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VOZVRASHCHENIYE
THE RETURN 2003年/ロシア/111分 監督: アンドレイ・ズビャギンツェフ 脚本: ウラジーミル・モイセエンコ/アレクサンドル・ノヴォトツキー 撮影: ミハイル・クリチマン 音楽: アンドレイ・デルガチョフ 出演: イワン・ドブロヌラヴォフ/ウラジーミル・ガーリン/コンスタンチン・ラヴロネンコ 「父、帰る」今回が2度目の鑑賞となる。 監督であるアンドレイ・ズビャギンツェフは舞台俳優出身で、3本のテレビ監督の後、本作が彼の映画監督デビュー作。その作品で2003年ヴェネチア国際映画祭の最高賞である金獅子賞と新人監督賞のダブル受賞をしたという驚くべき快挙。 父と息子を描いた作品。 厳しく、そして美しい映画だと思う。 色々な観方ができる映画だと思うが、私は父性の何たるかではなく、父性そのものを描いた作品であり、アンドレイとイワンという兄弟二人の、少年から大人(男)になるためのイニシエーションの物語として受け止めた。 私事になるが、夫が長く単身赴任にある我が家の事情をみると、「亭主元気で留守が良い」という言葉もあるように、私にとっても子供にとっても居心地のいい環境だといえる。お喋りしあって、思いやり見せあって、優しさだけで私と子供2人の家族ごっこは維持できる。 でも子供たちが成長するにつれ、特に息子にとって、心棒のない、優しさだけで繋がっている家族関係だけというのも如何なものだろうと考えてしまう。 息子が中学生の時だったか、地理を勉強していた彼に「地理好き? 私は歴史の方が好きだな。地理は苦手」って言ったら、「地理が解れば、歴史がもっと面白いよ」っていわれた時、これが男性の視点か!っと思った。私と娘の会話では逆立ちしたって出てこない会話だ。男の視点は女のそれとは根っこから違う。悔しいけど、オッ!って思うこともある。片方の視点だけの刺激や触発だけ受けて育つのは、きっとDNAに受け継いだものが半分は眠ったままで育ちも悪いのではないかしら、などと思ったりすることもある。 そういう家庭事情から、「心棒としての父性の存在」ということをいやでも実感する。 この映画の冒頭で、次男のイワンが高い塔から湖に飛び込めず、兄や他の友だちから弱虫といわれ置いてきぼりされる場面がある。塔の上で一人泣きじゃくっているところに母親がやってきて抱きしめ、イワンはできないことをあれこれ言い募り、母親に慰められ、そうして自分を甘やかしていく。そこに父親がいれば、また違う状況が生まれたかもしれないだろう。 イワンと兄のアンドレイは母親と祖母の4人暮らしで、父親はどういう事情か分からないが、彼らが小さい時からずっと不在だった。 兄のアンドレイはイワンが塔から飛び込めない場面でも仲間から弟を庇う優しさを見せている。兄はきっと小さい頃から「お兄ちゃんでしょ、弟には優しくするのよ」と言われ続けて育ったのだろう。そしてイワンは家族の中で甘やかされて育ったのだろう。我が強く、イワンはなにかあるとすぐにママに告げ口をし、兄に対しても対等か命令口調で物を言う。 色々な考えがあると思うけれど、私は基本的に母親とは子供を抱きしめる存在であり、父親は突き放す存在だと思っている。私自身、そして我が家を振り返ってみると、少々乱暴な言い方をすれば、母親とはお喋りをし、父親とは向き合って話をする存在として、子供のなかではあるんではないだろうかとも思う。 女親は、どうかすると闘いよりも目の前の優しさに目が注がれるもんだ。 息子にとって父親とは、彼が出会う初めての大人の男であり、社会であり、そして乗越えるべき存在ではないだろうかと思えるわけで、そういう父親との関係の欠落は息子の内面の成長にとって大きなマイナスではないだろうかと考えてしまうこともあった。