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PARIS BRULE-T-IL?
1966年/フランス・アメリカ/173分 若い頃、この映画を観た時は知った顔のスターを見つけては喜んで結構ミーハー的にこの映画をみていたように思うし、描かれている内容についてどれほど受け止めてみていたかはかなり怪しいなって再見して思う。 第二次大戦の凱歌を描いた戦争映画といえばアメリカの十八番で、ノルマンディ上陸作戦やパリ解放についても連合軍が撮影したドキュメントフィルムとか「史上最大の作戦」などアメリカ軍の視点で描かれた映画からしか見ていなかったなと思う。 そういう点でも、ヨーロッパ戦争の終結の貴重な一頁ともいえるパリ解放に至るまでのレジスタンス派、ドイツ軍、連合軍そしてパリ市民を描いた「パリは燃えているか」は、監督であるルネ・クレマン自身が戦時下において対独レジスタンス運動に参加したその経験も盛り込まれ、フランス側から描いた映画としても貴重な作品だろうと思う。 クレマンは戦争終結後の1945年に、第2次大戦中のナチス占領下におけるフランス国鉄職員たちのレジスタンス活動を描いた「鉄路の闘い」を、実際にレジスタンスに参加して闘った鉄道従業員たちを登場させて描いている。ノルマンディ上陸の日、彼らの奇襲攻撃によってドイツ軍は武器の輸送路をスタンスたちによって徹底的に妨害され、パリ解放の日を迎えた駅では三色旗がひるがえり鉄道員たちは最初の解放列車を走らせるという、フランス国民のレジスタンス魂を映像いっぱいに蘇らせている。 本作でも、対独ということで統一戦線を組みつつも寄合い所帯組織であるレジスタンス派内部におけるフランス自由軍とドゴール派との対立などは、政治的にもデリケートで微妙な温度差まで巧みに描いているし、またドイツ軍においても正規軍と親衛隊の反目感情もあからさまにみせている。「軍事と政治は別だ」「政治に口をだすな」といった双方譲らぬ自己主張とか、非合法対応はゲシュタボにやらせようといった台詞など、何度かみていると台詞の先のものが見えてくるのも面白い。 連合軍のノルマンディ上陸に、フランス自由軍率いるロル大佐はドイツ兵の間に漂う敗戦の空気をいち早く察知し武装蜂起を主張し、ドゴール派はワルシャワの悲劇を引き合いに連合軍の助けを理由に決起を引き伸ばし(という風に観ていてそう思う)、しかしレジスタンス内部でも決起ムードは沸点に達しており、決起に逸る者たちはドイツ軍をゲリラ攻撃し、休戦か決起か、一触即発、発火寸前のパリ。 「パリを敵の手に渡すな。渡すぐらいなら灰にしろ!」ヒトラーの命令を受け、エッフェル塔、ルーブル、橋、地下水道など全市に爆弾を設置していくドイツ軍。 パリ解放に向け上陸したアメリカ司令部に援軍要請に動くフランス自由軍ロル大佐、いち早く新政権樹立に向かって動き出すドゴール派、パリ爆破に対するパリ占領ドイツ司令官コルティッツ将軍の葛藤と調整役スェーデン領事の憂慮、そしてドイツ兵よりも捕虜の輸送に躍起となるゲシュタボ指揮官やヒムラーの指示でルーブル美術館のタピストリー所望にのこのことやってくる親衛隊員などなど。 パリ解放前夜。フランス自由軍、ドゴール派、ヒトラー、ドイツ正規軍、ナチス親衛隊そして連合軍、それぞれどこを向いて動いているのかが、サラリとしかしシビアに描かれている。 レジスタンス運動に関わり、いわゆる地下からパリの町で起きている事態ををつぶさに観、肌で感じた温度差をルネ・クレマンはこの作品で描き出しているだろう。 冒頭に書かれているように美しい町を守った者たちの栄光を描いた凱歌であり、一方ではパリ解放という歴史の中に埋もれた貴重な証言ともなりうる作品だと思う。 レジスタンス派は寄合い所帯だが、我々の敵はただ一つ。」 「あなた方の敵は連合軍で、パリ市民ではない。」 「我々の任務はドイツ軍壊滅だ。」 「我々は捕虜になるのだ。」 「ゆっくりと「戦争と平和」が読めます。」 「フランスを助けて欲しい。出なければフランス国民は連合軍を決して許さないでしょう。」 