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原題:L'HOMME BLESSE 1983年/フランス/109分 私がこの映画を知ったのは、91年にエイズで亡くなったエルヴェ・ギベールの著書「ぼくを救ってくれなかった友へ」の中で、この映画の脚本でセザール賞の脚本賞を受賞したことが書いてあったことからだ。 そしてギベールと共同で脚本を書いたのが本作の監督であるパトリス・シェローである。 「ぼくの命を救ってくれなかった友へ」の中で、ギベールはエイズとの闘い、自身の赤裸々な姿、(ホモセクシャル、愛欲の日々、人間関係など)を一切合財を曝け出して綴っている。 映画以前に、私はその著書でエルヴェ・ギベールのヰタ・セクスアリスにすでに触れてしまっている。 映画を通して、私の視線は、脚本を書いたパトリス・シェローとエルヴェ・ギベール、彼等の意識の方に向かってしまう。 パトリス・シェローがこの脚本にとりかかったのは1975年。恐らく彼の中では、「愛」について語る映画を作りたいという気持ちがあったのだろう。独りよがりに陥らないためだろうか、僕の話を聞いてくれる相手がまず欲しかったと彼は語っている。その相手が当時、映画関係のジャーナリストであったエルヴェ・ギベールだった。そのギベールがシェローにインタビューした時、シェローに自分が書いた子供向けの大変美しい短編を見せたそうだ。当時、ものが書けて、自分の世界をもった書き手の発掘をしていたシェローは、ギベールに共同作業を持ちかけた。そして75年から2年間かけて、互いに話し合い、アイデアを絞り出したという。 ヰタ・セクスアリス 人はどこかで自らの性愛に目覚める時がある。 異なる性が互いを求める異性愛。種の継承として、あらゆる生物のDNAに本能として刻み込まれた愛だ。 人間にあっても、男と女の愛は自然の摂理として、社会的に認められた愛であり、人が成長する中で生れる自然の感情として認知されているものだ。 その中にあって、同性が同性に向う愛というものも存在する。 動物として種の保存・継承というラインからは外れた愛である。けれど抗い難い愛として存在することも事実だ。同一線上で語ることは難しいと思う。 映画の中でも同性愛の目覚めを描いたシーンがある。 フランソワ・オゾンは「ぼくを葬る」という作品の中で、子供の頃、教会の中で無邪気に遊んでいたその時に、突然遊び友達から頬に受けたキスに、自らの性愛を知ってしまう。その幻影をみた青年ロマンが幼い頃の瑞々しい自らの「ヰタ・セクスアリス」に涙するシーンがあった。 また20年間に及ぶカーボーイの同性愛を描いた「ブロークバック・マウンテン」でも、羊番として雇われたイニスとジャックが、山頂の寒さに思わず走ってしまった男同士のセックス。イニスはそれを否定しながらも、山を下りる別れの朝、胸を切り刻まれるように、思わず慟哭する。 ゲイにこだわり続けて映画を撮ったデレク・ジャーマンも、自らの性愛に対して無自覚であった彼が、どうしようもなく一人の青年に魅かれ、映画の中のアンリのように彼の姿を追い求める中で自らの性愛を自覚したと、そのエッセイで書いている。 パトリス・シェローにも、エルヴェ・ギベールにも、同性愛という自らの性愛に目覚めた瞬間というものがあったのだろう。そして自らを衝き動かすパッションも。 彼らが描こうとしたのは、ホモセクシャルの愛の物語ではなく、人を抗い難く衝き動かす、愛と呼ぶべき「パッション」の物語といっていいだろう。 愛の迷路に入り込んでしまった一人の青年アンリのヰタ・セクスアリスを描いた作品といえるだろう。彼の中に目ざめた愛と呼ぶべきパッションが、彼をどのように支配し、どのように彼を衝き動かし、そしてどのような形で自らの性のアイデンティティに目覚めるか……。 この作品は、青春の愛のほろ苦さを描くといった生易しいものではなく、愛というパッションの究極、アンリが辿りつく限界まで描こうとした作品だ。 シェローはこの共同の執筆作業について、「アイデアを絞り、13~14回書き直し、さらにプロダクションに持っていくまでに、脚本は何度も変更された」と語っている。そして「面白いのは、凝縮し、次第にできていく話が、確実に進歩していったこと」と語っている。 彼らが描いたのは、甘美とかロマンティシズムなどといった装飾を一切排除し、パッションに曝され神経をむき出しにした愛の正体だ。 