by mChouette 検索
カテゴリ
全体 ■映画 =映画:あ行 =映画:か行 =映画:さ行 =映画:た行 =映画:な行 =映画:は行 =映画:ま~わ行 ■映画・雑記 ■ドラマ ■展覧会・コンサート ■一冊の本 ■徒然なるままに… ■美味しいもの ■アウトドア・旅 ■勝手にバトン ■ご挨拶・お知らせ 未分類 最新の記事
その他のジャンル
|
故人となった著名人の自伝的な本は何冊が読んでいたけれど、そしてトリュフォーに関する本もいくつか読んでいたけれど、この本ほど幾度も胸にぐっとこみ上げるものがあり、思わず涙がこぼれそうになるほどの本は他にはなかったなと思う。
読むのは通勤電車の中。lこぼれそうになる涙をこらえることもしばしば。 映画監督フランソワ・トリュフォーの生涯を詳細な資料をもとに描いた本。 「トリュフォーという一人の人間のキャリアに一つの時代、一つの映画史が凝縮されているかのようにクローズアップ的な視点を採用すると同時に、トリュフォーといえども一つの時代、一つの映画史のなかの点景的人物の一人にすぎないという俯瞰ショット的な視点を失うことなく、トリュフォー自身の語る人生体験(彼ほどつねに自分自身の体験を作品に表明し、明晰に自分自身について語った映画作家はいないだろう)を中心に、トリュフォーの人生のときどきに付き合ったいろいろな人たちの証言や私自身の映画的な、そして人間的なトリュフォー体験をとおして、一つの映画的人生の様相を明らかにしようと試みた。もし本書に多少とも伝記的展望があるとすれば、その点においてのみである。」本書の著書である山田宏一氏は「初版あとがき」でこのように語っていた。 その時代、人々の中でトリュフォーを捉え、そしてトリュフォーその人を語っている。 トリュフォーのみならず、映画を作り始めたばかりのヌーヴェル・ヴァーグの若き映画人たち。 ジャン=リュック・ゴダール、アラン・レネ、ジャック・リヴェット、エリック・ロメール、クロード・シャブロル………。 彼らの作品を思い浮かべながら、映画に賭ける当時の彼らの熱気と興奮が感じられ、あたかもトリュフォーという一人の人間を描いた映画を見るように、トリュフォーや若き映画人たちが生き生きと描かれた臨場感があって、読みながらトリュフォーを思い胸が締めつけられる一方で、そんな彼らの映画への熱い情熱に胸の昂ぶりを覚える。 そして、フランソワ・トリュフォー16歳とアンドレ・バザン30歳。 二人の宿命ともいえる出会い。 トリュフォーにとっては兄であり、父であり、そして友であったアンドレ・バザン。 そしてバザンがどれほどこの、ほとんど狂っているともいえるほどに映画への情熱をもった野生児とも不良少年ともいえるトリュフォーを大きな愛で包み、擁護し、導いていったか。 「野生の少年」でイタール医師が野生の少年を教育(=愛)していったように……。 バザンの愛がなければフランソワ・トリュフォーという映画作家は誕生しなかったのではないだろうか。 16歳の少年が、親から完全に見捨てられ、狂気に走りそうになった彼を救ったのは映画だった。「映画が私の人生を救ったのです」と述懐するトリュフォーの真実の叫び。 そしてトリュフォーにとって映画と同義語ともいえるアンドレ・バザン。 映画狂の不良少年を少年鑑別所から救い出したのもアンドレ・バザンだし、軍隊を脱走し収容所に入れられた彼の釈放に奔走したのも病気療養中のアンドレ・バザンだし、隠れて収容所にいる彼を励ましに来てくれたのもアンドレ・バザンだった。 「映画=バザン」だけは決して裏切らず、必ず応えてくれた。 アンドレ・バザンが世間の非難の防波堤になり、トリュフォーは伸びやかに好き勝手に我が儘邦題に映画批評を書き、旧来のフランス映画をことごとく殺していった。 そして書く事で映画狂の野生のままの少年は精神的な土壌を育ませていった。 山田宏一氏は「なぜそれほどまでにバザンはトリュフォーをかばったのか。それはバザンがトリュフォーという人間に賭けたのだとしか思えない」と語っている。 16歳のぎらぎらした目で激しく映画を語るこの少年の中に、バザンは無垢な原石の輝きを見出したのだろうか。 そしてゴダールとトリュフォー。 血の気の多い二人の若者はいつも一緒に熱く映画を語り、映画をつくり、旧来のフランス映画界に殴りこみ、そんな戦友であり同志だったゴダール。 