「こんな戦争はもうたくさんだ。早く終わらせたい」 自由・平等・同胞愛を掲げ国家の主権を貴族から民衆の手に奪回したフランスの民衆。そして第一次大戦を味わったヨーロッパの国々。 そして映画の中のこんな台詞のやり取りを聞くにつけ、戦争の何たるかもみえないまま、戦争終結などという意識を毛頭持たず無謀にも太平洋戦争に突入していった日本という国に比べ、その是非はともかくも、ヨーロッパ人たちは「戦争」を知っていることを痛感する。 出てくる俳優たちはみな主役級のスターばかりのオールスター・キャストのこの作品。 ロル大佐にはブルーノ・クレメル、ドゴール派代表にアラン・ドロン、同志にはジャン=ポール・ベルモンドも登場し、スェーデン領事にオーソン・ウェルズ。トラティニャンがゲシュタボの情報部員としてレジスタンス狩のゲシュタボとして登場し、射殺されるレジスタンスの若者たちに「すまないな」と帽子をちょっと持ち上げて出番は終わり。キース・キャラダインの骸骨ぶりは白衣を着ればそのまま化学博士で爆弾の材料を詰め込んだトランクを下げて登場し、ワイン蔵で爆弾作りを指導する教授で登場し、「ビンを空けろ」で数秒間の出番。後半の連合軍の登場でもカーク・ダグラス、パリに憧れるアメリカ軍兵士にアンソニー・パーキンスだの戦車からチラッと顔をだすジョージ・チャキリスだの、書き出したらキリが無い。しかしタッチはあくまでもドキュメンタリー。実写と当時のドキュメント・フィルムを見事に絡ませ、骨太と軽やかさが共存し、連合軍のパリ侵攻の後半部分では、どこまでが実写でどこからがドキュメントフィルムか分からないほど二つの映像が結びつき一気にパリ解放に向かって突き進む。 モーリス・ジャールの音楽がドイツ軍の場面では重苦しい行進曲が、レジスタンス活動では軽やかなメロディが流れ、骨太ながら軽やかさに描かれたパリ解放に至る凱歌。 レジスタンス派の決起せよという呼びかけ応え、パリ市民が家の扉を開け市街戦にたちあがり、連合軍のパリ入城に歓喜し、ドイツ軍司令本部から爆破命令を叫ぶ電話を置き連合軍に投降する決意をしたコルティッツ将軍。凱旋帰国するドゴール。無人となったドイツ軍のパリ占領本部の電話からは「パリは燃えているか?」と繰り返すヒトラーのヒステリックな声が聞える。 感傷とかヒロイズムといった感情的なものを極力抑え、コップの水が表面張力で辛うじてこぼれる寸前まで静かに満たしていきながら、一気に溢れるさせる如く、ラストで作品のテーマを表象するともいえる感情を一気に出すのはクレマンらしい。この演出が巧いなと思う。 「鉄路の闘い」でドイツ軍から奪回した線路を走る解放列車だし、「禁じられた遊び」で駅の待合所でポレットの「ミッシェル!ミッシェル!」というポレットの心細げな声だし、「太陽がいっぱい」で警官の姿を知らず陽光の中、幸福に包まれたトムであり、そして本作では下からクローズアップで映された蜘蛛の巣がはったノートルダム寺院の鐘であり、二人の男性によってゆっくりと左右に動きだし高らかにパリの町に響き渡り、その鐘の音はヒトラーの「パリは燃えているか?」ととうヒステリックな声を掻き消す映像だろう。そしてその鐘が鳴り響く中、戦禍を免れた現代のパリの町を空から俯瞰したカラー映像が映しだされる映像だろう。 数年間、地下にもぐり解放の日を確信しながらも多くの同志の死を乗り越え、そして解放の光を一気に浴びる、この一瞬の喜びのために、じっと数年間耐えることができた、そんなレジスタンス運動にも似たラストの瞬間がみせる感情。彼らを突き動かしてきたものはこの歓喜の音色であり、そのために多くの犠牲と勇気と不屈の精神の上に、今も美しく存在する2000年の歴史をもつパリ。 ↓穿った見方かもしれないけど、ちらっと勝手に思った事。 ブログ「時代の情景」のトムさんの記事に触発され、さらに用心棒さんも再見されTBくださり、ブレッソンの「ジャンヌダルク裁判」をレンタルしにいったら横にあった本作を私も思わずレンタルしてしまい、再見していざ感想と頭に描いた言葉を文字にしていっても、どうも一筋縄で捉えきれず、3度も見てしまい、観るたびにこの作品はさらに面白さを増してきて、さらりと広く浅く舐めるように描いているという印象を持った前半部分も、かなりデリケートな部分まで描いていることが見えてきて、映像の間からあれこれ思うことが私のなかに沸いてきてつらつらと書いてみました。