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ちょっと、記事の更新が滞るかも……
ジャン・リュック・ゴダール 大学に入って間もない頃。ランボーの詩を使った映画があるよ、と先輩から教えられて観たのが「気狂いピエロ」 それが私とゴダール作品との出会いだった。 思わず胸の中で叫んだ。 今まで観てきたどの映画とも違う。 小難しい言葉をいきがって使っているフェルディナンって奴は、キャンパスを歩いている私であり、彼らであり、そしてお馬鹿としかいいようのない彼の最期は、まさしくあの頃の私たちの自画像に思えた。 ゴダール作品は学生街では監督特集などでよく上映されていたし、学生会館でも何かあればゴダールだった。 「ゴダール」は「ゴダール」としてカッコつきの別格だった。 いつごろから離れてしまったのだろう。 彼の作品が政治の舞台で映画を作り出し、政治の場でアジビラ的に上映されたあたり、作品が良いか悪いかよりも、そういう形で映画が使われること、ゴダールもそれを知って映画を作っていること、当時の私はそのことに対して拒絶反応があった。 ドキュメンタリー映画でもって政治的発言をする映画なども観ていたのだけれど、なぜか、ゴダールに関しては抵抗を感じた。 アンナ・カリーナがゴダールの元を去ったのと重なるように、私も「ゴダールなんて知らないよ」と、アンナ・カリーナがミューズだった以降の彼の作品は一切観なくなって久しい。 数年前に公開された「アワー・ミュージック」もまだまだ彼を斜交いにシニカルな視線でみていて、おかげで彼を捉えきれずに、途中で居眠りなどをしてしまった。 そんな私が、アラン・ドロンの熱烈なるファンである「時代の情景」のトムさんからの刺激も働いてか、ゴダール「ヌーヴェルヴァーグ」(1990)を久々に見る機会があり……「ゴダールなんか知らないよ」といいつつ、気になる存在でもある彼の作品のいくつかは横目ながら観ていたところはあるのですが、色眼鏡で観ていたので「またまた小難しい言葉をあちこちから泥棒してきて…」などと、だからゴダールはダメなんだ、だから観ないんだ、といった理由探しに観ていたようなところがあった。何をムキになっていたのだろうと思う……。 ブログを始めて、雑然とみていた映画を言葉にしていく中で、私の映画を観る感覚も養われていったのでしょうか。 そして惹かれていったのは、というか立ち戻るのがフランス・ヌーヴェルヴァーグ作品であり、その彼等が熱狂した作品だった。 ゴダール「ヌーヴェルヴァーグ」(1990) 以前の私はなんと皮肉っぽく、拒絶反応をもって観ていたのだろうと思う。 真っ白にして観てみると、初めて出会った頃のゴダールに感じたあの感覚が、彼の作品にはまだ生き生きと息づいている。 やっぱりゴダールの映像はゴダール的だし、言語泥棒、音響泥棒、映像泥棒もますます極みをみせつけ、ゴダール的言葉、音楽、映像として、さらなる高みへと昇華されている。そして彼の悪ふざけもますます巧妙になり、彼が映像に潜ませたギャグに出会うと共犯者のような気分で思わずニヤリと目配せしたくなる。 やっぱりゴダールの映像はカッコいいわと、私の空白部分だった80年代の作品を目下観賞中です。 彼の、どこまでが真面目でどこからが悪ふざけのギャグなのか、真面目な顔してとっても馬鹿な台詞に思わずニヤリとしてしまうも、その裏の掛詞に思わず、その言葉の重さにドキリとさせられたり、ここぞという時にありえないドジをしてしまうとか、そのドジが次の展開で大きな意味につながるとか…… サラリと描いた場面に二重、三重の意味、テーマを掛け合わせてるのはいつものこと。 台詞とナレーションが同時に縦と横に表示され、その言葉も読みきれないままで次の画面にいってしまうから、一時停止して言葉を読んで、その読んだ言葉もいったん頭の中で反芻してその言葉の意味がキャッチできるという、見るものにとてもアナログ的な行為を要求するのがゴダール作品だろう。 流れとしてのストーリーはあるのだけれど、一度観ただけで何を物語った作品なのかと捉えようとしても掴まえ切れずにはみ出している部分が大きすぎるので、もう一度みて、あぁ、そうかと思い、幾重にも掛け合わされた物語やテーマがまた新しく見えてきて、そうすると言葉がまた違う意味を帯びてくる。 そうしているうちに映像と言葉が、観る者の内で次第に熱を帯びて結びついていく。 これがゴダールの「映画」だろう。 人々は物語を生きている。ゴダールにとって映画は、人が生きている「今」を語るものなのだろう。 