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MY BLUEBERRY NIGHTS
2007年/香港・中国・フランス/95分 at:TOHOシネマズ梅田 本作はウォン・カーウァイ監督にとっては、初めて英語圏の役者だけを起用しての英語作品。そして、語り部というか主人公が女性というのも初めてではないかしら。 歌手のノラ・ジョーンズを主役に起用ということでも話題を呼んでいる作品。ノラ・ジョーンズはデビュー・アルバムを友人から教えてもらい、そのハスキーボイスに年齢を聞いて驚いた。その友人も彼女のコンサートに行き、その若さに驚いたそうだが、早速にCDを買った。その後このアルバムがグラミー8部門受賞の快挙。彼女のコンサートもジーンズに白のワイシャツといった飾らない自然体がいい。本作もそんなノラ・ジョーンズのピュアなナチュラルさをカ-ウァイは求めたのだろう。 父親がインド人の彼女。本作で共演しのイスラエル人を父にもつナタリー・ポートマンとは通じる雰囲気を持っているなって前から思っていたけれど、今回の共演では、二人で車でラスベガスまで旅するシーンなどは姉妹のような雰囲気で、ナタリー・ポートマン演じるギャンブラー、レスリーが「一人でベガスまでは淋しいわ」といってノラ演じるエリザベスをベガス行きに引きずり込むのも、相通じる二人という印象をもつ。 ベガスへ向うシーン。夜の時間の中で、エリザベスに別れや涙があったけれど、レスリーとの出会いから、時間は人工のけばけばしい明るさから、朝の陽光のなかへと彼女を連れ出す。「ブエノスアイレス」でトニー・レオンがチャン・チェンとの出会いから、彼を取り巻く世界は、鬱屈した夜の闇から、光が差し込む映像に変わり始めたように……。内面世界と重ね合わせた闇と光のこんな使い方。「ブエノスアイレス」と重なってしまう。 ウォン・カーウァイはデビュー作から一貫して彼が描くテーマは「愛の喪失感と彷徨」 失って気づく愛の存在、取り戻せない愛に苦悶する、そんな愛を失ったものの悲しみや痛みといった湿り気のある感情の襞を、ドライなタッチと嘗め尽くすような繊細さで、時には切々と、時には軽妙洒脱に描いてきた。そして映像の隅々、役者の表情や指先にまで、愛を求める息遣いがいきわたっているウォン・カーウァイの世界。そんなウォン・カーウァイ作品に流れる切なさや痛みそして優しさに、生理を刺激されたくて彼の作品を観る。 今回も、そんな愛に彷徨う者たちの物語。 ニューヨークに暮らすエリザベスは恋人に裏切られ失恋の痛手にあった。そんな彼女を癒してくれるのが、カフェのオーナー、ジェレミーが焼くブルーベリー・パイと彼と交わす言葉。 ジェレミーもまた愛に傷ついた男なんだろう。ジェレミーの店は、愛を失った者たちが愛の思い出の「鍵」を捨てにくる場所でもあった。……「鍵」を捨てたら扉は永遠に開けられない……ジェレミーは受取った鍵を、その思い出と共にガラス瓶に入れ店に置いている。 別れた恋人への思いを吹っ切るためにエリザベスは旅に出る。そして旅の途中で彼女が出会う者たち。今も自分の元を去った妻を思い続け酒に溺れる日々を暮らすアーニー。アーニーの愛の大きさと深さに束縛を覚え、その愛から逃れた女スー・リン。アーニーが死んで初めて失った愛の大きさに気づくスー。ギャンブラーのレスリーは、ギャンブラーだった父の重圧から逃れたいともがいてる。父を愛し反撥し父から逃げるレスリー。彼女が旅の途中で出会った者たちは、自分から愛を遠ざけ、そして失って初めてその愛を思い知り、断ち切られた絆に涙する。そんな彼等との出会いを通して、エリザベスは自分の中に育っている愛に気づく……といった物語。 今までのカーウァイ作品にも通じるテーマ。ちょっと「楽園の瑕」(1994)を思い出したりなんかする。ジュード・ロウはさしずめレスリー・チャンか?(違うぞ!) ウォン・カーウァイといえば撮影はクリストファー・ドイルというほど、カーウァイ作品のドライな手触りでありながらセクシャルで湿った危うさ、浮遊感を漂わせる映像は、ドイルの力といわれるほどだが、カーウァイとドイルの感性が呼応しあってウォン・カーウァイ作品の魅力であり、独自の映像美の世界があった。クリストファー・ドイルもオーストラリア人だけれど台湾や中国といったアジアを舞台にした撮影がなぜか多い人。 今回の撮影はドイルに代わりダリウス・コンジが担当しているけれど、「なんでやろう?」ってちょっと勘ぐってみたくもなるけれど、今までは湿度を感じさせる風土のアジアやアルゼンチンを舞台にしていたけれど、今回はアメリカというドライな風土だからだろうか。