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カオス(混沌)の世界 荒涼とした大地に根をはり生きるシチリアの民 逞しさと哀しみが混在する 1984年/イタリア/187分 タヴィアーニ兄弟の集大成ともいえる作品で、叙情的な映像の美しさと音が素晴らしい。 音と映像が見事に呼応しあってカオス・シチリアの寓話の世界が広がっている。 故・淀川長治氏が「これこそは大正時代の活動写真のノスタルジア」と賞賛し、「タヴィアーニ兄弟が活動写真をかくも愛していたかに驚く。タヴィアーニ兄弟はやっぱり映画詩人であり、映画芸術家」と評している。 本作の原作は、ルイジ・ピラデッロ(1867~1936)の<1年間の物語>と題された15巻の物語の中の6篇を選び、これをベースに自由に脚色したものである。 プロローグとエピローグに挟まれた4つの話で構成されており、オムニバス映画ではなく、各篇から終章に向かって繋がり、シチリアの人々の歴史と心が浮かび上がってくる。広々とした荒地に登場するのは農民や羊飼いたちだ。大地に根をはって生きる彼らの姿は、シチリアの貧しさと荒涼とした自然に繋がれた人々の姿でもある。 カオスは混沌という意味があるが、カオスは比喩表現ではなく、ピランデッロの故郷の村の名で、古代ギリシャ起源の都市であるアグリジェットから4km離れたところに位置する。 本作は二人が審査員を努めた1984年のヴェネチア映画祭で、コンクール外の特別出品作として上映されたものだったが、本来ならこの作品がグランプリだ、惜しいということで国際批評家大賞がおくられた傑作でもある。 プロローグ 羊飼いが卵を孵そうとしているカラスを見つけた。そのカラスを捕らえて抱いていた卵をぶつけるゲームに興じる。一人がカラスを空へ放してやった。カラスは頭上をまわり大空を飛び、技師者遺跡のある丘を越え、崖の上に細く家並みを眺め、広々とした荒地にやってきた。物語の舞台の地。カラスの首につけられた鈴の音が、巡礼を思い出させるような心象風景が広がる。 第1話 もう一人の息子 イタリアの後進地域シチリアでは、19世紀半ばから多くの移民をアメリカに送り出していた。この物語に登場する老女の2人の息子も14年前にアメリカへ移民したきり音沙汰がない。彼女の息子たちはアメリカの大都会に飲み込まれてしまったのだろう。今日も浜辺に来て2人の息子への手紙を書き続け息子を待っている。老女は少し気が触れているように見える。そんな彼女を少し離れたところから優しく気遣う青年がいる。彼女のもう一人の息子だ。彼女は何故かこの息子を嫌っている。この息子は、ガリバルディのシチリア解放の際、極悪人に犯されて生れた子供で、顔がその極悪人にそっくりなため、彼女は彼を受け入れることができないのだ。舞台は海に繋がった荒れ野を走る1本の道。今日もまた移民を見送る家族のドラマがこの道で生れる。恐らく気の触れたこの老女の姿は、移民を見送る家族の明日の姿だ。 そして母の地獄と息子の地獄。地獄の中でこの二人はこの貧しい地で行き続けるのだろう。 第2話 月の病 素朴な民間伝承を思わせる物語。「月の病」は「狼つき」の意味があり、シチリアでは「癲癇」を意味する言葉だという。 農民のバタとシドーラは結婚して20日目である。満月の夜、夫のバタは家の外で恐ろしい叫び声を上げ、一晩中苦しんでいる。そんな夫の様子に、翌朝シドーラは実家に逃げ帰る。バタはシドーラの実家の前で、「月の病」を告白する。バタの母親が満月の夜、一晩中落穂拾いをし、赤ん坊のバタは籠の中で機嫌よくしていた。赤ん坊の大きな目に満月が映る。赤ん坊は満月に魅入られ、「月の病」になったという。シドーラの母親はこの話を聞いて同情し、次の満月の夜、母親と従兄弟のサロがシドーラに付き添うことにした。シドーラは実は従兄弟のサロを愛していたが、サロが文無しなので結婚できず、シドーラと結婚したのだ。満月の夜はシドーラとサロの逢引の絶好の機会。三日月の下で畑仕事をするシドーラ。半月の下で船を漕ぐサロ。そしてシドーラの母親が見上げる月。月が満ちてくるに従って、シドーラとサロの期待が膨らむ。だがバタにとっては不安が高まる。 さて、満月の夜、バタが外で苦しんでいるのを耳にするとサロは逢引どころではなく、放っておけず思わず外に飛び出して苦しむバタを看護する。シドーラも仕方なく看護する。翌朝、母親とサロは去っていった。シドーラは夫バタの元に残る。 自然の掟に従うしかないということだろうか。 