ゴダール、トリュフォー、リヴェット、シャブロルが血気盛んな若手4人組だったそうだ。 かつてトリュフォーの映画的言語を「野蛮と繊細が、厳格と自由奔放が、姉妹のような関係にある」と称し『フランソワ語」と呼んで敬愛、賞賛していたゴダール。 しかし五月革命以後、無二の親友だったゴダールとトリュフォーの永遠の訣別。 二人の確執はヌーヴェル・ヴァーグという家族の中で起こった兄弟喧嘩にすぎない。「やさしさ」に埋没したトリュフォーをもう一度そこから抜け出させ、かつてのあの「フランス映画の墓堀り人」とまでよばれた批評家時代のトリュフォーの怒りをめざめさせるためには、ゴダールの執拗なまでの憎悪と挑発が必要だったのだ。そのように言う人もいるそうだ。常に観客を考慮にいれて映画をつくるタイプのトリュフォーと、観客などまったく考慮に入れずに映画をつくるタイプのゴダール。 ゴダールは無人島でも映画を撮り続けるだろうが、愛なくしては生きていけないという傷つきやすい生き方のトリュフォーには、そんな孤独は耐えられなかったに違いないと山田宏一氏は語る。 少年時代からほとんど自力で生きてきたトリュフォーと大学までいったゴダールと、人生の出発点と歩いてきた道が180度異なる二人の訣別は、映画に対する意識もまた異なるものであったろう。しかしゴダールにとっても辛い訣別でもあったろう。 死後出版されたトリュフォー書簡集にゴダールは、激しくゴダールを罵倒する語調のトリュフォーからの手紙を提供している。そして新たに書き下ろした序文で「フランソワは死んだかもしれない。わたしは生きているかもしれない。だが、どんな違いがあるというのだろう?」と締めくくっている。 本書に寄せられた蓮見重彦氏の「解説…アイリスに憑かれて」と題された文章に「そして、葬儀に参列しなかったゴダールの口から何度ももれたフランソワという名前の、ひたすら何かを悔いているような響き。」そんな一文に胸が締めつけられる。 <映画=バザン>の大きな愛と、<映画=バザン>に対するゆるぎない信頼に支えられてフランソワ・トリュフォーという一人の映画作家がどれほどの愛をもって映画を撮っていったか。 愛に飢えたトリュフォーは映画を愛し、映画につながる女優たちを愛し、愛を求めて映画を撮っていったことか。 そして映画を撮るということを通して、彼は生まれたときから既にして親から見捨てられ喪失してしまった自らの人生を探す道程であったことか。 そしてそんなトリュフォーと彼のつくった映画とが重なり、その映画の一つ一つからトリュフォーその人がみえてきて、愛に見捨てられた一人の少年の、愛を求める姿と重なり、そしてどれだけ多くの愛に満ちた映画を私たちにみせてくれたか、彼の映画の一つ一つを思い浮かべるたびに、熱いものがこみ上げながらこの本を読んでいた。 「アメリカの夜」でジャン・ピエール・レオーが女性の愛を求め仕事に穴をあけたりトラブルを起こしたり、そんな彼をトリュフォー演じる監督が「彼はまだ子供なんだ」という台詞。案外とこんなところにもトリュフォーの若い時の苦い思い出とも通じるところもあるのかもしれない。 冒頭はフランソワ・トリュフォーの葬儀が描かれている。 そこからして既に私の中に熱いものがこみ上げる。 淡々とした筆致ながら細やかな視線が感じれれる文章の行間から山田宏一氏のトリュフォーへの熱い思いがふつふつと感じられる。 この本を読みながらやはり思い浮ぶトリュフォー作品は「大人は判ってくれない」。 映画狂の不良少年がバザンによってどん底から救い出され、生意気な映画批評家だった少年が僕だったこう作ると撮った短編「あこがれ」に続き、初めての長編映画「大人は判ってくれない」の撮影に入ったその日の深夜3時に、撮影を終え駆けつけたトリュフォーが見つめる中アンドレ・バザンは息を引き取った。 「アンドレ・バザンが死んだ。40歳だった。バザンにひきとられ、そのかたわらで映画に結びついた最初の仕事をもらってやるようになった1948年のあの日以来、わたしはバザンの養子となり、それ以降のわたしの人生の幸福な出来事はすべてバザンに負うていると言っても過言ではない。映画について書くことを教えてくれたのもバザンであり、私の書いた原稿を直してくれ、発表してくれたのもバザンである。そして彼のおかげで、わたしは映画づくりにのりだすことができたのである。