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来て嬉しい、帰って嬉しのコブつき娘を新大阪まで見送ってほっと一息。さぁ今日から仕事、いつもの日常!と思っていた朝に実家の母から親戚の叔母の訃報の電話。私の時間と思っていた三連休には毎年の私の行事である京都まで初詣の予定が、通夜、告別式から初七日の法要になってしまった。9日にはモーツァルトの「フィガロの結婚」を演奏会形式で3時間強のフルバージョン・コンサートで堪能したものの、新春というのにトキメキ映画もないまま松の内も小正月も過ぎて1月も半ば。そんな中で観てみようかなという気になったのが本作。…で本作「哀しき獣」。私的には原題の「黄河」の方がいいような気がするけれど…。 北朝鮮とロシアに近い中国・延辺朝鮮族自治州でタクシードライバーとして暮らすグナムという一人の男が描かれている。借金帳消しと引き換えにソウルで殺人を請け負うことになったグナム。中国から黄海を渡り韓国に密入国したグナムにはソウルに出稼ぎにいったまま消息の途絶えた妻の行方を探す目的もあった 船倉に押し込められ、途中で黄河に投げ込まれボートに這いずりあがり、そんな風にして決死で中国から黄河をわたって朝鮮半島へ密入国する。世紀のルートを持たぬ者たちが中国に帰るにも黄河をわたるしかない。黄河をわたると中国語からハングル文字に。地図をもってハングルの文字を辿るグナムの必死さが哀しいほどに伝わってくる。 「朝鮮族」…作中で頻繁に出てくる言葉。中国と韓国の二つの社会において「朝鮮族」とカッコつきで呼ばれ、作中で頻繁に使われるこの言葉には、どちらの社会からも疎外された存在として差別的、蔑称的なニュアンスが色濃く感じられる。 中国系朝鮮族。 ![]() THE YELLOW SEA(黄海)監督は、快楽連続殺人鬼ユ・ヨンチョル事件を題材にした「チェイサー」(2008年)のイ・スンジェ。「チェイサー」での血みどろの描写は目を逸らしながらの鑑賞だったけど、だけどその描写は単にエキサイトな過激というよりも、むしろリアルな現実感がびたっとへばりついた生々しさがあった。邦画の生ぬるいヒューマニズムに辟易気味の私にはこんなリアルな描写に映画のエネルギーさえ感じる。 本作で描かれている朝鮮族自治州、朝鮮半島の寂れた港町、ソウルの繁華街。一歩足を踏み入れるとそこに潜む閉塞感とどうしようもない貧しさとダークな闇が滲み出てくる。 殺しを依頼された人物は、グナムの目前で三人の男たちによって殺されるも、その場に居たグナムは容疑者として警察に追われる身に。一方、ようやく探しあてた妻の部屋と思われる場所は散乱し、何らかの暴力がこの部屋で起きたことを物語っていた。そして中国へ帰る便の乗り場と指定された場所は嘘で、グナムは罠に嵌められたことを知る。 警察に追われながら、自分を嵌めた者の正体を追い求め、男を殺した犯人を追い求め、そして妻の行方を追い求めるグナムの、状況に翻弄されながらも一刻の猶予もない孤独なサバイバルが繰り広げられる。 グナムに殺人の仲介をした朝鮮族のミョン(キム・ユンソク)は金になるならどんな仕事も仲介する闇ブローカー。一人の男の殺人をめぐって、ミョンもソウルにやってきて鉈と金槌を振り回してソウルの裏社会のボスとの壮絶な流血バトルはあまり見たくはないが、この壮絶なバトルは金と生きのびることに対する凄まじいまでの執着を見せつけるものでもあるだろう。 そんな彼らの剥き出しのエゴに対し、グナムの、妻を捜して娘の待つ中国へ帰ろうとする素朴な切実さがラストシーンの黄河の映像と重なって哀しい。 そしてエンドクレジットの後のワンシーンに、グナムの必死な思いはどこにも届かず藻クズとなってしまったのだろうかと思うとなお哀しい。 グナムを演じたのは「チェイサー」で猟奇殺人犯を演じたハ・ジョンウ。闇ブローカーのミョンを演じたのは「チェイサー」でデリバリーヘルスを経営するどこか人情味を感じさせる元刑事を演じたキム・ユンソク。ガラリとキャラクターが変る本作のグナムとミョンを演じた二人の演技力も凄まじい。 ![]()
2011年もあと数日。
2011年という年をじっくり胸のなかで反芻しつつ、新しい年を迎えたい。 映画を観ていて、また振り返ってつくづく思うのが、映画の舞台となっている時代の古今を問わず、今という時代、その社会が内包しているものが反映されているなってこと。 充たされた社会にあって、充たされないというストレスが増殖していき、何を求めているのか見えないそんな社会で、映画もまた曖昧なものになっていっているような…。 来年はどんなワクワクドキドキさせてくれる新作映画に出会えるだろうかしら。 そんなことを思いながら、ブログも年末年始しばしの冬休みに入ります。 あわただしい年の暮れ お健やかにお過ごしください。 そして、良き新年を迎えられますことをお祈り申し上げます。
本格的な寒さがやってきて、巷ではイルミネーションがクリスマスムードを盛り上げ、師走のあわただしさが年の瀬を感じさせる、こんな時期になると、なぜか映画「アマデウス」を無性に観たくなる。
AMADEUS モーツァルト!
