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アメリカ・アカデミー受賞式が終り、今はカンヌ映画祭。 EXILS 2004年/フランス/103分/R-15 監督・製作・脚本: トニー・ガトリフ パリの高層アパートの窓から外を眺め、飲みかけのコップを落とすザノ。 コップがゆっくりと落下し、飲み物がコップから弾け飛ぶ。 「アルジェリアに行こう。」 唐突にそう言うザノに、ナイマはけたたましく笑い飛ばす。「アルジェリアに行って何をするの?」 そこから二人のアルジェリアへの旅が始まる。 荷物と少しのお金とウォークマンと……フランス・スペイン国境を越えてラ・マンチャ地方を横切って遠くアルジェリアめざして歩いていく。 アルジェリアへ、アルジェリアへ、 ただひたすらアルジェリアへと向う彼等の旅は、唐突に始まり、アルジェリアの音楽は聞くけれどアラビア語も知らず、行き当りばったりのようにも見え、都会という檻から放たれ、生れ故郷の野生をめざす野生動物の子供みたいな無邪気さをみせ、野放図、無防備とも映る。 雨に濡れて携帯電話は壊れ、ブーツを盗まれ靴を買うため有り金はたき、そうして彼らはヨーロッパの物質文明という社会の恩恵と枠から外れていく。 川で水浴びし、町の公設水道で頭を洗い、ナイマが行きずりに浮気をし、喧嘩をし、日雇い仕事にありついたリンゴ園でセックスをし、トラックの荷台にもぐりこんで乗船した船はモロッコ行きだったり、アラブ人たちと出会い、何も持たない彼らの生活に触れ……そんな彼らを多種多様な民族音楽が前へ前へと彼らを押していくように力強く響き渡る。 本作の原題「EXILS」は英語表記は「exile」 「国外追放」「流浪」あるいは「追放された人」「(国外を)流浪する人」を意味する。俗っぽく言えば「はぐれ者」ともいえるだろう。前作「ガッジョ・ディーロ<gadjo dilo>」もまたロマ語で「よそ者」を意味する。 ナイマはフランス国籍のアルジェリア人。 ザノの祖父母も父母もアルジェリアで生まれ育ち、祖父は反植民地主義者で1959年に拷問を受け処刑され、ザノの両親は1962年にフランスに強制送還された。 ともにアルジェリアにルーツをもつ移民の二人。 トニー・ガトリフもまた13歳のときに祖国アルジェリアからフランスに渡り、どこにいても異国人のような感覚を持ち続けたという。 ロマ人を母に、フランス人を父にもち、自らのルーツでもある「流浪の民=ロマ民族」をテーマに作品を作りつづるトニー・ガトリフにとって「gadjo dilo」そして「EXILS」という意識もまた追い続けるテーマなんだろう。 ガトリフの自伝的要素の強い「ガッジョ・ディーロ」のステファン、そして本作のザノとしてガトリフの分身ともいうべき役を演じるロマン・デュリスという役者。ザノとナイマの中にあるそれぞれのアルジェリア。 それは彼らの身体に残る傷として刻み込まれている。 ザノの足の火傷は、本国フランスに強制送還された両親とザノが車で故郷アルジェリアに車で旅行する途中、交通事故で両親は死亡し、炎上する車から救出されたザノの足には火傷が残った。ザノにとってアルジェリアへの旅は果たせなかった旅の再開であり、祖父、父そして自分へとつながるルーツを確認し、見失ってしまった誇りを取り戻す旅でもあっただろう。 そしてナイマ。刹那的な快楽に生きている風にしか見えないナイマの背中にある傷を、「言いたくない」と彼女は堅く口を閉ざす。父はナイマに祖国のアラビア語を教えようとせず、アルジェリアについても話したがらなかった。浮気したナイマに怒るザノに向かって「温室育ち」と詰り、「私は14歳から放浪して生きてきたのよ!」とぶつける。 ザノにとってはアルジェリアは誇りに思うルーツであるのに対し、ナイマにとっては忌まわしい過去と結びつくもの。相対するこの二つは、アルジェリアにおけるフランス人とアルジェリア人の違いを物語っているようにも思う。そして、フランス人を父に、ロマ人を母に、二つの異なる文化の血をもつガトリフの葛藤そのものともいえるだろう。 生まれ育った家で、祖父母、父や母の写真を見、ヴァイオリンを弾く父の写真をみたとき、ザノは子供のように泣きじゃくった。 アルジェリアに旅立つとき、彼はヴァイオリン壁の中に封じ込めた。彼はパリにいて、未来にもいけず過去にも戻れずに出口が見つからなかったのだろう。一方でアルジェを思い、一方で否定し続けていたのだろう。両親が亡くなった今、彼とアルジェリアを結ぶ絆は断ち切られていたといっていいだろう。彼はアルジェリアという過去と訣別するために、アルジェにいくことを決意したのかもしれない。 ナイマの方はアルジェリアに近づくに従い微妙に変化していく。 旅の途中で出あったアルジェリア人の兄妹から、名前がアルジェリア人みたいといわれたとき、フランス人でもなくアルジェリア人でもない。そんな曖昧さがナイマに見え隠れする。しかし妹の方と二人きりになった時、出自を語り、彼女からアラビア語を教えてもらう。 そしてモロッコの酒場で、一人のアラブ系男性から「ジプシーか?」と訊ねられたとき、彼女ははっきりと「アルジェリア人よ。」と言い切る。