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1996年/日本/80分
「サッドヴァケイション」で青山真治に開眼し、彼の故郷である福岡県北九州を舞台にした「北九州サーガ」と呼ばれる青山真治の北九州3部作を、制作年と逆行して、集大成ともいえる「サッドヴァケイション」次いで第2弾「EUREKA ユリイカ」と観、そして今回はその出発点でもある「Helpless」を鑑賞。 青山真治第一回監督作品 浅野忠信初主演作品 青山真治は本作では監督・脚本・音楽を手掛けている。 3部作の中では一番の直球で私の感性に響いてくる。 地方都市・北九州市のとある小さな町の中で、行き所を求めてもがく彼らの鬱屈した思いがストレートに伝わってくる。 NEVER MIND 劇場公開時はなかっただろうと思うけれど、本作DVDには面白いことに英語字幕がある。 そして「NEVER MIND」という言葉が、シチュエーションやニュアンスは違うけれど登場人物が方言でしゃべる台詞の英訳として幾度も登場する。 …心配せんでよか …関係ないじゃろ …いいじゃんかよ …気にせんでええ 逆バージョンで日本語、それも方言の台詞が英語字幕となると、微妙な心の動きが伝わるのかな?って思ってしまうけれど…まぁ、これも仕方がないか。日本語字幕でどこまで英語のニュアンスが読み取れているかということも思ってしまう。そして健次が着ているのはNirvana(ニルヴァーナ)の“Nevermind”のプリントTシャツ<前がこの絵↓ 後ろに曲目リストがプリント> Helplessな奴ら、Helplessな人生、Helplessな時代をテーマに、健次や安男たちの夏の終わりの狂った一日を描いた本作。 「NEVER MIND」はそんな時代に生きる者たちにおくる青山真治の熱いメッセージであり、ここに描かれているのは、救いようのない時代に生きる者たちの一つの青春の姿だろう。 オープニング。田村正毅のカメラワークが見事! 上空からカメラはずっと北九州をゆったりと鳥瞰する。 木々が鬱蒼と茂る山々の尾根、海、関門海峡大橋、臨海工業地帯、炭鉱、そして田畑、住宅地へ…… そして父親が入院している郊外の病院から出てきた高校生の健次(浅野忠信)が運転するバイクの後を、健次を背中をカメラはずっと追い続け、北九州の街を走りぬける。 青山真治のこれが原風景なのだろうか。 彼の出発点は確かにここだろう。 1998年夏の終わりのある日。 ……大牟田にある三井三池炭鉱が閉山し福岡県から炭鉱が消えた翌年だ。 高校生の健次。 そして健次の年上の幼馴染で、この日刑務所から仮出所してきたばかりの安男(光石研)。 安雄の妹で歩行障害と知覚障害のある妹ユリ(辻香緒里)。 そして健次の同級生で苛められっ子だった秋彦(斉藤陽一郎)が闖入者として登場する。 都会の喧騒を離れ”のどか”ともとれる田舎の自然の風景は、アメリカとテキサスの国境付近にも似た乾いて茫漠とした光景ともとれる。こんな空間と時間の中で、若者のみなぎるエネルギーが放出されないまま渦巻いているような光景でもあるだろう。 「EUREKA ユリイカ」では、殺人という暴力を経験したことにより心を閉ざしコミュニケーションとしての言葉を拒絶した者たちの再生を描き、本作「Helpless」では暴力という形でほとばしる彼らの鬱屈したエネルギーを描きだしている。 安男は迎えに来た兄貴分から組長の死と組の解散を告げられる。片腕を失ってまで組のために刑務所に入り、一人前のヤクザとしての自分の将来を思い描いていた安男の夢は空中分解する。もって行き所のない憤りに、兄貴分と仲間を射殺し、妹のユリとショルダーバッグを健次に預け、拳銃をもって死んだはずの親分の行方を狂ったように捜しまわる。 