そこには空があり、木々があり、海があり、陽光があり、動物がいて、労働があり、愛があり、暴力があり、戦争があり…… ゴダールの作品には常に二つのものの間で揺れ動き、鬩ぎあっている人間を描いている。 白と黒、闇と光、生と死、国家と国家…… これが如実に描かれているのが、「情熱=受難」という二重の意味をタイトルにもたされた映画「パッション」だろう。 ゴダールの作品を観ていると、彼はその作品の中で、彼自身を素直にさらけ出している。さらけ出し過ぎて、その映画で彼が語ろうとする事や、関心や、考えが連鎖反応か化学反応を起こしたかのように映像が突然ジャンプして、違う映像が突然差し挟まれたり、映された手が次の映像の手だったり…… それでも、なぜ彼の作り出す映像はこれほど魅力的でカッコいいんだろうと思う。 登場する役者達が黙って座っているその絵が、どうしてこんなにサマになってるんだろう。 ゴダールが映し出す自然は、例えば、都会のビルの間に、空を蒼ませ茜色を滲ませて沈む夕陽を見た時のあの感動にも似たしっとりとした、それでいて妙に胸をざわめかせるものがある。 映画監督の黒沢清が、ゴダールの撮る空を撮りたいと思うけれど、いまだに撮れないと 、これはゴダールだけが許されるものだと思ってしまうと、そのようなことを何かで彼が語っていたのを頭に残っている。 映像をみていて思う。これはゴダールだと。まさにゴダール的だと。ゴダールだけにしか撮れないショットだと。 とりわけ彼の作品に出てくる女優は、黙ってそこに在るだけなのに、それをクローズアップで撮っているだけなのに、どうしてこうも魅力的なのだろうと思う。 ゴダール作品では、女優たちはこともなげに裸になり、被写体としてすくっとそこに立つ。 虚飾の全てを剥ぎ取った潔ささえ感じる。 長々と書いてしまったけれど、早い話が目下ゴダールに夢中になりつつあり、ゴダール作品は一度では私の頭には入りきらず何度も繰り返し見てしまう作品なので、みたらその映像と言葉と音楽が作り出す世界にますます嵌ってしまうという状況になり、それでブログを更新するところまでいかないいうだけの話。 そんな状態で、さらに平行して、ゴダールが1988年から10年以上の歳月を費やして完成させた、100年あまりの映画の歴史のゴダール的総括ともいえる「ゴダールの映画史」も観ていこうとしているから、ますますもって更新していく時間などあるわけもなく、 それに、ゴダール作品を観ていると、その作品について語るには、彼の作品にはいくつもの物語が重複しており、なかなか語りえないところもあるし、彼の映画を語ることそのものが私の中で意味を失っているような気持ちになる。 ゴダールが語り、私がそれを掴む。また投げ返す。そんな彼の作品と私との間のキャッチボールしていく中で、さらにさらに新たな刺激が与えられ、さらにさらに見えてくる。そのこと自体にとても幸福を覚える。 だからゴダール作品について、書くとしても、書きたくなるとしても、もう少し後だろうなと思う。 それと「ゴダールの新ドイツ零年」を見ていると、フランソワ・トリュフォーが「恋のエチュード」の「エピローグ」で「この15年の間に戦争があり、数百万人の人が死んでいった。今ではその理由さえも忘れ去られている」とトリュフォー自身が語っていた。 このトリュフォーが語った言葉の重さ、歴史の孤独を映像で描いたのが「ゴダールの新ドイツ零年」ではないかと思えてくる。 映画「パッション」で映画を語り、愛を語っているゴダールを観ていると、トリュフォーの「アメリカの夜」とつながるものを感じる。 かつて兄弟のようにいつも一緒だったゴダールとトリュフォーは訣別したけれど、トリュフォーに近づき、いまゴダールを観ていると、この二人は紛れもなく根っこの所では切れようがないヌーヴェル・ヴァーグのシャム双生児だという気がする。 しばらくゴダールにどっぷりと浸かろうと思います。 トリュフォーの「隣の女」ゴダールの「ヌーヴェルヴァーグ」などは記事にしていきたいし、公開映画の鑑賞記事は書く予定ですので、不定期になりますが言葉を忘れないためにも記事更新はしていきますが、 少し滞りますが、その分、皆様のところにはお邪魔に行きますので、その節はよろしくお願いいたします。過去の記事にもコメントなどもいただければ嬉しく思います。 なにしろ、黙ってゴダール観ていると、やはりお喋りは恋しいものですから。 最後に、思うまま前後のつながりなど構わず書き連ねた文、読んでくださってありがとうございます。
by mchouette
| 2008-09-29 20:42
| ■映画・雑記
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