先日記事アップしたドイツ映画「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」でドイツのバンド「SELIG(ゼーリッヒ)」がカバーしたボブ・ディランの同タイトルの曲がラストシーンに優しく哀しく流れていた。
というわけで、ちょっと懐かしくもありで、ボブ・ディランが歌うこの曲が挿入歌として使われ、楽曲提供だけでなくボブ・ディラン自身も出演している本作「ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯」を観る。 監督であるペキンパー自身も棺桶屋で登場している。 ![]() PAT GARRETT AND BILLY THE KID かつて無法者たちが派手に動き回っていた西部。近代化の波が西部のこの町ニューメキシコに押し寄せるのも時代の流れ。資本家達が西部開発に乗り出してきた。邪魔なのは人殺しもギャングも朝飯前の無法者達。資本家達はかつて一匹狼の無法者だったパット・ギャレットを金で雇い保安官として、無法者一掃の陣頭指揮をさせる。 パット・ギャレットに泣く子も黙る風情のジェームズ・コバーン。 そんなパットが息子のように可愛がっていたのが、資本家達の頭痛の種ビリー・ザ・キッド。パットの警告も「俺は今が良ければそれでいんだ。」と馬耳東風のビリー。 ビリーには歌手で俳優のクリス・クリストファーソン。翌年製作のスコセッシ監督「アリスの恋」(1974年)では実直な農場主を演じていた。ここでも人懐っこく陽気で義侠心のあるビリーを好演。逮捕され脱獄するくだりなども楽しい。西部開拓時代の何も持ってないが故の大らかさ、人情がビリーとビリーが関わる人々を通して描き出されている。 ![]() 彼をむざむざと死なせたくないと思う気持ちと、他の奴らの手にかかってビリーを殺されたくない。殺すなら俺のこの手で。他の奴らには指一本触れさせない。そんな葛藤を閉じ込めて、葉巻をくわえ、獲物を狙うライオンのようにビリーを追跡する。 追う者と追われる者でありながら、パットとビリーの間に流れる、彼らだけに分かり合える男同士の愛情が伝わってくる。互いの心情を誰よりもわかりあえている二人。ロスト・ワールドの監督ともいえるペキンパーらしい味わい。 パットに撃たれ倒れたビリーの指を証拠として斬りおとそうとする副保安官を「やめろ!」と叫んで殴り倒したパットの思わず表れたパットの本音。 原題は二人の名前の「PAT GARRETT AND BILLY THE KID」 ビリーが青春真っ只中の若者なら、パットは人生が見えてきた中年男。 アンチを掲げ青春である西部のこの町と共に生きようとする若者と、体制側に転んだ男と。どちらにしろ辛い人生。 そんなパットの心情をジェームズ・コバーンが深みのある渋さで演じている。役者が醸し出す空気とでもいうのだろう。ひとつひとつの演技が何をか語らんで様になる。余計なセリフなどいらない存在感。こんなのをみていると最近の俳優の軽いこと。だからやたらセリフを喋るか派手なアクションでカバーするのかしらね。役者のこういう深みと凄みのある味を堪能するのも映画の醍醐味。 ![]()
WOWOW特集トラウマ映画館の第1回目の放映作品がこれ。
以前にも数回観た作品で、時代は戦後一躍世界のリーダー国になりあがったアメリカのまさに右肩上がりの1950年代。現代の無関心な社会状況にも通じるもので、そんな現象を描いたオープニングシーンも結構ショッキング。オープニングではラジオから米ソ冷戦カの核の脅威を訴えている。脅威に怯えながらも誰もが豊かさを享受し、我が身に起きない限りは無関心な社会が出来上がっている。本作で描かれた状況も決して特異なものでもなく、日常的におきても不思議はないという、そんな豊かになった社会が生み落とした人間のエゴや貧しさ、無軌道な暴力がトラウマ。 LADY IN A CAGE 腰を痛めて自宅エレベーターで1階と2階を行き来する中流階級の中年女性。 電線の接触不良で乗降中のエレベーターが突然止まり、空中でカゴの鳥状態になってしまった。一緒に暮らす一人息子はバカンスに出かけ、メイドも休暇をとり家には彼女一人きり。 真夏の住宅街。非常ベルを鳴らすも、どの家も窓を閉めクーラーをつけて聞こえない。家の前を走り去る車や自転車に乗った少年が通り過ぎざまベルに気づいても無関心に通り過ぎるだけ。 1950年代。80年代以降のアメリカ映画の一つの大きなテーマでもあった家庭崩壊は、この頃から徐々に侵食し始めていたんだなって思いながら観ていた。 一人息子を溺愛する母親。母の愛ではなく所有物としての愛。 家に押し入った不良たちが見つけた彼の置手紙は、「ママの愛情から僕を解放して」悲痛なメッセージとともに自殺を決心した彼の遺書だった。 犬の死骸を轢いていっても見向きもせず、眼が見えなくなった不良が道路に飛び出し、轢いてしまったかと思うや否や、車はいっせいに急停車するのも皮肉。道路に這いずって助けを呼ぶ夫人を、集まった人々は野次馬の如く取り囲むだけで何もしようとしない。夫人を取り囲む彼ら野次馬の無責任、無感動の視線が怖ろしい。これが現代社会。 