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JUDGMENT AT NUREMBERG
1961年/アメリカ/194分 監督: スタンリー・クレイマー 「それほどに人間は<英雄>を望んでいる。<黄衣の王>の邪を知りつつも、待望してやまない。それもまた人間の業、性なのだ」今日、読み終えた宮部みゆきさんの冒険ファンタジーともいえる小説「英雄の書」(上・下巻/毎日新聞社)の最終近くで、語られていた言葉。 この映画の感想を書いている最中に、この映画のテーマにも通じる言葉に出会ったことに、なんだか見えない糸のように感じここに記します。どんな物語かは書店で。 そして本作「ニュールンベルグ裁判」は「人として」ということの意味を問われ、観る度に身が引き締まる思いがする。 194分という長さを感じさせない。 数年に一度は観るべき作品。 そう思う。 ニュルンベルグ裁判とは、第二次世界大戦においてドイツによって行われた戦争犯罪を裁く国際軍事裁判のことだが、本作は実際の裁判記録に基づいたものではなく、アビー・ルイ原作の映画化であるということ。実際の裁判は「ニュルンベルグ裁判」。そして映画は「ニュールンベルグ裁判」と違う表記がされている。第二次大戦の戦後処理としてドイツ南部の都市ニュルンベルクで行われた裁判を描いている。 被告席に座るのは4人の判事たちであった。 判事が判事を裁くという裁判。 法に背いた行為は罪に問われ、人道に背いた行為もまた罪に問われるべきか? 否か? 国家の意思と、個人の良心、そして尊厳とは? 果たして人が人を裁くことが出来るのか? 人間を真に裁くべきは、法によってか、あるいは人道によってか? そんな重い命題をテーマに据え、法の名の下に、ホロコーストに繋がる「断種法」、そして「ドイツ人の血と尊厳の保護のための法律」として制定された「ニュルンベルグ法」によって数百万人ものユダヤ人の生命を奪う判決を下した、彼ら被告人たち。 悪法もまた法なり。 国家が戦争という国家存亡の危機的状況に陥ったとき、「殺人」という行為もまた「国家のため」「国家を守る」という大義の下で合法化されることは歴史が如実に示している。 そのときに問われるべきものは何か? 真っ向から向きあった作品だろう。 経済が逼迫し、ドイツ人はドイツ国民としての誇りを失いかけていた時にヒトラーが台頭した。時代がヒトラーを必要とした。 祖国ドイツを守るためならば「小異を捨てて大同に就く」 被告人の一人であるエルンスト・ヤニング(バート・ランカスター)は意見陳述で、ヒトラー政権下における自分を振り返る。 エルンスト・ヤニングは法学博士として卓越し、その著書は世界中の大学で教科書として使われているほどの世界的に著名な学者であり、ナチス・ドイツの法律を起草し、ヒトラー政権下で法務大臣を務めた人物であった。そして、この裁判の争点ともなるべき裁判において、非アーリア人がアーリア人と性的関わりを持つと死刑に処すという法律に基づき、ヤニングは一人のユダヤ人男性に対し死刑の判決を下した。そして無実だと主張するドイツ人の女性ホフマン(ジュディ・ガーランド)を偽証罪で2年の禁固刑に処した。 祖国ドイツのためと、声を張り上げて力説していたヤニングだったが、愕然とした声でそう語る。 「知った上で彼らに同調した私が最も罪深い。私は自分の人生を汚れたものにしてしまった。」自らの罪を認める。 過去に犯した罪は、痛みと苦痛をもって乗越えなければならないと、 ヤニングを尊敬し、彼の尊厳を守るため被告の弁護を引き受けたロルフ(マクシミリアン・シェル)は、検察側の主張に激しく反論する。