安男の憑かれたような暴力に、夏のある一日が狂い出す。 彼らの中の何かが狂ったように暴れ出した夏のある一日。 健次もまた安男とは違った鬱屈した思いを抱えていた。 母親は父と自分を捨てて家を出て、健次の世界は精神病院に入院している父の世話と学校だけだ。 健次の父が鼻歌まじりで「インターナショナル」を口ずさむ。 三井三池炭鉱争議。最終的には組合側の敗北に終り、多くの炭坑労働者が職を失っていった炭坑の坑道にはいつくばって生きてきた彼の人生の中で、この歌を歌っていた戦っていた父は生きる事にいちばん燃えていたことだろう。そして敗北。人生に挫折し、精神を病んだ彼にとって、しかしこの歌を歌っていた時は人生で最も輝いていた時だろう。 そして父親が子守唄代わりに健次に聞かせたのだろう、健次もまたインターナショナルを自然と口ずさむ。 パリ・コミューンの蜂起に際し作られ、その後世界中に広まり、革命歌として団結意識の高揚に歌われてきた曲である。 しかし「インターナショナル」は健次にとって(いやむしろ父にとって)気持ちを高揚させてくれるものではなく、見果てぬ思いを心のうちに封じ込める自虐の曲だったろう。 福岡のこの町が味わった高揚と絶望の歴史を感じる。 こんな健次と父をみていて、頭に浮かぶのが1969年高校3年生だった頃の作家・村上龍の自伝小説ともいえる「69シックスティナイン」で描かれている青春。アメリカの原子力空母エンタープライズの佐世保寄港に反対するデモで沸き返る基地の町、長崎県佐世保を舞台に主人公ケンたちも学校をバリケード封鎖するなど、日本でも「インターナショナル」の歌で覆われていた季節。底抜けのパワー全開の青春時代がそこにはあった。 佐世保と北九州という違いはあるけれど、「69」のケンの時代を突き破る明るさと比べ、それから20年後の「Helpless」の健次にみる自分の状況すら見えないこの閉塞感! インターナショナルを歌い、ベトナム戦争で沸き起こった反戦運動と「革命」の二文字に若者達や労働者達がそのエネルギーをぶつけた季節が確かにあった。そしてそれらが急速に終焉し、いま、若者達のエネルギーはどこで渦巻いているのだろうか。 そして炭鉱が閉山され町が廃れていく中で、どんどん時代の波に取り残されていくこの土地にあって、彼らはどこに向えばいいのか……。 健次の父の世代には確かにあった夢。 それが潰えた今、健次たちの世代は、閉塞状況と負の遺産を受け継いだ世代といえるだろう。青山は、分からないくらいさり気ない形で「インターナショナル」を物語に忍ばせ、時代に切り込んでいる。彼自身も地方において味わった閉塞感だろう。背景に「時代」を意識させる青山真治の深い洞察と視点の確かさを改めて感じる。 時代を物語っている。時代そのものがHelpless! そしてその時代に生きるHelplessな彼らの人生。 そして入院していた父の自殺を引き金に、健次の中で眠っていたエネルギーが突然に目を醒ます。 ごく普通の感情を表に出さす穏やかな雰囲気の健次が、喫茶店の窓ガラスをぶち壊し、オーナーの男を激情のままにぶちのめし、わめき散らすオーナー夫婦をフライパンで叩き殺し…… 浅野忠信の、顔色一つ変えず、あの穏やかな表情のまま豹変する暴力シーンの演技に、健次という若者が抱え続けていた鬱屈し淀みきった闇を覗いたような痛みすら感じる。 演技をしていないような彼の演技。 日常の空間の中で突然にぶちきれた者のリアルさがある。 安男が健次に預けたスーツケースには麻薬の包みと彼のミイラ化した右腕が入っていた。その腕には「Help Me」と書かれてある。 過去にしがみつき、そこから抜け出せないまま自滅の途をいくしかできない安男に対する憤りか、抜け出せないでいる自分自身に対する怒りからか、健次は感情をぶちまけるように麻薬の包みを破り捨てトイレに流す。 