閉じ込められた女性の恐怖と必死さを迫真の演技で熱演したのは、「風と共に去りぬ」でスカーレットの初恋の人アシュレーと結婚したメラニー役のオリヴィア・デ・ハヴィランド。 この役は当初はジョン・クロフォードに話が持ち込まれたそうだけど、ベティ・ディビスと共演した「何がジェーンに起ったか? (原題:What Ever Happened to Baby Jane?)」 (1962年)で閉じ込められる役はもうたくさんと、断わったんだそうだ。彼女が演じていたらもっとリアリティのある映像になっていただろうなって思う…。 「ミルドレッド・ピアース(原題: Mildred Pierce)」 (1945年/日本未公開/「ミルドレッド・ピアース 深夜の銃声」のタイトルでTV放映)でも、母の娘への愛情と、娘に精一杯の贅沢をさせ、みずから信じたその愛に裏切られるという、本作の母と息子の歪んだ関係にも似た作品にも母親を演じていた。母と娘の関係の場合、そこには女同士の確執も潜んでいる悲劇がある。こういう役を演じさせたらクロフォードが適役なんでしょうけどね……。そして不良グループの強面リーダーを演じたのがジェームズ・カーン。映画デビューとなった本作の演技が認められて「ゴッド・ファーザー」の長男ソニー役にキャスティングされたんだそうだ。 ……………………………………………………………………………………………………………………「フェイズ4 戦慄!昆虫パニック」 (1973年/監督:ソウル・バス) 「質屋」 (1964年/監督:シドニー・ルメット) 「裸のジャングル」 (1966年/監督:コーネル・ワイルド) そして本作「不意打ち」 (1964年/監督:ウォルター・E・グローマン) と観て、改めて60年代~70年代ってほんと、作家主義ともいえる素晴らしい作品が多かったなって改めて思う。今回のラインナップ作品は劇場鑑賞はしてないものばかりだけど、監督の映画に対する思想みたいなのが貫かれた作品をみて、大いに感性を刺激されて今に至っているんだなって思う。 こんな刺激的な作品に出合って、ちょっと気分が良くなっているこの頃。
WOWOW特集「トラウマ映画館」4作品放映の2作目に放映されたのが本作。
本作そして3作目がシドニー・ルメット監督の「質屋」、4作目がソウル・バスが監督した唯一の長編映画「フェフェイズⅣ 戦慄!昆虫パニック」と回を追うごとにトラウマ衝撃度も上がっていった。 THE NAKED PREY19世紀のアフリカ。原住民に捕らえられた白人が、何一つ持たずに追っ手から逃げる、という死のゲームを強制される。彼は、迫り来る原住民をかわして、生き延びようとする……。アクション俳優コーネル・ワイルド主演・監督・製作による本作。 町田智浩氏によるとメル・ギブソンの「アポカプリト」の原点は本作だとか。悪く言えばパクリ(?) 本編終了後のゲストの宇多丸さんとのお喋りの中で「この作品、メル・ギブソンが見てないわけがない!」と。 監督のコーネル・ワイルドって、どっかで見た顔って思ったら、先日見たニコラス・レイ監督の「熱い血」(1956年/日本未公開)の遊び人の弟役を演じていた人。 この方の経歴は、1936年に開催されたベルリン・オリンピックではフェンシングのアメリカ代表男子選手として出場していて、1940年に舞台「ロミオとジュリエット」に主演するローレンス・オリヴィエのフェンシングのコーチをしながらティボルト役でも出演しているところを認められ、1941年に本格的に映画デビューをしたそうだ。 ウィキペディアによると<ハンサムなタフガイとして、尚且つ、ハンガリー語、フランス語、ドイツ語、英語、イタリア語とロシア語に堪能なことから国際的スターとして活躍する。 また、1950年代に映画制作会社を設立し、自ら映画製作に乗り出し、『大雪原の死闘』(1955年)等では出演のみならず、監督・製作・脚本を手掛けている。>とある。 ………………………………………………………………………………………………………………………さて、本作。主人公が原住民の追跡から逃げアフリカの荒野を行くシーンなどは牧歌的でもあり、漫画チックなシーンもあったりして、当時はB級扱いされていたんでしょう。 でも、ライフルを構え向ってくる像を撃ち殺すシーンや、腸を切り裂いて奴隷達が像の中に入って贓物を取り出すシーンとか、アフリカに生息する生き物達の弱肉強食の様を捉えた映像など、これ以降の結構流行になっているかのようなネイチャー・ドキュメンタリーの映像にも引けをとらないのじゃないかな。 ![]() 象牙商人の横柄な態度やセリフなどからも、アフリカ原住民に対する白人優位のエゴがしっかり描かれているし、その横柄さ傲慢さが原住民の怒りを買い、捕まってしまうという設定。 逃亡中に別の部族によって村を焼き討ちされた村から逃げ延びた少女と出会った主人公が、どんな言語を話すのか訊ねるシーンがある。アフリカといえばスワヒリ語しか知らなかったけど、部族によってさまざまな言語が使われていることもこの映画でしっかりと描かれている。 感謝を表す言葉なのだろう。たった一つの言葉で白人男性と原住民の少女が人と人として交流する場面も描かれている。 