裁判が審理されている間にも戦後の世界情勢は、自由主義圏と共産主義圏に分かれ揺れ動いていた。 そしてソ連がチェコに侵攻、さらにはベルリンにも侵攻し鉄道は封鎖されてしまった。 ベルリンが落ちれば、ヨーロッパ全土は共産主義圏となるのは目に見えている。 ソ連の侵攻を食い止めるためにもドイツは重要な拠点となる。ドイツ国民の支持が必要だ。 彼らを有罪にすればドイツ国民は許さないだろう。 軍部は、検察側であるローソン大佐(リチャード・ウィドマーク)に、裁判に圧力をかけて被告たちを無罪にもっていくよう示唆する。 収容所解放に立ち会ったローソン大佐は、彼が目撃した収容所での非人道的な、地獄絵ともいえる数々の光景に、自ら手を下さずとも、ユダヤ人を収容所に送り込む書類に署名した被告人たちをなんとしても有罪にしたい義憤にかられていた。 「どんな手段を使っても生き延びるためだ。」という軍の意向 「この戦争はなんだったんだ?」そういい捨てて部屋をでるローソン大佐。 国益か、 人道か ローソン大佐も、ヤニングと同じ選択に迫られる状況におかれたといえるだろう。 戦争終結から3年たった今、中東で新たな戦争が起きている。ローソン大佐は国益と個人の正義の狭間で、苦渋の表情で裁判長であるヘイウッド(スペンサー・トレイシー)に最終弁論で「真理を貫いて欲しい」と主張する。 今まで黙して語らなかったヘイウッドは、判決にあたってこの法廷で問われるべきものは何かを静かに、熱く語る。 自らの意思で残虐で不正に満ちた体制に自ら関与したことは、文明国ならば道徳と法に違背する行為です。 そしてヘイウッドは4人の被告人に終身刑の判決を下した。 帰国前にヘイウッドに会いたいというヤニングからの申し出があった。 信頼できる人物にと、ヤニングは自らが関与した裁判記録をヘイウッドに託す。 そしてヤニングはヘイウッドに「数百万人の虐殺の事実は知らなかった。これだけは信じて欲しい」と訴えた。しかしヘイウッドはきっぱりと言い切る。「無実と知りつつ死刑を宣告したのが始まりなのです。」 この言葉がヤニングにとっては決定的な審判となったことだろう。 「信じて欲しい」そう訴えるヤニング。 これも人間の本音であり、誰しもがもっている弱さでもあるだろう。 小異を抱きながらも、正義を貫く厳しさより、この弱さに屈してしまうのもまた人間だろう。 そして、ヤニングに言い切ったヘイウッドの強さは、戦勝国の強さでもあるだろう。 本作でローソン大佐が収容所解放の日に撮影したという設定で、ユダヤ人収容所の実態が法廷内で上映される。これほどの素晴らしい作品をつくったアメリカが、ベトナムでまた生き地獄を世界中に見せることになる。 スペンサー・トレイシー演じるヘイウッド裁判長が「どの国も決断を迫れる」という言葉は、世界で出口なき戦争がおきている現在にあって今更ながらその重さをさらにましている。 「ディア・ハンター」では戦意満々で戦地に赴いた若者が、その精神を破綻させていき、 「プラトーン」では、戦争の狂気が人を殺人にかりたてていき、 「ジャーヘッド」ではライフルを発射させ、赤い飛沫をみたい欲望にとりつかれ、 戦争という非合法の下で、良心が汚され、崩壊していく。 だからこそだろう。 「ニュールンベルグ裁判」で問われ続けた「何によって人は裁かれるのか」というテーマは、観る度に「人として」という言葉をしっかと刻み込んでくれる作品だ。 ………………… 検察側のアメリカ軍ローソン大佐を演じたリチャード・ウィドマーク。 実際のニュルンベルグ裁判については「復讐裁判」的な色彩と指摘されている。ニュルンベルク裁判の判事を勤めたが、裁判の手続きを批判して辞任したアメリカ高裁のウェナストラム判事 (Charles F. Wennerstrum)は、「今日知っているようなことを数ヶ月前に知っていたとすれば、ここ(ニュルンベルク)にやってきたりはしなかったであろう。