続く。 ヘルツォークの耽美的ななかにもギラギラするような濃密な緊張が充満するあの映像は、キンスキーとのこの撮影現場での修羅場から生み出されたものなのだと、ここまでいきついてこその映像なんだと痛感。 13歳で両親たちと暮らした下宿屋で、キンスキーも住んでいたという偶然。そこでの彼の狂気じみた、あるいは神経症的な言動、10時間もぶっ通しで詩を朗読するという演技に対する彼の狂気にも似た執念の数々を目の当たりに見、15歳で「戦場の叫び」で中尉を演じていたキンスキーの一瞬の演技が記憶に焼きつき、そして28歳で監督と役者として宿命的ともいえる出会い。そして二人の対立、葛藤から生み出された数々の傑作。 キンスキーの奇行の数々、自己偏愛ぶり、撮影中での暴力沙汰、横暴ぶりを語り、しかし、「フィッツカラルド」で撮影断念というギリギリの状態で、なおも敢行しようとするヘルツォークに、「君が行くなら僕も行く、君が溺れるなら僕も溺れる。」とキンスキーがいい、「アギーレ/神の怒り」で撮影放棄しようとするキンスキーに「君を撃ち殺して、最後の1発で僕は僕を撃つ。」とヘルツォークがいうほど二人における引寄せるも反撥しあうも強烈な磁力を語り、しかし、その一方で決定的に二人を分かつ溝を語っている。 そして、映画の中で彼はエネルギーの全てを使い果たしたのだろうと、「コブラ・ヴェルデ」のラストシーンのキンスキーの姿と重ね合わせる。 そして本作のラストでは、キンスキーから離れない蝶々と、蝶々と戯れる彼の無邪気な笑顔をずっと撮り続けている。 本作は、ヴェルナー・ヘルツォークの、殺したいと思うほど彼を憎み、抱きしめたいと思うほど彼を愛し、映画にかける狂気ともいえる愛にかけては誰よりも互いに通じ合っていたクラウス・キンスキーという役者に対する、これ以上ないほどの熱烈なるラブレターであり、これ以上ないほどのオマージュであり、キンスキーという最愛の敵を喪ったヘルツォークの愛惜がひしひしと伝わってくる。凄まじくも切ない作品だ。
by mchouette
| 2009-07-16 00:00
| ■映画
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