コーネル・ワイルドのヒューマニズムが貫かれた映画ともいえるだろう。 彼のそんな姿勢から、町山氏が番組で紹介し評価していた、太平洋戦争を舞台に日本が支配するある南洋の島ニ上陸した米兵たちとの戦いと彼らの心情を、日米双方の立場を50/50で描いたという「ビーチレッド戦記」(1967年/原題:Beach Red)もあるんでしょう。 日米双方から描いた「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」のクリント・イーストウッドもこの作品を<観てないわけがない!>とゲストの宇多丸さんと町山氏が声を揃えていうオチまでついていた。 今回の特集でコーネル・ワイルドという人の作品を観て、彼が映画制作を始めたのも一つの倫理観や主義に基づくものだったのだろうと思う。まさにインディペンデント映画の草分け的存在とも言える人なんじゃないのかな。メル・ギブソンやクリント・イーストウッドの先を走り、ジョン・カサヴェテスよりも前に。
「町山智浩のトラウマ映画館」という番組が、WOWOWで12月12日から4夜連続で放送。
以前彼の同じタイトルの著書を読んで暑い夏の暑気払いさせてもらった私としてはちょっと気になる企画。 見た順に記事アップと思っていたけれど、特集最後のソウル・バスが監督した「フェイズⅣ 戦慄!昆虫パニック」のトラウマ衝撃度には参ってしまった。次に衝撃的だったのが3作目に放映された本作「質屋」。 放映順にトラウマ度もアップするというのもまいってしまうこの特集企画。 THE PAWNBROKERニューヨークの貧民街で質屋を営むソル・ナザーマンは、ポーランドの元大学教授で美しい妻と二人の子供とともに幸せに暮らしていたが、第二次大戦下、ナチスのユダヤ人強制収容所に妻子を殺された過去を持つ。今は人としての情をどこかに置き忘れたかのように、心を閉ざした日々を生きている。 allcinemaなどの映画紹介では<ユダヤ人という理由で妻子を殺された大学教授ソルは、人間不信に陥り、金だけを信じて質屋を営むようになる。従業員や彼を慕う女性の心遣いにも、彼は自分の周囲の壁を崩そうとはしない。だが、一人の女性の死が、彼に人間らしい心を取り戻させる……。孤独な人間が、再び他人との繋がりを得る姿を感動的に描く。>とあるけれど、ちょっと訂正するならば、死ぬのはソルの質屋で働いているヘズスというプエルトリコ出身の青年。 あらすじはgooのあらすじ紹介などで読んでもらうとして… その青年を抱きかかえ、ソルは25年間の封印が決壊したかのごとく泣き叫ぶ(このシーンはサイレント) そして伝票挿しに手のひらを押し当てる。 当時の処刑でもっとも重罰であった磔に処せられたキリストを思わせるようなシーン。 ヘズスは英語表記はJesus。 キャストの名前をも興味深い。 ヘズス(Jesus Ortiz)を死なせてしまったソル(Sol Nazerman) 血が流れる手を抱え街の雑踏の中をふらふらと歩いていくソル……こんなシーンで終る本編。 映画紹介では再び他人との繋がりを見出す再生の物語とか書かれているけれど、このラストはそうじゃないんじゃないかな。そんなハリウッド的再生映画じゃないでしょう。 質屋に寄付を依頼にきた福祉事業家のマリリンに収容所でのことを語るシーンがある。妻が目の前でナチの慰め者になっている。すし詰めで立った押し込められた収容所に向う列車で疲労と睡魔から最愛の息子を落としてしまった。 「私には何も出来なかった」うめくようにそう呟くソル。 しかしソルの心の底では、「何も出来なかった」ではなく「何もしなかった」という自責の念がつきまとっていたのではないだろうか。 愛する者の名を呼んで、収容所の鉄条網を越えようとして銃殺された一人の男の死。その死が彼を怯えさせた。何もしなかった。そしてソルは生き延びた。 妻子を見殺しにし、そして今又ソルを庇ってヘズス(ジーザス)を死なせてしまった。 彼が心を閉ざしたのは、収容所での悲惨な現実以上に、自らに対する罪の意識ではなかっただろうか。そこから眼をそむけ続けていたのではないだろうか。伝票挿しに手のひらを押し付けたのは、自らの罪と向き合ったからではないだろうか。自ら十字架を背負ったのだろう。 ソルの苦しみ、悲劇は今から始まるのだろう。 こんな風に本作を受け止めるのは穿った見方だろうか。 本編終了後の町山氏とゲストである翻訳家の柳下毅一郎とのトークでも語られていたが、ホロコーストをテーマにした映画は1955年のアラン・レネ「夜と霧」を始めヨーロッパでは自らの問題として戦後早くから描かれていたように思うけれど、イアメリカでは本作が最初ではないだろうか。私がホロコーストを題材にしたアメリカ映画を最初に見たのは1982年製作の「ソフィーの選択」だったように記憶している。ハリウッド作品とは一線を画したシドニー・ルメットだからこその作品だろう。作中でヘズスがソルに「どうしてあなたたちは金儲けが上手なんですか?」と質問するシーンがある。 「よかろう。教えてやる!」とソルは堰を切ったようにユダヤの民について話し出す。 紀元700年頃、イスラエルはローマ帝国に反乱したが鎮圧され国を滅ぼされたユダや人は世界中に離散した。