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本のタイトルが長いんです。
「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたのか」 岡田芳郎・著/講談社・発行 戦後、人口10万人たらずの山形県酒田市において、世界一と言わしめた映画館と日本一と絶賛されたフランス料理店を作った佐藤久一という一人の男について語られた本です。 佐藤久一…夢追い人とは彼のような人をいうんでしょうね。 戦後の日本で、しかも山形県酒田市という、大阪に住む私には山形県にこういう市があるのか、という程度のお粗末な認識しかないこの町に、淀川長治氏が、荻昌弘氏が魅了され、足繁く通うほどの映画館「グリーン・ハウス」があったことに驚く。 グリーン・ハウスの設備に対する久一の感覚が数十年先をいっていることに久一の時代を見る眼、その先を見る眼の確かさに驚く。 映画館「グリーン・ハウス」で、訪れた人に最高の時間を過ごしてもらたい。居心地の良い空間を提供し、素晴らしい映画に浸ってもらいたい。 回転ドア、これからは女性が大事だと、いち早くトイレを水洗式にして清潔なトイレにし、読んでいると映画館いうよりもホテルのロビーのような雰囲気があったように思う。映画を実に来る人たちも自然とお洒落をしていったとか。最高のもてなしをという久一の姿勢が、おのずとグリーンハウスにくる客の質を高めていったということだろう。 小冊子を発行し、少人数のシネマサロンで過去作品の映画鑑賞を開催するなど、20歳で父親から任された劇場支配人として久一は、自らの資質を磨き、花開かせていった。 淀川長治氏は「あれはおそらく世界一の映画館ですよ。世界のたいがいの映画館を見て回ったが、グリーンハウスに匹敵する映画館はなかった」と言明している。 1949年(昭和24年)洋画専門劇場としてオープンした「グリーン・ハウス」の第一回上映作品は、ジョニー・ワイズミュラー主演の「ターザン砂漠へ行く」 上映作品のラインナップは東京に負けないほどのレベルの高い作品が上映されている。 彼の芸術的センスによる審美眼に負うところが大きいだろう。 佐藤久一自らが選定した作品が次々と上映され、アラン・ドロン主演の「「太陽がいっぱい」が東京・日比谷スカラ座でのロードショウ公開されたとき、この地方都市である酒田市でも同時公開している。 それをするだけの集客、佐藤久一の作品に対する確かな選定眼、業界でも「グリーン・ハウス」の評判と佐藤久一は知れ渡っていたということの証でもあるだろう。 酒田で代々造り酒屋を営んでいた佐藤家の長男として生まれたものの、家業には興味を示さず。そんな息子に父は、家業とは別に経営していた劇場「グリーン・ハウス」を任せることにした。東京で面白くもない大学生活を送っていた久一は大学を退学し、故郷の酒田市に戻ってきた。 これが久一とグリーン・ハウスとの出会いである。 1964年までの支配人を務めた後、久一はフランス料理の世界で自らのプロデュース能力と、その芸術的センスを遺憾なく発揮し、「レストラン欅」次いで「ル・ポットフー」の支配人を務める。 かの開高健が丸谷才一に「すばらしいフランス料理屋を見つけた、酒田で」と興奮のあまり周囲に鳴り響く大音声で叫ばせ、丸谷才一に「裏日本随一のフランス料理」とうならせ、写真家の土門拳も久一のフランス料理の店とその味をこよなく愛したという。 当時のメニューも紹介されていて、この時代に!と驚くほどの充実した内容。 海の幸、山の幸に恵まれた酒田の食材を生かし、酒田に新しい食文化を生み出し、フランス料理の礎を築こうとする彼の並々ならぬ意欲を感じる。 映画観にしろ、フランス料理店にしろ、久一の発想の根本にある精神はただ一点。「最高の物を提供したい」これにつきるだろう。 グリーンハウスを離れたきっかけは、妻以外のある女性との恋愛がきっかけである。 というよりも、グリーン・ハウスで最高の映画と最高の空間を提供するというだけでは、久一の中にある創造意欲は満足できなかったんだろう。 その空隙が女性に走らせたのだろう。 そして日々変わる食材からその日の献立を決め、最高のもてなしと料理を提供するというフランス料理店が、久一の創作意欲をかきたてたのだろう。 そして、それが開高健や丸谷才一、土門拳という食通たちを唸らせ、遠方にもかかわらず何度も足を運ばせるほど虜にしたのだろう。 しかし、久一の悲劇は、画家が売る絵の制作よりも、自らの芸術を追求する方向に向くのとに似て、ひたすら最高の食材で最高の料理、最高のもてなしを追及していったことだろう。 採算を考えるある枠で妥協するということは、久一のあまりにも芸術的ともいうべき彼の志向には堪えがたいことだったのだろう。 佐藤久一という一人の男が、己の夢を形にし、彼が創りだしたその夢の世界は人々にひと時の桃源郷を味わい、そしてその男の死と共に、それは砂上の楼閣のように、夢がいつかは現実に引戻されるように、消えてしまった。 1930年山形県酒田市に生まれ、そして1997年享年67歳でこの世を去った佐藤久一。 彼が提供した劇場もフランス料理店も、大胆な言い方をすれば全て本物であったといえるだろう。贋物もメッキ物は一点もなかった。それは佐藤久一という人間の真価につながるだろう。 彼には本物の眼をもつものだけが放つ穏やかなオーラがあったのだろう。彼が生前に出会った 人たち、彼に声を賭けた人間もまた一流というべき人たちだった。 上記の淀川長治、荻昌弘、開高健、丸谷才一、土門拳…… そしてグリーンハウスを離れ、東京の日生劇場で働いていたとき、三島由紀夫のほうから彼に近づき声をかけている。 生涯かけて夢を追い求めた男が山形県の酒田という町にいたことを、この本で知った。 埋もれた地方の名士というには、彼の追い求めたものは、誤解を恐れずにいうならば、日本という国、酒田の町の中で語るにはあまりにも高邁すぎたのだろうか。 「これは商売じゃない。私の道楽です」そう語る久一の言葉のそこには、銭勘定の世界には生きられない己に対する自嘲を感じる。 しかし、久一のそんな銭勘定の世界に生きる者たちの、心の空白の部分にすっとはいりこみ夢を見させる人だったのかも知れない。 しかし、晩年、そんな夢と現実の鬩ぎあいの中で失速していった彼がいる。 「孤高の人」 読み終えたあと、そんな言葉が脳裡に浮かぶ。 しかし、日本の一地方都市にこんな一流の感覚を持って、その感覚を映画館、さらにフランス料理とレストランという形の中で具現化していった人がいたとは……! そして、久一のもつ一流の感性が、彼個人に帰結し、彼の死と共に風化し、文化として醸成されなかったことに淋しさを覚える。 この本を紹介くださったグリーンベイさんに感謝です。
by mchouette
| 2008-08-12 00:00
| ■一冊の本
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