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原作「素粒子Les Particules Elementaires 」から、
映画「素粒子Elementarteilchen」へ 2006年/ドイツ/113分 現代フランス文学を代表する作家であるミシェル・ウエルベック。彼の長編デビュー作にして最高傑作といわれる「素粒子」は、これまで現代社会で信じられてきた自由や平等、親子や男女の愛といった基本的な価値観をゆるがせる衝撃をヨーロッパ全土の与えた。男女の恋愛小説という形をとりながらも消費社会、クローン、セラピー、ヌーディスト村や親の不在といった題材を盛り込み、現代社会が抱える闇を独特のユーモアをもって描き出す。本作は1998年フランス最大の話題作となり、ヨーロッパからアジアまで30ヶ国で翻訳されるベストセラーとなるばかりでなく、ある種ヒステリーにも似た社会現象を巻き起こした。 映画「素粒子」はミシェル・ウエルベックのこの同名小説を、舞台をフランスからドイツに移し、ドイツ人スタッフ&キャストによって映画化された作品。 ※「素粒子」とは? ただ、一度では曖昧な掴みしかできませんでした。 映画をみることで、原作を改めてイメージできました。 映画が描かなかった点も振り返りながら、もう一度原作を読み返しています。 原作の面白さがさらに見えてきました。 私にとっては、原作のための映画だったのでしょうか… 私が本書を買ったのは、センセーショナルな話題とは無関係に、翻訳者が野崎歓さんだったことと、「素粒子」というタイトルに引かれたからでした。 原作者ミシェル・ウエルベックの視点は… ミシェル・ウエルベックは前作「闘争領域の拡大」で、「現代ヨーロッパ社会の高度経済資本主義を支えているのは個人の際限のない欲望とそれを煽る社会のメカニズムであると捉え、その結果、あらゆる領域において強者と弱者、勝者と敗者を生み、その不均衡は経済的な面だけではなく、セクシャリティという私的な領域にまで増大し、あらゆる快楽を貪る強者が存在する一方で、性愛に関してもいかなる満足も得られないまま、一人惨めさを噛締める傷ついた者たちもいる」と語っています。 作家の視点は現代社会の病巣と矛盾に向けられています。それは彼自身もまたその矛盾の中に身を置き、そこから逃れる術を持たないからに他ならないということでしょう。彼の人生は「素粒子」のブルーノと重なります。 そして本作「素粒子」では… ウエルベックは、母親から養育放棄された二人の異父兄弟を登場させ、現代社会の価値観や社会通念をばっさりと斬り捨てていきながら、現代社会の病巣の中で生きる彼らの姿を描きだすことで、その病巣を抉りだしています。さらに彼は、この兄弟の物語を、人類の手でクローン操作によって生み出された新人類に、旧人類の20世紀を検証・総括するという形で語らせています。人類は滅びる以外にこの絶望から逃れるすべはなく、クローン操作によって複製可能な新たな人種を人間の手で生み出すことで歴史は存続するという未来図まで提示しています。残酷な現実描写と人類にとって驚愕の未来。こんな内容もセンセーショナルを巻き起こした一つでしょう。 物語の中盤のシーン… 母親が住むヒッピーたちの家。そこにはかつては高らかに性の解放を叫びフリーセックスを実践してきた彼らの老いた姿があった。 ミシェル・ウエルベックが、こんな形でばっさりと切り捨てるヒッピー・ムーヴメントの、その落とし子ともいえるブルーノとミヒャエルの異父兄弟。性に奔放に生きた母親から養育拒否され、それぞれ父方の祖母に育てられ、まったく違う性格に育っていった…… 年老いて、死の床につく母親の枕元で兄のブルーノは母親への恨みつらみの限りをぶちまける。 そんな兄にミヒャエルは「彼女は若くありたかったのさ。子供がいると自分は旧世代だと思い出させられる。そのことに非はないよ」という。 こんな二人のやり取りから、兄のブルーノは時代が生み出したエゴと個人主義の矛盾の真っ只中で生き、人生を狂わされ、破壊されていく存在、社会の敗者を体現するものとして描かれ、一方、弟のミヒャエルは澄んだ目でこの社会と人間を見つめる存在として描かれていることが見えてくる。 「矛盾と絶望に充ちた現代社会に生きる兄」と「未来をみつめ模索する弟」 全く異なる二人は明らかに作家自身であり、本作のキーワードといえるでしょう。 兄・ブルーノ 結婚し子供もいる高校の国語の教師をしている。文学青年の作家崩れ。 学生時代は残忍ないじめに合い、学校が休みになると母親は自分のいるヒッピーたちの家に彼を連れて行った。母親の奔放な性生活を目の当たりに見て育った彼は、常に満たされない愛の欲求を強烈な性的欲望にすりかえ、頭の中はセックスしかないような男。夢想と現実の屈辱からくるフラストレーションが、精神療養施設で精神セラピー受けるまでに彼を追い詰める。ヒッピー達が集うキャンプ場や風俗クラブへ出向くブルーノ。社会の敗者として描かれ、追い求める夢はいつも絶たれ、その欲求不満のはけ口をセックスに求める一人の男の姿を、映画では時にはグロテスクに、時にはデフォルメさせ、時には滑稽に、不様なまでに描いている。 ブルーノが見せる戸惑いの表情には、人生から疎外された男の悲哀と絶望がにじみ出ている。 ブルーノを演じるモーリッツ・ブライプトロイは本作でベルリン国際映画祭で主演男優賞を受賞している。彼の日本公開作品はすべて観てました。別にファンではないんですけど。幅広い役のできる俳優だと思います。 