誤解されるかもしれない表現になるが、ホモセクシャルである二人の青年だからこそ描きえた作品だと思うし、描くべき必然性を抱いていたのだろうと思う。 映画を観ていて、息が詰まるほどの切迫感と孤独と痛みが充満している。 そして、アンリのとる行動に、孤独に、焦燥感に、私自身と重なる思いを感じずにはおれない映画でもあった。 まわりも、そして自分すら見えなかった青春の時期、自分の中のパッションの正体も分からず、自分も他人も傷つけながら、ただ突っ走ることしか知らなかった時代。誰もがそんな時を持っていると思う。 そして、その傷みがまだ瘡蓋として残っているからだろう、だから傷つけあった あの頃の映画、音楽は忘れ難くいまも「ソコニイル」 ある地方都市の郊外に住む18歳のアンリ。彼は友だちもいず、自分が何をしたいのかもよく分からない、孤独で無気力な青年だ。アンリを演じているのはジャン=ユーグ・アングラード。ひ弱で繊細な青年が似合う。 アンリには、今までときめくということがなかったのだろう。それが彼を無気力にしていったのだろう。ときめく相手もいず、何にときめいていいのかすら分からず、ただ周囲から疎外感をもって生きてきたのだろう。トキメキを知らないということは、自らの性愛にすら目覚めていない青年ということだろう。 ある夏の夜、ヴァカンスに行く妹を見送りにいった駅で、アンリは一人の中年男性ジャンと唐突に出会う。野性的で、暴力的にアンリを支配しようとする言動に、アンリは一瞬にして魅かれてしまう。愛には支配と服従の魔力が秘められているものだ 「一目ぼれの暴力」とでも言おうか。愛に堕ちる瞬間というのは、往々にして暴力的なパッションを秘めている。暴力的であるからこそ魅せられる。 ジャンの服を着、ジャンを感じ、ジャンの姿を追い求め、夜の街を駆け走るアンリの姿は痛々しい。ジャン見つけては見失い、求めては拒まれる。 ジャンに対する信頼と疑惑。崇高さと愛欲。相反するものの間でアンリは揺れ動き、その孤独感、焦燥感、得体の知れない欲望は高まり、感情の渦が強くなっていく。 アンリの中に目覚めた愛のパッションは、次第に暴力性すら帯びてくる。 ジャンを捉えることができないアンリは、夜の駅で一人の若者と快楽を分かち合う。 愛に囚われた者の孤独と痛みが、アンリを演じるジャン=ユーグ・アングラードから伝わってくる。 ジャン=ユーグ・アングラードは本作が映画デビュー作だ。シェローが発掘した俳優といえる。彼は本作でセザール賞「期待の若手俳優」にノミネートされ、注目を浴びる。以後、「サブウェイ」「ベティ・ブルー」「ニキータ」「王妃マルゴ」など俳優として着実に成長していっている。 人は愛のパッションに衝き動かされて、狂気に陥ってしまうものなのだろう。愛するものを求め、欲し、鎮まることを知らない。 ジャンに向うアンリの愛もまた、そのパッションに衝き動かされ、その限界まで行く。 アンリが見つけたのは睡眠薬で死んだように眠っている裸のジャンだ。 アンリはゆっくり服を脱ぎ、うつぶせに寝ているジャンの背中を愛撫する。突然、アンリはジャンの身体を仰向けにし、狂おしく、感情のほとばしるまま、その肉体を貪るように愛する。 そしてジャンが欲しいという高まる感情のままに、彼の首を絞めるアンリ。ストップモーションかと思うくらいに、空(くう)を見つめるアンリ。じっと動かない。アンリの眼からすーっと涙が流れる。 このシーンは鳥肌が立つほどの凄みがあった。 そして、ゆっくりとベッドから下りたアンリはサイドテーブルの飲み物を飲み干し、静かにジャンの横にわが身を横たえる。愛おしくジャンを見つめるアンリ。その顔は安らかだった。 クレジットが流れる間、しばらくは放心状態に陥ったことを覚えている。 人は愛を経験する中で、自らの存在を認識していく。 アンリもまた、愛のパッションが狂気にまで高まり、その究極の中で、ようやく辿りついた自らの性のアイデンティティ…… すさまじさを感じる作品だ。見終わった後は、なぜか透明感すら感じた。 本作は1983年制作の映画だが、日本公開は10年後の1993年である。 本作は1983年セザール賞の脚本賞を受賞し、カンヌ映画祭に正式出品された。 本作のタイトルはエルヴェ・ギベールがとても強く印象を受けた画家ギュスターヴ・クールベの絵画「傷ついた男の肖像」からつけられたそうだ。 監督:パトリス・シェロー 映画のパンフに掲載されているストーリーの転記ですが掲載しました。 1982年、ある地方都市の郊外、18歳の少年アンリ。 彼には友人がいない。