一時期、息子が高校生の時に父親を「あの人」というやや蔑視をこめた言葉を使って表現していたときがあった。対立すべき関係を軽蔑という形にすり替えて、彼は父親との関係を超えようとしている。これはヤバイのではないか、父性不在の負の側面を痛感したこともあった。 女親として、子供の成長の中で、表面的には恙無く暮らしているのだけれど、彼らの内面を見たとき、父親がいるのに父親不在という状況から、余計に父性不在ということを考える私にとって、この映画はそんな父性不在の負の側面をまざまざと見せつけられた苦い映画でもあった。 そんなアンドレイとイワンの前に、ある日突然に、父親が12年ぶりに帰ってきた。 兄は父親を受け入れ、躊躇いなく「パパ」と呼ぶが、イワンは異質な存在として父親に拒絶反応を示す。 冒頭にあった塔から水に飛び込む遊びは、少年たちにとっては男の根性を示しあう意味をもつものであり、子供からの脱皮という洗礼儀式ともいえるだろう。こうして少年達は遊びの領域を広げ、レベルアップさせながら次第に自信と勇気を見につけていきながら乳離れし大人へと成長していくものだろう。 そんな洗礼を通過したアンドレイにとっては、目の前の父親の鍛え抜かれた肉体と、母親にはない威厳のある存在感は憧れの存在として映るが、母親の優しさに逃げているイワンにとっては、目の前に突然現れ、食卓の中央に神のごとき威厳と重みを感じさせる存在として座る「父」という男は、塔から飛べなかった自分の弱さを認めたくない彼にとっては、大人の男の彼は、敵であり、居心地の良かった世界をぶち壊す存在として映ったことだろう。 そんな二人を父親は小旅行に連れだす。 登場する人物は、冒頭で母親と祖母が少し出てくるだけで、最後まで父親と兄弟2人の3人だけだ。 父親が運転し、助手席に兄のアンドレイがまさに父の助手役として座り、弟のイワンは一人後部座席。父ははっきりと兄と弟の位置関係を彼らに突きつけている。 父はアンドレイに、レストランの場所を尋ねにいかせたり、ウェイトレスを呼んで金を支払わせたり、恐喝された相手を捕まえ「殴られたら、殴り返せ」といい、不貞腐れて食事をせずに車に戻るというイワンを腕づくでテーブルに座らせ、兄弟にとって父との旅行は、母親たちといたときには決して味わうことのない試練の旅行でもあった。 アンドレイは怒鳴られても、殴られても父に必死についていき、イワンは父にも母性を求め、ことごとく弾き飛ばされていく。 無人島にわたった時から、イワンは父とアンドレイの距離が縮まっていき、一人取り残された自分を思い知る。飛び込めず塔の上でべそべそと泣いていた同じ状況がここでも起こり、今は抱きしめてくれる母親もおらず、父に対する反撥心をますます深めていく。 なんで帰ってきたんだ。イワンの父に対する敵対心ともいえる反撥は、ある事をきっかけに頂点に達する。 お前なんか嫌いだ 殺してやる 父親にナイフを向けるが、父を殺せないでいる、強がっているけれど何もできない自分をまたもや思い知り、ナイフを捨て、無人島にある塔に向かって森を走り抜ける。イワンを追いかける父。そして二人を追いかけるアンドレイ。 塔に昇りきったイワンは「僕にだってやれる! やれるんだ!飛び降りるんだ!」と泣き叫ぶ。 同じロシアの監督であるアレクサンドル・ソクーロフにも父と息子を描いた作品「ファザー、サン」がある。息子の成長とともに、同性愛を思わせるほどの父と息子の強い絆と、息子の自立を描いた作品で、この中で父と息子は互いの関係を確認しあう言葉が出てくる。 「父の愛は苦しめるためのもの」父と息子の間で交わされるこの言葉に、「父、帰る」の父と息子の関係が甦って来る。 「ファザー、サン」では父は息子にとって神のように絶対的な存在であり、父のようになりたいと憧れ、父と向き合うまでに成長した。