……」(「アール」紙に掲載されたフランソワ・トリュフォーの追悼文より) フランス映画の墓堀人といわれ、批判を武器に過激で痛烈な発言で前年のカンヌ映画祭では「カンヌに招待されなかった唯一のフランスのジャーナリスト」だったトリュフォー26歳が撮った「大人は判ってくれない」が、翌1959年のカンヌ映画祭で監督大賞を、マルセル・カミュの「黒いオルフェ」がグランプリを、アラン・レネの長編第一作である「二十四時間の情事」が国際映画批評家賞を獲得し、この年のカンヌはヌーヴェルヴァーグの勝利に沸き立った年だった。 そして「大人は判ってくれない」大ヒットの収益をトリュフォーは、敬愛する70歳の詩人ジャン・コクトーの「オルフェの遺言」とジャック・リヴェットの「パリはわれらのもの」の製作に注ぎ込んだそうだ。「私のような老人に若い人が手を差し伸べてくれるとは、なんと素晴らしいことか」とコクトーは語ったそうだ。バザンがトリュフォーに注ぎ込んだ愛を受け継ぎ、トリュフォーは映画へその愛を注ぎこむ。戦時下にアメリカに亡命したジャン・ルノワールを毎月アメリカまで訊ね生涯にわたり彼を励まし続けたことは有名な話だ。 それから52歳の生涯を閉じるまで、フランソワ・トリュフォーは、映画の中で自らを語り、生き方を探し続け、愛を求め、そして映画の中で多くの恋をし、その恋もまた彼は映画の中で語っていった。 かつて深刻な脳の手術をした山田宏一氏は主治医から、脳の病気は記憶の周期を狭め、それに伴って視野も狭まり、小さな点となり、ついにはそれも消滅して真っ暗となると教えられたそうだ。それは、まさにアイリス・アウトともいわれる映画技法のフェイド・アウト。 アメリカ映画の父と言われたグリフィス作品で使われたこの手法を、トリュフォーは「野生の少年」 「恋のエチュード」で試みている。さらにトリュフォーを敬愛するアルノー・デブレシャンは一人の老俳優によって女優に目覚めていく女性を描いた(まさに『野生の少年」の女優版!) 「エスター・カーン めざめの時」でアイリス・アウトの技法を使っている。山田氏は脳腫瘍に冒されたトリュフォーを 「そしてフランソワ・トリュフォーは、グリフィス的な…ということは古典的であると同時に映画的な、あまりに映画的な…技法、まさに瞳(アイリス)を閉じるように円形が小さくなって画面を消していくアイリス・アウトで、その人生のラスト・シーンを閉じたことになる。」と語っている。 蓮見氏は、本書に寄せた「アイリスに憑かれて」で「フランソワ・トリュフォーの人生を、アイリス・アウトで語れる人は、世界に山田宏一ひとりしかいない」と語る。 「アンドレ・バザンの思い出に」という献辞とともに「大人は判ってくれない」から始まったフランソワ・トリュフォーの映画人生。 大人は判ってくれない」のラストで、アントワーヌ・ドワネルはキャメラに向かい、観客に向かって、あたかもこう問いかけるのである…「ぼくをどうするつもりなんです?」「ぼくがどうなればいいというのですか?」 それから25年間。彼の作品を通してトリュフォーその人の視線を感じ、彼の作品に自分の人生の一部であるような、かつて味わったことがあるような、そんな既視感にも似た感覚を抱くのは、作品そのものがトリュフォーの人生そのものだったからだろう。 山田氏は 「映画のような人生、人生のような映画。映画が人生を模倣するとしたら、人生もまた映画を模倣するのである。そして人生と映画のあいだを行ったり来たりしながら、いつも「<絶対>の探求」の主人公の断末魔の台詞を、おどろきとともに、歓びとともに、苦しみとともに、怒りとともに、叫びつつ、フランソワ・トリュフォーは五十二年の生涯を終えていったような気がする。 情熱のとりことなりながらも、そんな『憑かれた』自分を凝視しつづけたのである。」と語っている。 「作家は死ぬまで自分を疑い続ける。深く、執拗に……たとえ同時代に人々の賞賛を浴びても。」フランソワ・トリュフォー フランソワ・トリュフォー。 52歳。 時間が足りないと焦り、あまりにも生き急いだ人生。 「大人は判ってくれない」で挑むようにキャメラを見据えたアントワーヌの視線は、今も生き生きと息づきいている。 いまさらながらだけれど、改めてここがフランソワ・トリュフォーの映画の原点はまさしくここなんだなと思う。 そして、やはり涙が零れる。
by mchouette
| 2008-07-14 00:00
| ■一冊の本
|
ファン申請 |
||