むしろ孤独で、家庭でも居心地が悪い。昔から楽器を演奏するのを夢見ているが、いつも何の楽器がいいのか分からず、読めもしない楽譜をいくつか買っている。 特別に暑苦しい夏、アンリ一家はヴァカンスに出掛ける妹を駅まで見送りにいく。 アンリはそこで執拗な男の視線に気がついた。年は50歳前後、やや太り気味で頭髪は薄く、オーバーにくるまっている。アンリは動揺し、ホームに出る。すると男はしつこく、しかもさり気なく彼を追おうとする。アンリは本能的に男を捲こうととして訳も分からないままトイレに入る。彼は通路の突き当たりで、ある男が個室のドアを押さえ、タイルの床に倒れこんだ男に乱暴している。先ほどアンリとすれ違って言葉を交わしたその男は、突然アンリに襲い掛かる。 アンリは男を見たとたん、軽い病気にかかったように、体中が震え鳥肌が立つ。アンリは逃げようとするが、男(ジャン)は彼を抱擁し、狡猾にも倒れた男を殴るように強要して、ポケットの中をさらわせる。脅されたアンリが無数の小銭をあちこちにばら撒いて呆然としている間に、ジャンは去る。 アンリは一瞬のうちにこの暴力的な激しい男に強く魅かれる。 数日後、彼が再び駅で人々を眺めていると、太った男(ボスマン)がまた大きなオーバーを着て彼の後ろにいる。 そしてアンリはジャンとボスマンが話をしているのを見る。彼らは知り合いなのだ、と革新する。アンリの頭にはジャンを確かめたいということしかない。ならば、ジャンに会うためには、自分を付け回すボスマンに近づけばよい。 ジャンは何者だろう?彼をしる事はできないのか?もっとも、知らなくてはならないような重要なことがあるのか?仕事は?警察の垂れ込み屋かもしれない。どうでもいい。彼は誰かを裏切りながらずっとここにいるだろう。そしてある夜ジャンと再会する。アンリは戻ることのできない地獄へ堕ちる道に足を踏み入れた。 ジャンは自分を見せるかと思うと同時に拒んだり、掴まえどころがない。アンリは彼の行くいたるところについていき、付きまとっては見失う。また見つけては見失う。繰り返される不在と、息詰まる捜索。 二人はジャンが同居している女。エリザベトの家にいく。ジャンは一人満足気に彼女の前に、気儘な顔を見せる。3人で雑魚寝した翌日ジャンは態度を変え、横柄でからかうようなつれない素振りでアンリをはねつける。シーツが落ちて初めて体があらわになっても気にせず、アンリに恐怖や憎しみ、これから時分がやらねばならないことなど、恐ろしいことを話す。「老人を狙え。あとをつけてすぐに行ってやる」ジャンはアンリが嫌な思いもへんなこともさせられる間もなく、何か起こる前に助けに来ると約束した。 アンリはジャンがついてくることを疑わず。駅で近づいてきたせっかちな客と車に乗る。男とホテルに入ったアンリは、ジャンへの信頼と疑念の二つの矛盾した思いと恐怖に襲われるが、ジャンはやってこない。彼はまた消えてしまった。 少年の混沌とした行動。アンリは魂に、秘められた奥底からジャンを求めている。アンリは彼を選び、彼の赴くところなら、どこまでもついて行こうと決心した。 アンリは彼のいそうな場所をぶらぶらと彷徨い歩く。ためらいと攻撃の繰り返し。空しく広い通路を横切る時の幸福感を伴う興奮、夜と昼の、空腹と吐き気の、駅に行き、エリザベトの家に戻り、方々駆け回る自分について回るボスマンの涙ぐましい追跡を逃れる。 アンリは息も絶え絶えに彷徨いながら、愛と優しさを強く求めている。 彼は少しずつ今までの世界から離れていく。彼はジャンの服を着た。服と一緒にジャンを見つける力を見につけ、肌にジャンを感じながら、彼は頭を冷やそうと努めながら方々を探す。無心に、尊大に、彼は駅をうろつく。 ある夜、一人の少年と出会い話しかける。彼らは旅行客に悩まされながら地下の通路でキスを交わし、子供のように公然と僅かな金と少しの快感を与え合う。 アンリは、ジャンに何度か会ううちに、次第に攻撃的になっていく。彼は今やジャンの何かを欲しがっている。それは、抱擁、乱暴、取っ組み合い、別々の行動。彼は暴力的な欲望に取り付かれてしまっている。 自分の持つ青春の優しさや繊細さは、既に消え去ろうとしているアンリ。そしてまたジャンは彼から姿を消してしまった。アンリは狂ったようにジャンを捜し求める……ラストのシーンへ繫がる。
by mchouette
| 2007-06-07 12:00
| ■映画
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