各国に難民として流入した彼ら多くの職業から排除され弾圧された二千年間、彼らを支えたのは「神に選ばれた民」という誇りだけだった。そんなユダヤの民について怒りをぶちまけるように話し出す。 「数千年にもわたる長い間、古臭い伝説以外に何も頼れるものはない。 自分の祖国も土地も持てない。だから農業も狩りもできない。 同じ土地に長く住むことも許されないし、自分たちを守る軍隊もない。 あるのは自分の脳みそだけだ。 その脳みそと古代の伝説が、自分は選ばれた民だと励ましてくれる。たとえ貧しくても」 ![]() 本作でソルを演じたロッド・スタイガーは第14回ベルリン国際映画祭で男優賞を受賞。 「波止場」(1954年)ではマーロン・ブランドの兄、「ドクトル・ジバゴ」(1965年)ではジバゴと恋におちるラーラに執着するコマフスキー役、「夜の大捜査線」(1967年)では偏見に満ちた警察署長と演技の幅が広い役者。 そしてジャン・ヴィゴ作品に撮影監督として参加した新学期・操行ゼロ」(1933年)、「アタラント号」(1934年)。そしてエリア・カザンの「波止場」(1954年)ではアカデミー・撮影賞を受賞したボリス・カウフマンのモノクロ映像がソルの内面を色濃く映し出しクインシー・ジョーンズの音楽がソルの心の振幅を表現するかのように響き渡る。 ![]()
グラフィックデザイナーで映画のタイトルデザインで知られているソウル・バス。彼がデザインを手がけた映画は、冒頭からソウル・バスが仕掛けたインパクトある映像に本編への期待が高まる。彼が最後に手がけた作品は主演ロバート・デ・ニーロ、監督マーティン・スコセッシの「カジノ」。これなどは本編そのものよりもタイトルデザインが印象に残っていてこっちの方が面白い。
そのソウル・バスが監督した唯一の長編映画「「フェイズIV 戦慄!昆虫パニック」。 WOWOW特集の「町山智浩のトラウマ映画館」で放映していた本作。 日本では劇場未公開。ビデオは発売されたけれどDVD発売はされていないとの事ということだから今回の放映はお宝でしょう。でなかったらこんな衝撃的かつ中毒になるような映像を知らずにいたのだから… PHASE IV縦横無尽に通路が張り巡らされた巣の中を一匹の緑色した蟻が潜入(?)していく冒頭シーンから釘付けの映像。 蟻を殺す化学薬品を浴びかろうじて生残った1匹の蟻が薬品の一片を運んでいく。途中で命尽き果てるも、そこへ巣から新たな一匹が現れ運んでいく。また毒薬に倒れるも、また新たな兵隊蟻が現れる。そして女王蟻は化学薬品に適応した新しい種の蟻を生殖する…… 蟻の接写シーン、カマキリと蟻の闘い…などなど。蟻が演技しているこの映像。 アリゾナの砂漠を舞台に、二人の科学者がいるドーム。それと対峙するように並ぶ巨大な石柱は蟻の巣。キューブリック監督「2001年宇宙の旅」に登場するモノリスを思わせる。 蟻と人間の戦いをPHASEⅠ、Ⅱ、ⅢそしてⅣと4つの局面で描いた本作。 本編終了後で町山智浩とゲストで映画評論家の添野知生とのトークでも語ってたけど、「2001年宇宙の旅」を」彷彿とさせるし、「猿の惑星」」でもあるし、ソウル・バス独自の映像世界でもあるし……感動とカとはまた違うこの映像デザインともいう世界……いやぁ、ちょっと中毒的に嵌ってしまう映像。 今回の特集で放映された4作品のうち、本作が一番のトラウマ作品! 何気なく始めたブログも来年の4月で丸5年。ONCE UPON A TIME IN AMERICA 1984年/アメリカ/229分ニューヨークのブルックリン。かつてこの街にあったユダヤ人街で育ち、裏社会を歩いてきたヌードルスが仲間を警察に密告したと追われる身に。親友だった仲間を救うための密告が、逆に仲間を死なせる結果に。逃亡資金に、駅のロッカーに隠した仲間達と積み立てた分配金が入っているはずのスーツケースを開けると空だった。少年時代から一途に愛し続けたデボラは彼の愛よりも女優になる夢を選び取る。暴力的にレイプ同然に彼女を奪い取り、デボラはハリウッドへ去っていった。 デボラを愛し、この町の匂いを愛し、仲間と悪事を重ねてきたこの町を追われたヌードルスは、一枚の手紙に引寄せられて35年ぶりに戻ってきた。 移民の国アメリカ。多くのユダヤ人たちも移住してきたが、ヌードルスたちは、初期の貴族的なスペイン系ユダヤ人や、第2波のドイツ系ユダヤ人と違い、遅れてアメリカにやってきたロシアの寒村やゲットーからニューヨークに住み着いた宗教色の強い東欧ユダヤ人たちだろう。当時のアメリカ社会は、移民の大半を占めていた東欧ユダヤ人を、文化的・生物学的に劣等な輩と見下し、アメリカ社会に同化困難な異質な存在とみなし、露骨な差別行為を行なうことさえ珍しくなかったという。この町の匂いが好きなんだ。他人に指図されるくらいならチンピラのままでもいい、俺は俺のままで生きたいんだというヌードルスとは決定的に違う生き方を選んだ二人。 ![]() ![]() 彼らの手に残ったものは何だったのだろう。掴み取る為に何を喪ってしまったのだろう。 私は萎んだ花なのよと自嘲するデボラ。 密告がヌードルスに仕掛けられたマックスが仕組んだ裏切り。 しかしマックスを前にヌードルスの脳裡には過ぎ去った昔、親友だった頃の記憶の断片が走馬灯のように流れる。 