撮影監督は代わっても今までのカーウァイ作品に通じる映像センスを随所に感じた。特に風景を描いた映像などは「楽園の瑕」のあの素晴らしい映像を思い起こさせるような……。 しかし、しかし、う~ん……。 英語劇、言語表現の違いだろうか。カーウァイの湿り気とドライタッチが絡んだ絶妙な情感はアジアの役者の湿度と共鳴して生み出されたものだなぁって、つくづく思った。 それにこんなロードムーヴィー、「楽園の瑕」を思い起こすような設定。ライ・クーダーの曲のせいだろうか、ヴィム・ベンダース?って思えるような雰囲気も感じたり…… そして台詞とか役者の芝居がかった演技に、恥ずかしくなってしまうクサさを覚えてしまう。即興で役者に演技させることで有名なカーウァイ。言葉の微妙な綾や、役者の感情表現と監督の感覚とが上手く噛みあわなかったのだろうか。レイチェル・ワイズ演じたスー・リン。彼女もとてもいい演技をしていたんだけれど、この役のやさぐれた雰囲気にあうのはマギー・チャンだよなって目でつい見てしまう。そんな中でカフェのオーナー、ジェレミーを演じたジュード・ロウが案外と自然体で好感を持てて、案外と彼ノラ・ジョーンズを上手くフォローしてたんではないかしら。 本作を観ていると、ファッション雑誌が浮かんできて、こんな雑誌に掲載されているような物語だわと思ってしまった。物語のエピソードは、次の展開や台詞が読め、今までの焼き直しか、使い古された印象さえ持った。脚本家出身だけにカーウァイ作品の台詞には、暗喩や比喩表現や、役者の表情やかもし出す情感とも絡め、その巧みな表現に彼の彼独自のキラリと光るセンスがあったのに……。 表層的と感じたこの感覚…ノラ・ジョーンズというナチュラルな素材を生かして、軽やかさを目指したととるべきか…。深みが感じられなかったのは95分という作品時間かしらと、「ブエノスアイレス」の作品時間をみると96分だった! トニー・レオンとレスリー・チャン、二人の濃密で暴力的なまでの愛と痛みと閉塞感、そしてチャン・チェンが差出したレコーダーに悲しみを吐き出し、滝の水しぶきを全身に浴び、袋小路の愛の彷徨から抜け出たトニー・レオン。二人の男の濃密な時間を、彼はたった96分という時間で描き出している。 他の作品時間を調べてみると、カーウァイは「2046」以外の全ての作品を100分以内で描いている。だからこそ凝縮された濃密な緊張感が生まれるのだろう。改めて彼の才能を思う。 ·1988年 いますぐ抱きしめたい(旺角卡門)(監督/脚本) 96分 カーウァイが語るには、初めての英語劇でアメリカで撮影するにあたり、興味ある監督や映画にオマージュを捧げたいという気持ちもあったそうだが……。映像は素晴らしかっただけに、英語劇という新たな境地で、彼の光るセンスに魅せられたかった本作だった。ちなみにネバダを走るジョーンズとポートマンは「テルマ&ルイーズ」だって……この作品にはゲンナリさせられて劇場を後にした私としては複雑。 どう重ね合わせればいいんだか……。 それと、ブルーベリー・パイ…本作のキーともなるブルーベリー・パイを食べるシーンはもっと美味しくほおばって欲しかった。パイナップルの缶詰を片っ端から平らげる金城君とまではいかずとも…彼の場合は失恋のやけ食いだけど。しかも金城君はパイナップルの缶詰が嫌いだったとか……。「花様年華」でマギー・チャンが黙々とステーキを食べるシーンなんかも思い出してしまった。「美味しいわ」と言うけれどフォークにはブルーベリーが一粒のっかってるだけ。一切れ切り取った後のパイをジュード・ロウが食べるとこも、なんだかね……。 クローズアップされたパイはソースもとろりと美味しそうだったのだけれども……。 監督: ウォン・カーウァイ 製作: ジャッキー・パン/ウォン・カーウァイ 原案: ウォン・カーウァイ 脚本: ローレンス・ブロック/ウォン・カーウァイ 撮影: ダリウス・コンジ プロダクションデザイン: ウィリアム・チャン 衣装デザイン: ウィリアム・チャン/シャロン・グローバーソン 編集: ウィリアム・チャン 音楽: ライ・クーダー 出演: ノラ・ジョーンズ (エリザベス) ジュード・ロウ (ジェレミー) デヴィッド・ストラザーン (アーニー) レイチェル・ワイズ (スー・リン) ナタリー・ポートマン(レスリー)
by mchouette
| 2008-04-03 00:00
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