第3話 壺 大地主ドン・ロロはオリーブ園が大豊作であったので、油を入れる大きな甕を特別に作らせた。甕が届き、彼はそれを自分の冨の象徴でもある如く中庭の真ん中に置き、ドンはまるで花嫁を迎えるように喜んだ。その夜、黒い影が中庭を包み、それが晴れると甕は真っ二つに割れていた。 翌朝、怒りに燃えたドンは無理やり甕直しの名人のディーマを呼んだ。彼は特別なニカワで元通りに直すという。だがドンは縫い目も入れろといって聞かない。仕方なく甕を合わせながら中から縫い付けた名人は背中のコブが使えて甕から出られない。 甕の代金を払えば出してやるというドンと名人の押し問答、根競べが続く。名人は代金で小作人たちと大宴会を始め、自分も甕の中で酒に浮かれている。宴会が最高潮に達し、小作人たちのドンに対する反抗の機運も高まってきた時、怒り心頭で飛び出してきたドンが蹴飛すと甕は転がって粉々に…名人は小作人たちの肩にかつがれ気高く村を出て行った。 宴会で盛り上がるにつれ、村人たちの地主に対する憎悪も浮かび上がってくる。村人の心情を音で表現しているあたりは見事な演出だ。おかしくもあり、恐ろしさを秘められている。 第4話 レイクエム マルガリの山地に住む人々は、村の墓地を造ることを地主の男爵が許可しないため、歩いて一日かかる山のふもとの墓地を利用するしかなかった。そこで村人の代表が村に墓地を造れるように県知事に請願しにきた。村の創始者である長老が死にかけ、彼がどうしても村に埋葬されることを望んでいるという。男爵が言うには、この長老こそが勝手に住みついて村を作ってしまったという。これは黙認できても死んでも居つかれるのは困るという。結局、村人たちは憲兵隊に捕らえられ村まで護送される。ところが村では、すでに長老が自分の墓を掘らせ、鐘楼まで建てさせていた。村についた憲兵隊は自分の墓穴のそばに座る長老を家につれて帰るよう村人に命じ、造りかけの墓地を壊しにかかった。その最中、長老が亡くなった。異常な事態に憲兵隊は作業を中断し、そそくさと麓まで帰っていった。棺を戴いた行列が新しい墓地に着いた。棺の中の長老はゆっくりと目を開けて死を待つのだった。 ここでは原作者のピランデッロが登場する。演じているのはタヴィアーニ兄弟作品には不可欠な俳優である「父パードレ・パドローネ」の父親役オメロ・アントヌッティ。 彼は列車の中で疲れきった様子で眠りこけている。1915年頃であろう。前年、ピランデッロの妻は精神に以上をきたし、翌年には最愛の母が死に、息子がドイツ軍の捕虜になっていたからだ。生活に人生に疲れた彼は故郷のシチリアにやってきた。駅に着いた彼をよく知っているという男の馬車に揺られる。通る道は彼が書いた物語の風景だ。思い出した。男は「月の病」のサロではないか。 屋敷には亡くなったはずの母がいつもの椅子に座っていた。母は彼に「もはや見ることのできなくなった者の眼でものを見ることが大事だ。そのほうが辛いだろうけれど、物事がずっと美しく、尊いものに思えてくる」と諭す。そして母の少女時代の辛いが楽しい思い出話をしてくれた。 彼女の父は1848年の革命運動に加わり、その後ブルボン王家に追われ、マルタ島に亡命したのだった。当時13歳だった彼女は、母親と兄弟たちと漁船で父の後を追った。その途中、軽石の島という小島に立ち寄った。軽石の島は真っ白な粉の山がそのまま透き通った青い海に溶け込んでいた。美しい映像だ。兄弟たちは母親の嘆きをよそに、つかの間の楽しさを味わった。そして、彼女は父のいるマルタ島に向かい未来に向う如くキッと前を向き漁船のオールを漕ぐ。 母の幻は消え、ピランデッロはいつまでも母の座っていた椅子に座りじっと思いに沈んだ。 このエピローグともなる篇でモティーフとなるのは、モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」第4幕カヴァティーナ<失くしてしまった>である。 母がオールを漕ぐ場面は、ヴィスコンティの「揺れる大地」のラストシーンへのオマージュでもある。「揺れる大地」でも船も財産も全て失った主人公が再び漁船に乗り漁師として新しい人生を踏み出したのと同様に、「カオス・シチリア物語」のラストも又あらたな人生の船出を意味している。 監督:パオロ・タヴィアーニ/ ヴィットリオ・タヴィアーニ
by mchouette
| 2007-05-18 00:00
| ■映画
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