35年間、罪悪感を持ち続けてきたのはむしろマックスの方だっただろうか。 ヌードルスはマックスを親友と思い、マックスもまたそう思う一方で、自分とは対極にいるヌードルスの存在はアキレス腱に突き刺さった楔だったのだろう。 Once Upon a time…… ヌードルスの記憶から甦る彼らが生きてきた過ぎ去った時間が、残酷さと悲哀と痛みを伴う美しさで、レオーネ監督によって描かれた一大叙事詩。 マックスとヌードルスの再会シーンでビートルズの「イエスタデー」が静かに流れるのもいささかクサい演出とも思うけれど…。 ラストは謎の多いシーンが続く。 ベイリー長官の屋敷を出たヌードルスの横を突然動き出した派手なごみ収集車。 振り返ったヌードルスが見たのは彼を追うように門の傍らに立つ一人の男の姿。 収集車で視界が遮られ、走り去った後には男の姿はなかった、ゴミを粉砕しながら走り去る収集車をじっと見詰めるその目が、遠い記憶を呼び戻すようなその目が、若い頃の彼の目になり、阿片窟にいるヌードルスと重なる。 ヌードルス演じるデ・ニーロがじっと天上を見つめみせたあの謎ともいえる笑いで終る物語。 自虐的とも、したたかともとれる笑い。 ことごとく彼のやり方と衝突しながらも、マックスとの友情から彼に加担し悪事に手を染めてきた、そんなマックスとの訣別を意味する笑いだったのだろうか。 しかし時間が彼らを手繰り寄せるように再び引き合わせ、澱が揺り動かされ彼らの胸を締めつける。 自分の人生を生きようとした男と、相手の人生全てを奪い取り彼を消し去ろうとした男。そして二人の男は友情という絆で、両極にありながら引き合った二人の不運。 観終わった後、タイトルがさらに哀しい。 Once Upon a time…… デボラの少女時代を演じたジェニファー・コネリー。本作が彼女の映画デビュー。 ![]() HJEM TIL JUL原作はレヴィ・ヘンリクセンの短編集。ひとつひとつの物語の断片がパズルのように脈絡なく描かれていきながら、ぎこちなさを感じさせることなく、ゆっくりとつなぎ合わさっていく。この辺りの演出はハーメル監督らしい。降り積もった雪の白さと蝋燭とランプの優しい明かり。照明のおちた街にあって家の灯りが暖かく優しい。 原題を直訳すると「クリスマスに家に帰ろう」となるのだろう。 日本では「お正月には」となるのだろうけれど、キリスト教圏ではクリスマスは一年で一番大切な日なんでしょう。だからこそ幸福を感じたい、幸福に過ごしたい……今年のクリスマスには…市井に生きる人々の、クリスマスの夜だからこそ特別な愛をいとおしむ時間を過ごしたいと願う、クリスマスの夜のそれぞれのささやかな思いが込められた本作。 クリスマスのその夜の町も静かに更けていき、天体望遠鏡で星を眺める少年と少女の淡い恋、寝たり気の妻にアイロンをかけたワンピースを着せ二人でベッドに寄り添う老夫婦。ホームレスとなっている男の正体が分かるのも痛ましい。不倫相手の男性が家族と来ている教会に出むいた女性。並んで座った二人の女性が夫と、不倫相手のその男からのプレゼントの同じ赤のスカーフをしているのもおかしい。離婚して家族の愛に気づく男。コソボ紛争で故郷から脱出してきた若いカップル。その出産に立ち会った医者。 赤ん坊を抱いた若いカップルを祝福するように彼らの行く手にオーロラが白銀の静かな夜空を覆う……衝撃的な冒頭の物語はどうなるんだろうと思っていたらラストシーンに繋がる。 この監督らしいといえば、らしいんだけど…… ゆるりとした遅れ気味のユーモアがなんともいえない味わいとおかしみの持ち味が今回は感じられず、ちょっと期待からそれてしまった。 映画評を読むと、心温まるとか、ささやかな幸せを描いて素晴らしいとかとあるんだけど…… いまひとつまとまりにかけるというか、ちょっとこじつけみたいなところもあるし…で心温まる思いでとまではいかず劇場をでた。 ![]() ただ、本作観て思うのが、一昔前の日本には、こんな風に特別な思い出お正月を向え、家族でちょっと改まって静かな特別な日として元旦があったのだけれど、「来年の正月には家さ帰ってこいよ」といった年老いた母のセリフなんかが映画などでもあったのだけど、世間から一年の区切りのそんな「特別な」感覚も薄れていっているような気がここ数年ずっと感じている。 BOUND FOR GLORY実在のフォーク・シンガー、ウディ・ガスリーの半生を描いた伝記的映画。 キース・キャラダイン出演の「プリティ・ベビー」に続き、本作は異母兄のデヴィッド・キャラダイン主演の作品。 中学生になって英語を習い始めたころ、よくアメリカの「フォークソングを覚えては歌っていた。単語も習ったばかりの言葉もよく出てきたし構文もシンプルで、私にとっては格好の英語教材だった。 大恐慌の時代。無一文でヒッチハイクをし、貨物列車に無賃乗車し、無賃乗車する放浪者たちに制裁を加えようと駅には自警団が待ち受けているし、カリフォルニアまでの旅は命がけ。 無賃乗車する放浪者たちの間で伝説の男となっている一人の放浪者と無賃乗車を敵とする鬼車掌とのバトルを描いたロバート・アルドリッチ監督の「北国の帝王」で、デヴィッド・キャラダインの異母弟のキース・キャラダインが、いきがったチンピラ放浪野郎を演じていた。