しかし列車のなかでアルジェリア人たちに混じったナイマは、落ち着きなく爪を噛み続け、激しい疎外感に陥る。 そんなナイマをアルジェリア人たちは呪術師のもとに導く。 「霊魂は別のところにある、早く自分を取り戻せ、家族を見出せ、早く、早く」呪術師の言葉にうろたえ、その場から飛び出すナイマ。 そして、個我からの滅却・解放、<神>もしくは<全体>との合一をめざし、音楽に併せてくるくるくるくると回り続けることで神に近づくという伝統的なスーフィー音楽に身を委ね、ナイマは憑かれたように回り続け、身体を引きつらせ、先導者の胸にすがって泣きじゃくる。 ザノもナイマも、身体に刻まれた傷の痛さや辛さ、哀しさとともに自分自身をも封じ込めてきたのだろう。 封印していた涙を流すことで、囚われていたアルジェリアという出自、囚われていた自分自身からも解放されたのだろう。 明るい陽光の下、ザノは祖父の墓の十字架にヘッドホンをアルジェリアの音楽が流れるウォークマンを置く。 その傍らでナイマはオレンジの皮をゆっくりとむき、二つに割ってザノと分け合う。 そして解き放たれ晴々とした顔で、彼らはそこを、アルジェリアの地を立ち去っていく。 唐突とも思えたザノとナイマのアルジェリアに向う旅は、二人の身体に刻まれた傷跡と向き合う旅だったといえるだろう。 ザノはヴァイオリンを弾かないことで傷跡から目を逸らし、ひたすらまだ見ぬアルジェリアの音楽を聴き続け、ナイマは傷跡に繋がる過去を追い払うように常にハイテンションではしゃぎ回り、どこかでアルジェリアを引きずりながら、パリでも異邦人としての感覚を拭えずに彷徨っていたのだろう。 本作はザノとナイマの傷跡だけでなく、2003年に起きたアルジェリア地震によって街のあちこちが崩壊したアルジェリアの傷跡も生々しく捉えている。 今は別の人が住んでいる生家を訊ねたザノが、この家を懐かしく思い出すシーンがある。計算したら年齢があわないのだけれど、13才でアルジェリアを離れたガトリフと重なるもので、年代のズレは関係ないだろう。 悲劇的な要素がまとわりつく彼らの旅だけれど、映像に漲る力強さ、悲劇を跳ね返すような前に向う逞しさ、そして爽やかな生命力……これがトニー・ガトリフ作品の魅力でもあるのだけれど、悲劇をも巻き込んで進んでいく、映像にみなぎるこの生命力はどこから生まれてくるんだろう。 「ロマの文化は、そのまま自分が存在することの証となるもので、簡単に喋るわけにはいかない。ロマは今この時がすべてで、過去とか未来という概念を持ちません。過去、現在、未来をすべてひっくるめて、"テハラ"というひとつの言葉で表現してしまいます。」 心の痛みや辛さ、怖れを音楽に込め、それを魂のありかとして「今」という時間を生きるロマの文化。 本作の映像そのものがロマの魂に溢れた映画ともいえるだろう。 ザノの祖父のお墓でナイマがオレンジの皮をむくシーンは象徴的だ。 『モンド』でもオレンジが地中海に面するニースに流れつく。 地中海は沿岸の文化が交流する場で、出会いの象徴でもあるとガトリフ監督は捉える。 シチリアに家族に死者が出るとその死者のためにオレンジを海に流すという伝統があり、それにヒントを得て、アルジェリアには女性に殉教を強いるイスラムの宗派があり、ニースに流れ着いたオレンジはアルジェリアから流れついたもので、そこには殉教した女性たちの名前が書かれていて、彼女達を悼む意味を込めたのだそうだ。(「キネマ旬報」より) 虐げられた女たちの嘆きが込められたオレンジの皮を剥き、その果肉をザノと分け合うというナイマの行為に、嘆きで封じ込めてしまった殻を破って、ありのままの自分という果肉をザノと分かち合うという、ナイマのザノへの愛の証としてのメッセージとして受け止めた。 傷跡と向き合い、囚われていた過去と向き合い、そして自分自身を見出していった旅。 言葉にしていくとザノとナイマの無謀とも思えたこの旅が、いろんな色を帯びて見えてくる。そして、最後は未来に向う希望の光の中の二人に爽やかな青春ロードムービーとして感動してしまう。 また「ガッジョ・ディーロ」も観たくなり、オレンジのでてくる「モンド」も、そして「ペンゴ」もと、ロマの音楽に惹かれてトニー・ガトリフ作品を観たくなって言葉にしたくなってきた。 本作は57回カンヌ映画祭で監督賞を受賞している。、クエンティン・タランティーノが審査委員長で、パルムドールにもノミネートされたが、受賞作品はマイケル・ムーアの「華氏911」。そして「誰も知らない」で柳楽優弥が男優賞を受賞している。 そして本作で圧倒的な存在感で演じたナイマ役のルブナ・アザバル。「パラダイス・ナウ」では殉教者を父にもち、ヨーロッパで教育をうけ、テロを否定する知的な女性サハを演じており、本作とは180度違う役。彼女自身が存在感をもっている。 「トランシルヴァニア」でも「ガッジョ・ディーロ」でもそうだけど、トニー・ガトリフ作品って女性が凄い存在感と光を放っているように思う。ガトリフ監督の母親像と繋がるのだろうか。
by mchouette
| 2009-05-22 00:00
| ■映画
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