明らかに、戦争の勝者は、戦争犯罪の最良の判事ではなかった。法廷は、そのメンバーを任命した国よりもあらゆる種類の人類を代表するように努めるべきであった。ここでは、戦争犯罪はアメリカ人、ロシア人、イギリス人、フランス人によって起訴され、裁かれた。彼らは、多くの時間と努力、誇張した表現を使って、連合国を免責し、第二次大戦の唯一の責任をドイツに負わせようとした。裁判の民族的な偏りについて私が述べたことは、検事側にも当てはまる。これらの裁判を設立する動機として宣言された高い理想は、実現されなかった。検事側は、復讐心、有罪判決を求める個人的な野心に影響されて、客観性を維持することを怠った。将来の戦争に歯止めをかけるためになるような先例を作り出す努力も怠った。」とその裁判について述べている。ギャング映画での非情な殺し屋、戦争映画での冷徹で人望のない指揮官役などで持ち味を発揮するリチャード・ウィドマークだが、前半まではローソン大佐はそうした一方的にドイツを断罪するキャラクターとして設定された人物かと思われたが、収容所の地獄を目撃し、義憤と正義に急進すぎたのだろう。ヤニングの苦悩に満ちた陳述に触れ、彼自身も重い命題を背負わされ、苦悩する一人だった。軍部から国益のため無罪判決を示唆する言葉に「この戦争はなんだったんだ?」と自問する。 ヤニングの弁護人ロルフを雄弁に演じたオーストリアのウィーン出身のマクシミリアン・シェルは、本作でゴールデン・グローブ賞と米・アカデミー賞で主演男優賞を獲得している。 拭い去れない自分の罪に苦悩するヤニング博士を演じたバート・ランカスター。 過去の亡霊を呼び戻すかのように、ホフマンを偽証に問おうと糾弾するロルフ弁護人に対し 被告人席から立ち上がり「ロルフ!」と一喝する姿は、やはり存在感の大きさがある。 この作品のあと、彼はルキノ・ヴィスコンティの『山猫』(1963)「家族の肖像」(1975)、ルイ・マルの『アトランティック・シティ』(1980)、ベルナルド・ベルトルッチの『1900年』(1976)といったヨーロッパの芸術作品ともいえる名作に出演し、重厚な演技をみせている。 裁判の審議中は、黙して語らず、「人としての正義」を熱く語った良心の人ヘイウッド裁判長を演じたスペンサー・トレイシー。 朴訥な地方判事という雰囲気で登場し、良心の人という優しさと温厚さを漂わせ、しかし、真理を貫き通す毅然さをも感じさせる、まさに本作のテーマを体現させた人物を見事にえんじていたといっても過言ではないだろう。 これはスペンサー・トレイシーその人の人柄から滲み出る味なのだろうか。 スペンサーと長年にわたり交友のあったキャサリン・ヘプバーンは、彼の死後、彼について語っている「スペンサーはいつでも、男が生活費を稼ぐための仕事としては俳優というのはちょっと馬鹿げた仕事だって考えてたと思うわ。彼は古い樫の木のような人、あるいは夏の風のような人。いずれにしろ男が男だった時代の人だった」と。 そして裁判長であるヘイウッドが裁判中に寄宿する邸宅の持ち主だったドイツ貴族のベルトホルト未亡人にマレーネ・デートリッヒ。 夫人とヘイウッドが夜の街を歩いていると、酒場から「リリー・マルレーン」が聞こえてくる。「ドイツ語はとても美しい。ドイツ語の歌詞はもっと悲しい歌なのよ」そういって歌詞の一部を語るように歌うデートリッヒのシーンがとても印象的だった。 裁判が終り、ヘイウッドからの電話のベルを聞きながら、何かをじっとみつめるような彼女の表情は、人が人を裁くことの難しさを物語っているだろう。
by mchouette
| 2009-02-26 00:00
| ■映画
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