by mChouette 検索
カテゴリ
全体 ■映画 =映画:あ行 =映画:か行 =映画:さ行 =映画:た行 =映画:な行 =映画:は行 =映画:ま~わ行 ■映画・雑記 ■ドラマ ■展覧会・コンサート ■一冊の本 ■徒然なるままに… ■美味しいもの ■アウトドア・旅 ■勝手にバトン ■ご挨拶・お知らせ 未分類 最新の記事
その他のジャンル
|
12
2007年/ロシア/160分 at:第七藝術劇場 ロシアのニキータ・ミハルコフ監督の描く「12人の怒れる男」 シドニー・ルメット監督が1957年に、製作費34万ドルという超低予算、撮影日数2週間という驚くべき日数で製作された「十二人の怒れる男」」(原題:12 Angry Man/ 95分)のリメイクといえるだろう。 ただ、本作の映画紹介を読む限り、舞台を現代のロシアに置き換え、「ロシアのタブーともいえるチェチェン紛争に挑んだ」とか「ロシアの今を浮き彫りにしている」とかといた映画紹介で、ルメット作品とは一線を画した作品として紹介されている。 チェチェン紛争で孤児になった少年を、ロシアの軍人が養子にし、その少年の義父殺害の評決が12人の陪審員に委ねられた。 11人が有罪。そして1人は無罪。 無罪の男は、自身の体験を語り、彼らの良心に訴えた。 そこから有罪から無罪へと陪審員が自分の出した評決を変えていくドラマが160分の間で繰り広げられる。 少年が回想するチェチェンや陪審員たちが語る話しといった個々の断片が物語全体に結びついていかない不明瞭さを感じる。陪審員たちを演じる役者達はそれぞれにベテラン揃いで、彼らの競演は見応えのあるものだったが……。 ルメット作品と同様、少年の裁判審議の検証も行われけれど、大きく違うのは、陪審員達が有罪から無罪への転換点が、少年の裁判審議に疑問も持ったというところもあるが、クローズアップさせて描かれているのは彼らの「良心」だ。 た陪審員たちそれぞれが、自らの良心に突き上げられるように彼らは自分の境遇や味わったことを語るが、そこから少年の無罪へと結びついていく必然がどうも感じられない。 ルメット作品において、陪審員たちが裁判の審議をフィードバックさせていくことで、自らのといった自らの内にある偏見や、思いこみ、曖昧な視点、差別意識といったことにぶち当たる。少年の罪を問うという審議行為は、陪審員一人ひとりの良心と責任が問われるものであり、人が人を裁くことの重さの意味を、彼らは審議の中で否応なく自覚させられていく。物静かな老人は自分の思ったことに自身と勇気を持ち始め、差別と偏見に固執していたものは、自らの主張の破綻を思い知らされる……。 「良心」とは、絶対的にみえて相対的なものではないだろうか。 人はそれほど強くないだろう。絶対的な良心をもって動いている人は少ないだろうし、良心の持ちようも状況の中でその持ち方も強弱があるのではないだろうか。 ルメット作品でも、本作のミハルコフ作品でも陪審員たちは、話合いの中で、次第に良心を自覚していき、有罪から無罪へと移行させていく。 ルメット作品では、裁判の疑問点を検証していく過程で、曖昧だった疑問に気づき、内なる良心に従って自らを是正し無罪に挙手していくという過程が克明に描かれている。「無罪」とする理由を彼らに発言させている。 ルメット作品で、最後まで有罪を頑強に主張するたった一人の陪審員が崩れる瞬間は、彼の吐き出した一言が、観る者に有無をいわさぬ強さで、彼の息子に対する屈折した感情、悲しみと共に迫ってくる。 ミハルコフ作品では、その良心が前面に押し出されている。 その話し合いの中で、証言の真偽の検証もなされていくだのが、彼らの内面では有罪と無罪の振り子が揺れていて、有罪に大きく傾いていた針が良心という錘によって無罪に針が振られて行った…そんな印象をうける。 頑強に有罪を主張し差別発言をしていた男が、泣き崩れて語る彼の息子の話と、どうでもこうでも有罪にもって行こうとしてきた彼の頑強な発言とが私には、どうにも結びついてこなかった。 比較すべきではないだろうが、やはり、比べてしまう。 ルメット作品では有罪は電気椅子送りの死刑だ。 そしてミハルコフ作品では死刑は廃止されて、有罪は終身刑だ。 ニキータ・ミハルコフが演じる陪審員2が「彼の無罪は確証するが、釈放されたら義父を殺した犯人によって彼も殺されるだろう。無罪で釈放されるよりも有罪となって刑務所にいるほうが生き延びられるのだ」という言葉に、ロシアという国の恐さを感じると同時に、その言葉からファシズムの論理と結びつけるのは深読みしすぎだろうか? 義父殺しの汚名のまま、檻という抑圧の中で生きながらえるのが幸福だろうか? 生命の危険はあったとしても、無罪の自由を彼に与えるのが幸福か? 自由の死か? 抑圧の生か? 