そして父と息子はそれぞれ同じ場所を夢にみるが、息子の夢の中には父はおらず、また父の夢にも息子はいなかった。息子が自立するということは、父と息子の関係において、「父性の死」を意味するものだろう。 ズビャギンツェフ監督は「最後の塔の場面は、自分を犠牲にして息子を救うという父親による愛の表現」だと語っているが、冒頭で塔から水の中に飛び込めなかったイワンが、無人島で森を駆け抜け、塔に昇る行為は、彼にとっては今の自分を超えるべきイニシエーションとしての意味をもつものではないだろうか。 「森」もまた、イニシエーションの象徴として描かれるものである。フランソワ・オゾンの「クリミナル・ラヴァーズ」でも主人公の青年が木の枝に身体を傷つけられながら、森の中を走り抜けるシーンがあった。 本作では2つの「塔」が象徴的に描かれている。 一つ目の塔は冒頭で少年たちが競って湖に飛び込んだ塔であり、アンドレイが飛び込み、イワンが飛べなかった塔である。 二つ目の塔は、父と兄弟たちが渡った無人島にある塔で、この塔に父とアンドレイが昇り、父と息子の語らいが生まれた塔であり、イワンが塔の下でそんな二人を見上げていた塔である。彼は冒頭の塔のトラウマから昇れなかったのだろう。 そして、父の死(あるいは父性の死)という悲劇をもたらした塔でもある。 「塔」は兄弟にとっては子供から大人になるためのイニシエーションの象徴と捉えられるだろう。 冒頭の塔を通過したアンドレイは、帰ってきた父によって男へと成長し、イワンは自分を打ち破ろうと無人島の塔に昇り、父は自らの死をもってそんなイワンを受け止めた。 そう考えると、父の遺体を乗せたボートが波にさらわれ沖へ流されたとき、イワンがあれほど口にするのを拒んだ言葉であった「パパ!」という言葉を何度も叫びながらボートを追って湖に入っていった場面はただ感傷的なシーンではなく、「水」が洗礼を意味するならば、湖に入り水に浸されるこの場面は、イワン自身の洗礼を意味するものであることに、いっそう胸が熱くなり思わず涙が溢れてきた。 そしてボートに水が入り、父の遺体が水に包まれ、ゆっくり沈んでいった時、父性不在の迷える存在であったイワンを、父は自らの「死」と引き換えに彼の洗礼を引き受けたのかと思い、これこそが父と息子の関係における父性愛かという思いに涙が滲んでくる。 塔から落下した父の遺体を、兄と弟はボートまで引っ張っていく。木の枝を切り取り父の遺体の下に敷いて兄弟は渾身の力で引っ張ってゆく場面があった。それは旅行の途中で、タイヤがぬかるみにはまった時、木の枝をタイヤに敷き兄弟に檄を飛ばして車を押させたあの場面を思い起こさせる。 「男になれ」と父に打たれ鍛えられた兄は、父に教えられたサバイバルを父と同じように毅然と弟に命じ実行していく。弟はそんな兄に素直に従う。そんなアンドレインに父の姿が重なる。父性は父からアンドレイへと確実に引継がれたことを見出す。 父はこのため(父性の復活)に兄弟の元に帰ってきたのだろうと思うと、またもや涙が滲んでくる。 そして、兄弟が手にした家族の古い写真から父親の姿が消えていた。 この物語はイワンとアンドレイという兄弟の変容の物語ともいえるだろう。兄弟の有り様は、父性の出現によって冒頭と最後では大きな変容が見られる。 父と息子。 観るほどに、厳しくも愛の深さを感じせる映画だ。 「塔」と同じように、「水」もまた洗礼という宗教的な色彩を帯びて象徴的に、そして印象深く描かれている。 オープニングは水の底に沈んだボートがゆっくりと映し出された映像で始まり、塔から飛び込んだ少年たちを包む水、父の遺体を載せたボートが水面をゆっくりと掻き分ける舳先から生み出される弧を描く波紋、そのボートがゆっくりと水に沈んでいく……そして冒頭の水の底のボートの映像につながる。 