by mChouette 検索
カテゴリ
全体 ■映画 =映画:あ行 =映画:か行 =映画:さ行 =映画:た行 =映画:な行 =映画:は行 =映画:ま~わ行 ■映画・雑記 ■ドラマ ■展覧会・コンサート ■一冊の本 ■徒然なるままに… ■美味しいもの ■アウトドア・旅 ■勝手にバトン ■ご挨拶・お知らせ 未分類 最新の記事
その他のジャンル
|
I'M NOT THERE
2007年8/アメリカ/136分/PG-12 私が音楽に興味を持ち出した頃、ベトナム戦争を背景に巷では反戦フォークが溢れ、ジョン・バエズが、ボブ・ディランが、ピーター・ポール・アンド・マリーたちの歌をよく聞いていた。 「風に吹かれて」「時代は変わる」「ジョニーは戦場に行った」「悲惨な戦争」「勝利を我らに」………。 そしてディランは、既にして生ける伝説とかフォークの神様とか吟遊詩人とか言われていた。別段、ボブ・ディランのファンではないけれど、彼の歌もよく聞いていた。世代は違うけれど、同じ時代の空気を吸っていた。そういう意味では時代の感覚を共有できる世代ともいえるだろう。 冒頭に流れる「メンフィス・ブルース・アゲイン」 音楽と映像に、あの時代にタイムスリップしたような錯覚さえ覚える。 あの時代をデイランと共に駆け抜けた。 そんなちょっと熱い感覚で映画を観ていた。 映画は主に60年代のディランに焦点をあてて描かれている。 インタビューなどでディランが発言した数々の言葉や、詩、音楽が散りばめられていて、ディランを描いているのだけれど、同時に時代の心象風景をみているような感覚がある。 こうしてディランを振り返り、映像とともに彼の歌に触れると、若い時はに見えなかったディランの姿が見えてきたように思う。彼の一つの側面しか見ていなかったなって思うし、当時は理解できなかった彼もいまだから分かる。私的にはディランを再評価。ディランってやはり凄い奴なんだって素直に思える。ディランの歌はそれほど好きではなかったけれど、こうして映像と重ねて今、彼の歌をあらためて聞くと、魂に響いてくるような……(私も齢を重ねてきたんだろうか) へインズ監督は「ベルベッド・ゴールドマイン」で、グラムロックやそこに生きたミュージシャンたちを熱く語り、1960年代~70年代の時代そのものに肉薄していた。 そんなへインズ監督の、時代を切り込んだ映像感覚は本作でもさすがと思った。 ボブ・ディランの中に凝縮された1960年から70年代。強いアメリカが、ベトナム戦争の泥沼化の中で病んでいった過程が、ディランの人生に色濃く投影されている。時代の流れの中で変遷していったボブ・ディランを語るということは、つまりは、ディランが駆け抜けた時代を語るということに他ならないだろうし、6人の分身たちはディラン像であると共に、その時代の若者像とも重なるものがある。 これが本作を6人の役者によって描いた理由の一つではないかしら。 「ファシストを殺すマシン」と書いたギターケースをもって列車に飛び乗った11歳の黒人少年ウディ・ガスリー。物語を左右する主要な導入部をかっちりと押さえ、この物語を印象づけたガスリーを演じたマーカス・カール・フランクリンの存在感は、案外と6人の中では大きいと思う。 歌で社会を鋭く批判するクリスチャン・ベイル演じるジャックやジョン牧師。 フォークに限界を感じたケイト・ブランシェット演じるジュードの挫折感などは、あの時代を若者たちが味わった挫折感そのものだし、ジュードが舞台で拳銃をぶっ放し強烈な電子音でロックを演奏したくなるのもよく分かる。 1962年イギリス・リヴァプールからビートルズがレコードデビュー。 時代はフォークからロックへ… それと共に、若者たちのカウンター・カルチャーはさらに激化していった。 ファンから「裏切り者」と野次られ、マスコミからは「抵抗していた昨日のあなたは?」と質問され…… 俺は「THEREそこ」にはもういないんだ! そんな苛立ちが聞えてきそうな気がする。 そしてベン・ウィショー(可愛かった。これから注目!)は、詩人アルチュール・ランボーを名乗り、ディランのバックグラウンドを滔々と語る。 <思い出した。そういえば、ランボーぶったディランの発言なんか気に食わなかったんだ、当時の私は…。そう考えれば、ゴダールも然り。彼らとは年齢は随分と違うけど私の世代なんかも、ランボーの詩ににいかれていた世代でもある。> それと平行して映画スターとしての脚光を浴びる裏側の私生活も描かれている。 