放浪を続けながらガスリーはアメリカ社会の底辺を味わう。職のないものはキャンプを張り、日雇い労働の仕事に群がるばかり。ガスリーの歌はそんな貧困と放浪の中から生まれた。差別と貧困に抵抗し、資本家に搾取され続ける労働者たちを鼓舞し、彼らの心を歌にし続けたガスリーの歌の原点は常に民衆。 スポンサーの圧力を嫌い、経済的に安定した生活よりも、歌いたい歌を歌う魂の自由を求めたガスリーはより多くの人々を求め、ニューヨークへと向う。 ガスリーを演じたデヴィッド・キャラダインが最高。演技じゃなくってガスリーそのものになりきっている。作中で彼が歌うガスリーの歌やギターは吹き替え無しの自前だそうだ。 不幸にも亡くなってしまったけど、年老いてもまだまだクセと味のあるいい演技をみせてくれただろうに…。映画ではタランティーノ監督の「キル・ビル」のビル役が彼の最後のイメージになっている。 第49回アカデミー賞撮影賞、編曲賞受賞作品。 ![]() PRETTY BABY ほんと、懐かしい「プリティ・ベビー」 スクリーンでアルトマンの「ナッシュビル」を観たりして、キース・キャラダインの持っている、彼独特の、といおうか、浮いているというのではなく、でも場の空気のどこにも染まらないような彼独特の雰囲気も良かった本作を数十年ぶりに再鑑賞。 ウィキペディアの本作紹介を引用すると… 「無名子役だったブルック・シールズを一躍スターにした、ルイ・マル監督のアメリカ進出作である。シールズはこれで世界的にロリータ女優として君臨する。なお、フランスでのタイトルは "La Petite" である。」とある。 リュック・ベッソン監督スヴェン・ニクヴィストの「レオン」(1994年)ではナタリー・ポートマンが一躍注目を浴び、日本でも国民的美少女コンテストなどもあるけど、戦後の美少女ブームってブルック・シールズから始まった? 「美少女」というとすぐに頭に浮かぶのはやっぱりブルック・シールズ。1917年、ニューオリンズのストーリーヴィル地区を舞台に、娼館に生まれたため12歳の幼さで肉体を売ることになる少女ヴァイオレットを描いたもの。 この地区は赤線地区であり、第一次世界大戦中の1917年にニューオーリンズ市政府の猛反対を押し切って米国連邦政府によって閉鎖される。 娼館では娼婦やその子供たちが、擬似家族のように暮らしている。 隠微な空気など微塵も無く、娼婦も客も大らかに春を謳歌するようなサロンのような蝶よ花よの雰囲気の中で、ヴァイオレットは無邪気に走り回り大きくなった。 ポール・トーマス・アンダーソンの「ブギーナイツ」(1997年)を思い出す。ジュリアン・ムーア演じるポルノ映画界の女王は、離婚した夫からは母親失格の烙印を押された薬物中毒者。監督ジャックの元で世間から隔絶し擬似家族のように暮らす彼らの陽炎のような栄光と挫折の日々を描いた「ブギーナイツ」娼館の中のそんな世界しか知らずに育ったヴイオレットにとって、初めて客をとるということは大人の女の仲間入りと同義語。商品としてオークションにかけられ、客たちは値を競い合う。娼館に暮らす大人たちは傷ましさをもってじっと見詰める。 競り落されたヴァイオレットと客のその時間が終るまで、皆はホールでまんじりともせずに待ち続ける… ![]() そんなルイ・マルの演出。そしてスヴェン・ニクヴィストのカメラによって写し撮られた映像。そしてなによりも、ブルック・シールズの子供でも大人でもなく、女の匂いを潜ませながらも少女だけが放つ魅力。 そしてヴァイオレットの母親で娼婦としてこの館で暮らすスーザン・サランドンがまたいい味を出している。 カメラマンとして娼婦達を撮る為にこの館に通うカメラマンにキース・キャラダイン。ヴァイオレットをいつしか愛し始める。 全裸でカメラの前に立つヴァイオレット役の10歳そこそこのブルック・シールズ。 製作年ではこの2年後の「青い珊瑚礁」では、子どもっ気の抜けた伸びやかな肢体を披露している。 ↓「青い珊瑚礁」のブルック・シールズ赤線地帯は閉鎖され、居場所を失った女たちはこの後どんな人生を過ごすのだろうか……。 馴染み客と結婚しすっかり堅気になった母親がヴァイオレットを迎えに来た。その年頃の堅気の娘らしいワンピースを着せられ、義父のカメラの前に立つヴァイオレットは笑いを求められても、笑おうとしてもその表情はぎこちなく強張る。 ラストでヴァイオレットがみせるこの表情がこの作品の中で一番傷ましい。 MOROCCOいやぁ、良かった。 これが映画なんだ。 最近ときめく映画が少なくなったけど、日本初の字幕スーパーのこの作品は、いまだに色褪せることのないトキメキある映画。 ![]() そんな女たちを見ながらアミーの心は千路に乱れ、抑えきれず、引き止めるべシエールの手を振り切り、彼に別れのキスをして、彼女もまた砂漠に向って歩き出す。ハイヒールを脱ぎ捨て、砂を踏みしめ歩くたびに男への愛の確かさを噛み締め…スカーフをきゅっと縛り直し、前を向き歩くアミーの姿がはるか遠くに見える。女たちとともに愛するトムがいる外人部隊の後を砂漠の砂を踏みしめて歩いていく…… セリフもなにもないこのラストシーンは万感迫るものがある。