本作に対して、異なる視座から神話的な世界を切り開いているという指摘に対し、ズビャギンツェフ監督は実に示唆に富んだ(深読みすれば意味深ともとれる)コメントを述べている。 私自身が神話的な力をどうとらえているのかということですが、あるイメージが思い浮かんだので、そのイメージを通して説明します。私たちは誰もが携帯電話を持ち、電波によってお互いに結びついています。その電波というものは、実はものすごいエネルギーをもってこの場に存在し、常に私たちを貫いているわけです。それが私たちが生きている環境ですが、神話はその電波にたとえることができます。人々は日々あくせくしながら物質的な世界を生き、目に見えるものを追求していると思っているわけですが、実は神話というもの、人々が共生するという掟が常に私たちと接触している。古代ギリシアや古代中国の時代にできた掟というものが私たちを律し、身体を貫いているのですが、それを十分に認識していない。私たちは、着ている服が違うくらいで、古代の人間たちと何も変わっていない。つまり、いまだけだと思っていることが、数千年前にすでに起こっていて、今後も何千年もそれを繰り返していくということなのです」 しかし、本作「父、帰る」にしろ、ソクーロフの「ファザー、サン」にしろ、父と息子の関係を、何故にかくもここまでの厳しさをもって描くのだろうかという疑問がわいてくる。初めて鑑賞時からずっと「しこり」のようにある。しかし今は深読みはせずに、素直に父と息子の物語として受け止め 、これは別の機会に考えてみることにしたい。 この作品は深読みすれば様々な側面が浮かんでくるだろうし、見方によっては様々な受け止め方ができる奥深さを感じさせる作品だと思う。 私が父性不在の女親という立場で苦い反応をしたのに対し、父親がいない息子の立場で、俳優の香川照之が明快にこの映画を語っている。 じつは私自身、この作品は澱のように私の内に残っていたものの、イワンの父をみる憎悪の眼や父の死という衝撃も辛く、もう一度観ることに躊躇っていた作品でもあるいのだが、やはりもう一度観て言葉にしてみようと思う気にさせたのは、「日本魅録」(香川照之・著/キネマ旬報・刊)で彼のこの映画について語っているのを読んだからでもある。 人生で父親が己の子に与える宝は、具体的な言葉や分かりやすい優しさなのではない。背中だ。男の生きる姿勢だ。でも私はその背中を見たことがないのだ。私が見てきたのは勉強さえしていれば満足印の祖母の年老いた額の皺だけなのだ。そして香川照之はさらにこう語っている。 「一見理不尽な言動に振り回されて20年後にその意味が分かる、そういう体験がしたかったと痛切に思った。」 私は父性不在の女親という立場に痛みを感じたものが、父性の欠落した息子の立場から観るとこれほどの切望の思いを与えるものかと、そのことに新鮮な驚きすら感じ、苦さと、そしてある「しこり」が残る本作の鑑賞を後押ししてもらったといえる。 余談になるが、、香川照之が「徹子の部屋」で、男の流れというのはあると思うと語り、本来、僕が立つべきだった歌舞伎の舞台を、息子に立って欲しいと思っていることなど、親子の絆というよりも、脈々と受け継がれるべき男の系図の中で父である猿之助を語り、息子を語っていたことが思い出された。 蛇足だけど、みんなこの映画をどうみているのだろうと、Googleで検索してみると、父親の12年間の不在理由とか、父親の正体とか、島で掘り出した箱の中身とかといったことに関心が向いている感想などもあったけれど、私も観ながらあれこれ推測はしていたけれど、これは作品の味付け程度としてみた方がいいことだろうと思う。
by mchouette
| 2008-09-07 00:00
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