ヒース・レジャー演じるロビー。 蜜月の恋人たち。そして結婚、家庭がありながら恋人と暮らす二重生活、そして離婚、白塗りの化粧して歌うロビー、バイク事故…それから隠遁生活。開拓時代のリチャード・ギア演じるビリーへとつながっていく。 ロビーは苦悩するディラン。 ちょっとヒース自身と重ねてみてしまう。 ……そして、テレビではベトナム戦争のニュースが流れている。 予告編ではヒースの映像はほんのワンシーンが少しだけだったけど、クリスチャンやケイトと重なる時間でもあるから、彼の時間は案外と多い。シャーロット・ゲンスブール(ヒースより8歳年上!)演じるクレアとの恋愛から結婚、破局に至る過程がじっくり描かれている。本作でも今までと違うヒースがいて、彼の幅広い柔軟な演技に、やはり早すぎる死が惜しまれる。 映画を観る前はケイト・ブランシェットがディランにそっくりで、そんなケイトの演技なども興味があったけれど、それぞれにその時代のディランなる人物の内面の軌跡を描いており、別段ディランのそっくりさんである必要もないと言えばないだろけれど、ケイト演じたディランが一番知られているディランとして、彼を髣髴とさせるディランの登場も映像的には必要だったのだろう。女性ということを感じさせないほどケイトはディランだった。そういう意味ではクリスチャン・ベイルなどはストイックなディランのオーラが漂っていて、ちょっと今までのベイルと違うなって思った。 しかし、本作はケイトに限らず前述したマーカス・カール・フランクリンといい、クリスチャン・ベイル、ベン・ウィショー、ヒース・レジャー、リチャード・ギア、それぞれ魅力的だったといえる。 そしてそんなケイトと絡むのが現在公開されている映画「ファクトリー・ガール」でアンディ・ウォーホルのミューズとして60年代ポップ・カルチャーのアイコンとなりながら、ドラッグに蝕まれた末28歳でその生涯を閉じたイーディ・セジウィックを思わせるココなる女性が登場するが、演じていたのはミシェル・ウィリアムズ。娘はクレジットで名前みつけて何処に?って思っていたようだけれど、観終わってからパンフみて分かった。彼女って全く分からなかった。 私には、過ぎ去りし我が青春の熱かった時代なども思い出し、結構満足し面白かったのだけれど、一緒に観にいった娘は、映像は追えるけれど内容的には今ひとつピンと来なかったようで、とりわけリチャード・ギアのビリーの存在に至っては「よく分からない」ようだった。あの時代にあってディランが抱えていた問題、それを語る彼の言葉など、娘にはピンとこなかったようだ。 説明してあげたら「そういわれると分かるけど……」って。 親子ほどの世代の差となるとその時代を背景にした感覚とか、問題意識とか、言葉に対する感覚も違うのかもしれない。 この映画、錚々たる役者が出演しているけれど、アメリカやヨーロッパではもっと受け皿は広いと思うけれど、日本では案外と世代限定、ディラン・ファン限定のマニアックな作品かもしれない。 でも、ここに登場する役者たちは、みんな魅力的な匂いを放ちながら、それぞれの時間のディランを演じていた。ディランの自伝として説明的な作品に仕上げると、ここまで魅力的には仕上がらなかっただろうなって思う。繰り返しみると、とても味のある作品だと思う。 監督: トッド・ヘインズ 製作: クリスティーン・ヴァション/ジェームズ・D・スターン/ジョン・スロス/ジョン・ゴールドウィン 製作総指揮: ジョン・ウェルズ/スティーヴン・ソダーバーグ/エイミー・J・カウフマン/ヘンガメ・パナヒ/フィリップ・エルウェイ/アンドレアス・グロッシュ/ダグラス・E・ハンセン/ウェンディ・ジャフェット 原案: トッド・ヘインズ 脚本: トッド・ヘインズ/オーレン・ムーヴァーマン 撮影: エドワード・ラックマン プロダクションデザイン: ジュディ・ベッカー 衣装デザイン: ジョン・ダン 編集: ジェイ・ラビノウィッツ 音楽監修: ランドール・ポスター/ジム・ダンバー 出演: クリスチャン・ベイル ケイト・ブランシェット マーカス・カール・フランクリン リチャード・ギア ヒース・レジャー ベン・ウィショー ジュリアン・ムーア シャルロット・ゲンズブール ミシェル・ウィリアムズ デヴィッド・クロス ブルース・グリーンウッド
by mchouette
| 2008-05-01 00:00
| ■映画
|
ファン申請 |
||