時の流れと共に歴史の中に埋もれていく、美しいパリの町を美しいまま守りぬいた者たちの姿を、鮮やかに蘇らすために僅か数秒のシーンでも主役級のスターたちをそのうちの一人として登場させたのではないかしらと思えてくる。 そして、今我々が謳歌しているこの美しい町を守るため、どれだけの人々の犠牲と勇気と決意があったことか。そんな彼らの栄光は、これだけのスターを総動員するに値するもので、まだまだ足りない…なんてルネ・クレマンは案外と思っていたのかもしれないぞ、なんて思ったりする。 そして映し出された美しいパリの町。 トムさんの記事でルネ・クレマンは「ヌーヴェル・ヴァーグ」のカイエ派にこきおろしされているときくと……。 ヌーヴェル・ヴァーグの映画作家たちが、パリが僕たちの撮影現場とばかりに手持ちカメラでパリの町を謳歌し、映画を撮り、映画を論じ、政治を語り、五月革命、政治の季節のなかカルチェ・ラタンを解放区と呼び革命を叫び、学生たちは警察隊を国家権力とみなし火炎瓶を投げつけ、五月革命が終息する中日常に埋没していき…… そんな革命戦士ぶった(ちょっといい過ぎとは自覚してますが…ここはわかりやすくあえてこういう言い方で)新世代を見ていると、当たり前と思っているこの美しいパリを守るため、一人の兵士はカルチェ・ラタンに憧れた一人のアメリカ兵はここで銃弾に倒れ、決起を急いだ若者たちはドイツ兵に処刑され、闘うとは、レジスタンスとはこういうことなんだ! なんて言いたい思いもあったんでは、なんて思ったりもする。 しかし、「太陽がいっぱい」以降、商業路線に走り悪あがきともとれる…などと評されているようだが、20代後半の血気盛んな時代にレジスタンス運動に加わり、戦争という生と死の隣りあわせの感覚、極限の状態のなかの人間を知ってしまったクレマンにとって、映像描写もその感覚にまでいきつかないと納得できないものだっただろう。彼の独特のリアリズム表現もそこによっているのではないだろうか。 そこまでみてしまった、その感覚を知ってしまった人間にとって、戦後社会は、そうした感覚を蘇らせるだけのテーマを見出しえない世界だったのではないだろうか。 あるいはクレマンにとって、全ての悪をナチス・ドイツの中に封印し、しかし世界は東西に大きく分断された戦後社会、あるいは高度資本主義経済に支えられ、個の自由、解放を推し進めた結果がカウンターカルチャーを生み出し、消費文明のなかでヨーロッパ社会に蔓延する個人の孤独とスラストレーションが増大する社会。 だからこそ、「パリは燃えているか」で、あの時代を闘い、そしてパリを守った者たちへのオマージュとして本作を撮ったのではないだろうか。あの鐘の音はそんな彼らへの凱旋の音であり、ドイツ軍の葬儀の音であり、クレマン自らに向けらたものでもあるかもしれない、なんて思うのはちびっと感傷チックかしら?なんて思ったりもする。 監督: ルネ・クレマン 製作: ポール・グレッツ 原作: ラリー・コリンズ ドミニク・ラピエール 脚本: フランシス・フォード・コッポラ ゴア・ヴィダル 撮影: マルセル・グリニヨン 音楽: モーリス・ジャール 出演: ジャン=ポール・ベルモンド シャルル・ボワイエ グレン・フォード アラン・ドロン カーク・ダグラス ゲルト・フレーベ オーソン・ウェルズ レスリー・キャロン シモーヌ・シニョレ シュジー・ドレール マリー・ヴェルシニ ジャン=ピエール・カッセル ジョージ・チャキリス ブルーノ・クレメル クロード・ドーファン イヴ・モンタン アンソニー・パーキンス ロバート・スタック
by mchouette
| 2008-06-23 00:00
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