弟・ミヒャエル 数学の天才的頭脳をもち、ノーベル賞レベルの生物学者である彼は、経済的・社会的に勝者といえる。しかし、彼は、母親も含め周囲の人間との関わりをもたないことで現代社会の病巣から自己の純潔を守る。映画ではここまでは描いていませんでしたが、「人類は消滅しなければならない。そして人類は新しい種族を生み出さねばならない」というラディカルな思想に立ち、分子生物学者としてクローン技術を応用した人類の進化を模索する道に没頭する。そして、彼の業績が後にクローン操作による新しい人種の創出の礎となる。 クリスティアン・ウルメン:俳優だけでなく、ドイツ国内ではコラム書いたり司会したりと幅広く活躍されているようです。2003年から映画俳優としても活躍。2004年にはバイエルン映画賞(主演男優賞)を受賞。 兄ブルーノがようやくめぐり合う女性クリスチアーネ。ブルーノとセックス至上主義的な生活を送っているが、実は彼女もまた不毛な社会で愛を求める孤独な女性。腰の病で下半身不随となり、ブルーンとの愛に絶望を感じ飛び降り自殺をする。 マルティナ・ゲデック:「マーサの幸せレシピ」で美人シェフに、「善き人のためのソナタ」では主人公の脚本家の恋人役の女優を演じていました。 弟ミヒャエルを一途に思い続ける幼馴染アナベル。末期の子宮がんに侵されている。 フランカ・ポテンテ:「ラン・ローラ・ラン」では赤毛のローラを演じてました。監督のトム・ティクヴァとは当時、恋人関係にあったんですね。彼女と別れてからティクヴァさん、しばらく落ち込んでいたそうです。本作とは無関係な話題ですが… 兄ブルーノは、追い求めていたものは「セックス」ではなく「愛」であることにようやく辿り着く。しかし愛する者を失った悲しみと絶望は彼を狂気に走らせる。亡くなった恋人の幻影と共に生きることで彼の魂は救われたものの、その一生を精神病院で過ごす。 そして、弟ミヒャエルも幼馴染との愛に自ら心の扉を開けるが、彼女はすでに末期の子宮がんに侵され死期が目前にあった。映画では彼の研究は45年後にノーベル賞を受賞するとありますが、原作では愛する者の死を看取った彼はその後消息を絶つことで原作から姿を消します。 映画は… 人類の終焉しか道は残されていないという原作者の意思を受けとめながらも、ラストで、そんな兄弟達につかの間の安らぎの時間を与えています。 ミヒャエルと恋人はブルーノを海に誘う。クリスチアーネの幻も一緒だ。ブルーノは弟に向って「ありがとう」と言う。そんな兄を優しく受け止めるミヒャエル。愛を知った兄弟は人としての優しさに触れる。兄弟を包む愛と優しさが、絶望の中の一筋の光でした。 最後に…… 映画と原作は基本的には別物として切り離して見るべきでしょうが、本作に関しては、原作で描かれているテーマ、作家の視点といったものを押さえた上で鑑賞した方が、映画が訴えているメッセージを確実に受け止めることができるのではないだろうかという気がしました……。 私自身、原作を読み、映画を観て、もう一度原作と映画を振り返り、あらためて原作が描いている意味を受け止めることができ、かつ映画を反芻できたところがあったからかもしれませんが…… 映画だけ観ると、恐らくは、慢性的に性的欲求不満を抱えた中年男の「セックスと愛の物語」で終わるのではないだろうか。弟ミヒャエルの存在が明確に見えてこないのではないだろうか…そんな気がしました。 人間の進化の可能性を探ろうとするミヒャエルの考えが映画の中で若干でも語られていれば、現代社会に対する作家の視点が見え、映画のテーマがもう少し明確に伝わったのでは、という気がするのですが…… <more>で原作・プロローグとエピローグの一部を転記しております。興味ありましたらお読みください。 監督:オスカー・レーラー 映画では兄ブルーノに焦点をあてて描いてますが、原作では、新人類の創設の礎となった弟ミヒャエルを軸に物語りは語られています。 原作プロローグの書き出しは…… 「本書は何よりもまず一人の男の物語である。男は人生の大部分を、20世紀後半の西欧で生きた。ほとんどいつも孤独だったが、ときには他の男たちと関係をもつこともあった。男の生きた時代は不幸で、混乱した時代だった。男を生んだ国はゆっくりと、しかしあらがいがたく中貧困の経済レベルに転落していった。彼の世代の人間は、たえず貧困に脅かされ、そのうえ孤独と苦々しさを抱えて人生を過ごさねばならなかった。恋だの優しさだの人類愛だのといった感情はすでにおおかた消えうせていた。同時代人たちは互いの関係においてたいていは無関心、さらには冷酷さを示していた。」 そしてエピローグはこんな文章で締めくくられている。 「歴史は存在する。それは厳として動かしがたく、その支配を免れることはできない。しかし厳密に歴史学的なレベルを超えて、本書の究極の野心は、われわれを造りだした幸薄い、しかし勇気ある種族に敬意を表することである。」 翻訳者・野崎歓氏は本書あとがきで…… 「家族制度を解体させ性的自由化を推し進めたもろもろの解放運動やカウンター・カルチャー、同時にまたその潮流を利用する形で「エロチック=広告社会」を到来させた消費万能文明。そうした一切を貫通するイデオロギーとしてセックス至上主義を正面から問いただし、われわれがフラストレーションのみを抱えた<素粒子>状態で漂っているのはなぜなのかと問うウェリベックの叫びには、無防備なまでの真摯さがこもっている。」と語っている。
by mchouette
| 2007-06-15 00:00
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