そしてバイクを置き去りにして、健次はユリとともに歩き出す 訣別と新たな出発。 そして物語は「サッドヴァケイション」へと続く。安男に代わりユリの面倒をみていた健次は、ある日、父と自分を捨て別の男性と結婚していた母を偶然見つけ、母に会いに行く……。 狂気のように暴力が吹き出た夏のある一日。 Helplessな時間。 しかし、その映像は決して重苦しく湿ったものではない。 むしろ乾いた、どこか突き抜けた明るささえ感じられる。 北九州3部作に共通して流れるトーンだ。 九州という風土だろうか。 本州とは違う乾いた空気と、メロディのような方言と、貧しさと閉塞感と、地平線がみえる荒涼とした大地と…拒絶し、呪いながらも、どうしようもなく愛惜のある場所でもあるのだろう。青山真治のDNAに紛れもなく刻みこまれている「土着」を感じる。 北九州三部作で青山真治の作品に出会い、確実に青山真治は私の中に入り込んだ監督となった。 映像をみていてそのカメラワークが素晴らしいなといつも思う。カメラが捉える構図一つ一つが気を衒った風でなく、ある時はとても大胆に、そしてオーソドックスに撮っている。どこか乾いたドキュメンタリーなテイスト。彼の作品に漂う重さと軽やかさは案外とそのカメラワークにあるのかしらと、撮影監督をみると田村正毅。 田村正毅は本作以後ずっと青山作品の撮影を手掛けている。 「かつての仕事が本当に嫌で休んでいた時期があります。『Helpless』(96年、青山真治監督作品)以降、そういうのがない人たちと出会って、また楽しくなったわけですね」<「すばる」2002年1月号「今月のひと」インタビューより> プロフィールをみると、彼は小川プロに入り「三里塚」からカメランとしてスタートしている。彼もまた三里塚に入り込んで農民たちの闘いを、農民として生きる彼らの姿をカメラにとり続けたのだろう。 小川プロの「三里塚」のシリーズは学生時代に何度も観た。農民の姿が、彼らの思いがつたわる、作品としても素晴らしいものだと思う。しかし学生時代のこと。当時の私は撮影スタッフよりも千葉県成田の三里塚に生きる農民たちの思いに自分を重ね合わせるだけで精一杯だった。 振り返れば「三里塚」といい、土本典昭の「水俣」といい、若いときにいい作品に出会っていたなと思う。 そして「すばる」のインタビューの中で田村は撮影について語っている。 「恥ずかしいほど超オーソドックスな撮り方ですね(笑)。~中略~キャメラのレンズからほんのちょっとずらしたところを見てもらうんです。それでほとんど観客と目を合わせるような目線になります。レンズの真ん中を見ると、まさにドンときてね、これはちょっと見てる方がにらまれたような違和感を覚える。だからほんの少しずらす。そのことから来る何かを狙う。観客も映画の中の人物の相手になったような錯覚を得られるかな……という感じですね。オーソドックスな手法は何も悪いもんじゃなくて、それはほとんど正しいんです。ただ使い方を違えると、今度は強制的なものになったりするから気をつけないといけない。」 青山真治の、北九州の風土が育んだであろう乾いた明るさと、田村正毅のドキュメンタリーなカメラアイ。 俺たちの時代を見事に描いた、青山真治の瑞々しい監督デビュー作だ。 監督: 青山真治 プロデューサー: 仙頭武則/小林広司 脚本: 青山真治 撮影: 田村正毅 美術: 磯見俊裕 編集: 掛須秀一 音楽: 青山真治 /山田功 助監督: 清末裕之/古厩智之 出演: 浅野忠信/光石研/松村安男/辻香緒里/斉藤陽一郎/伊佐山ひろ子/永澤俊矢
by mchouette
| 2008-05-29 00:00
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