陪審員2は、11人が無罪なら自分も無罪の評決に従おうと11人に委ね、彼ら全員は少年を無罪とした。 チェチェンの少年の人間としての尊厳、自由は、彼らの良心によって守られたということだろう。 ニキータ・ミハルコフ監督は、「ロシアにおける良心」を、陪臣員たちの最後の評決に込めて描こうとしたのだろう。 そのように受け止めることにしよう。 だが、ラストの少年と陪審員2のやりとりは、必要だったのだろうか? ルメット作品を奪胎換骨した作品ともとれるだろう。 その骨がバラバラのままで形になっていなくて、玉虫色的作品という印象の後味が強く残る……。 ……………………………………………………………………………………………… 日本でも裁判員制度が導入される。 タイムリーな作品といえるだろう。 本作をみていて、有罪が大勢をなす中で、一人反対の意思を表し、全員からなぜだ?という非難交じりの、詰め寄るような場面をみるにつけ、海外からは物言わぬ日本人といわれる日本における裁判員制度の難しさを思う。グレイゾーンの意思をどこまで言葉に出して発言できるだろうか? 私がもし、たった一人であったらと、自身に置き換えてみて、人と違う主張や、気持ちをどこまで出せるだろうかと考えてしまう。 二つの作品では、石を投じた波紋が無罪の方向へと広がっていったが、有罪に広がっていくケースもあるだろう。 果たして人が人を裁けるものだろうか? ルメッと作品の陪審員たちのように、審議していけるだろうか? ミハルコフ監督の陪審員たちのように、揺らぎながらも無罪へと自らを導いていけるだろうか? 偏見と良心 当たり前と思っていたことを、もう一度捉え返してみる。自分自身を更地にしてみる。 難しいことだ。 この問いは決して忘れてはいけない、刻みつけておかなければならないことだろう。 本作をみていても、強くそれを思った。 ……………………………………………………………………………………………… ニキータ・ミハルコフ監督作品は、私が観た範囲で感じるのは、光りを取り入れた映像演出などはうまいなぁと思うし、フランス映画を思わせるような色彩感覚や雰囲気があって、難解ともいえるタルコフスキーやソクーロフなどを見た頭には、ミハルコフ作品はかえって新鮮に見えたりもするんだろうと思う。 でも、ソ連のスターリンの粛清時代を背景にした「太陽に灼かれて」などをみていても、時代を色濃く反映させて描いているのだけれど、彼はどういうスタンスにいるんだろう?とそんな疑問が持ちながら観ていた。時代の状況に対する彼の視点とか、あるいは批判精神といったものが今ひとつ掴めない。美しいメロドラマを見ただけという印象を持つ。「機械じかけのピアノのための未完成な戯曲」を見ていても、チェーホフの新解釈と評価されているようだけど、同じ印象を持つ。 純文学の顔をした実は大衆文学…これは言いすぎだろうか ソ連時代はスターリンによる粛清があり、映画監督や作家たちが投獄や弾圧の抑圧を受けてていた実態は伝え聞く。ソ連邦崩壊後のロシアにおいてもジャーナリスト達の相次ぐ不可解な死も報道されている。しかしチェチェン紛争についてもほとんど国外には知らされていないというロシアの隠された恐怖の実態は今も続いているだろう。 以前にみたドキュメンタリー「暗殺・リトビネンコ事件」でそれは実感させられた。 タルコフスキーの亡命の悲劇も知っている。ソクーロフ監督も作品公開はペレストロイカ以降だったそうだ。 そして、ロシア映画はソ連時代とはまた違う規制や弾圧があるだろうことは容易に想像できる。ロシア映画が難解ともみえるのも、弾圧や規制の中で、表現の自由を貫くために暗喩表現や象徴的な映像によって表現していこうという映画環境にも拠るのだろうか。 ミハルコフ監督もこうした映画製作環境にあって、こういうスタンスで映画を製作していかざるを得ないのかとも思うが。彼がロシア映画界で果たしてどのような立場で映画を製作しているのだろうか。今までの彼の作品に抱く印象も振り返り、そんなことも思う。 監督: ニキータ・ミハルコフ 製作: ニキータ・ミハルコフ/ レオニド・ヴェレシュチャギン 脚本: ニキータ・ミハルコフ/ ヴラディミル・モイセイェンコ/ アレクサンドル・ノヴォトツキイ=ヴラソフ 撮影: ヴラディスラフ・オペリヤンツ 美術: ヴィクトル・ペトロフ 音楽: エドゥアルド・アルテミエフ 出演: セルゲイ・マコヴェツキー/ ニキータ・ミハルコフ/ セルゲイ・ガルマッシュ/ ヴァレンティン・ガフト/ アレクセイ・ペトレンコ/ ユーリ・ストヤノフ/ セルゲイ・ガザロフ/ ミハイル・イェフレモフ/ アレクセイ・ゴルブノフ/ セルゲイ・アルツィバシェフ/ ヴィクトル・ヴェルズビツキー/ ロマン・マディアノフ
by mchouette
| 2008-09-14 01:36
| ■映画
|
ファン申請 |
||