どれだけ多くのことを語っていることか。 これが映画なんだよな! こんなラストシーンが醸し出す空気。男と女の熱い情感を孕み、映像でしか表現できない余韻が長くゆっくりと続く。 セリフのひとつひとつに込められた思い。 男と女の潔いこと。 粋なこと。 冒頭はモロッコに向う船上。 どこか退廃的なそれでいて何かに挑むような、そんな雰囲気を漂わせた一人の女性が、手すりにトランクを乗せて、じっと前を見ている。海を見ているのか…今から行くモロッコの町をみつめているのか…なにか困ったことがあればと、先ほどすれ違った紳士から渡された名刺を、女はしばらく眺めていたけれど、事も無げに破り捨てその破片を指先で海に弾き飛ばす。男の情けは私には無縁のことよ、余計なお世話よと言わんばかりの素っ気無さ。 アドルフ・マンジュー演じるこの紳士ベシエールは、この女性のそんなふてぶてしさにも大いに興味を抱く。 アミーを演じるマレーネ・デートリッヒの船上でのインパクトあるシーン! このシーンだけでも、アミーという女性がデートリッヒを通して見えてくる。 モロッコに駐留している外人部隊の兵士トム・ブラウンは名うてのプレイボーイ。来るものは拒まずで上官の夫人とも関係をもっている。 流れ流れてモロッコで酒場の歌手として暮らすアミーと、外人部隊のトムが恋におちた。 ![]() 「テンの毛皮は高価だよ。今も持っているのかい?」 世間をとっくに棄て去ったようなアミー演じるデートリッヒのぶっきらぼうさ。 トムの気障なセリフも、甘いマスクと長身のスタイルと力が感じられない演技の自然体のゲイリー・クーパーが演じるとなんとも爽やかで、彼が見せる恋する男の純情さも魅力的。 「もう帰ってちょうだい。好きになる前に。」脱走して一緒に逃げようと約束するも、アミーが金持ちのベシエールから求婚されていることを知り、「気が変わった」と楽屋の彼女の部屋の鏡に口紅で別れのメッセージを書いて黙ってアミーの元を去り最前線へ向うトム。アミーのいるモロッコに戻るのが辛かったのだろう。負傷したと偽って現地に留まるも嘘がばれて更に最前線へ。 そしてトムの心変わりにショックを受けたアミーは、べシエールのプロポーズを受け入れる……。 アミーをめぐってトムとベシエールの三角関係。 婚約発表のパーティの席でトムの負傷を知ったアミーは、矢も盾もたまらずトムのいる前線へ。「愛する彼女のためならば、私は厭いません。」と彼女とともに出発する。 時代は1920年頃のモロッコだろう。 トムもベシエールも、人として、一人の男としての矜持をもって女を愛した、そんな良き時代。それは時代遅れでも古臭くもなく、その後の戦争によって人々から奪われてしまったものでもあるだろう。 ラストシーンに「カスバの女」(作詞:大高ひさお/作曲:久我山明/歌手:エト邦枝)の歌詞と哀愁を帯びたメロディが重なる。この歌に妙な郷愁を感じるのは、子供の頃にテレビ放映で見ていて、映像そのものは記憶からはがれてしまったけど、映像が醸し出す空気だけは覚えていたからかしら。マレーネ・デートリッヒ貴方も女(わたし)も 買われた命 ベルリンの舞台に立っていたところをジョセフ・フォン・スタンバーグ監督に見出され「嘆きの天使」に主演。本格的にアメリカにわたり本作。その後ヒトラーからの要請があるもドイツに戻ることを拒み、39年にアメリカ市民権を取得。大戦中はアメリカ兵の慰問に回り、反ナチスの姿勢を明確にしている。 彼女が歌う「花はどこへ行った」は何度聞いても涙が出てくる。 ANOTHER YEAR 「この映画、素敵と思わない?」地質学者の夫トムと病院で心理カウンセラーとして働くジェリー夫婦は孫がいてもおかしくない年齢だけど、親から独立し弁護士として働く息子のジョーは30歳でまだ独身。 週末には夫婦揃って市民農園に出かけて畑仕事。畑で過ごすお茶の時間を楽しむ二人。 そんな穏やかな日々を過ごすトムとジェリー夫婦の家を訪れる者たちとの一コマ一コマで綴られた本作。 中高年にさしかかった者たちが抱える人生そのものが浮かび上がってくる。 中高年になった時どんなライフステージに立っているのか。どんな人生を生きてきたのか。何に幸福を見出すのか。日常の一コマ一コマを通してユーモラスに、だけど辛辣に、人生の半分以上生きてきた者たちそれぞれの人生が描かれている。 マイク・リーらしい演出。 不眠症で病院を訪れ、ジェリーのカウンセリングを受ける一人の中年女性は、幸福の実感さえざらついた砂のようになってしまっている。四季で区切られた本作。でもトムとジェリー夫婦の四季の畑仕事は変らない。 人生を畑仕事と四季でなぞらえた本作。 春には土を耕し苗を植え、夏には生き生きと生長し、そして丹精込めて育てた野菜たちは、秋になってもとり残した野菜が食卓にのぼる。 トムとジェリーはそんな風にして二人で生活を慈しみ育てながら生を歩いてきたんだろう。 ケンたちと大騒ぎし、さまざまな国をジェリーと二人でヒッチハイクした若かった夏の時代。 人生の秋、黄昏時を迎えた二人の生活にも、とり残した野菜みたいに、人生を育んできた結実が充足した幸福をもたらしている。というよりも二人で育てた野菜がのぼる食卓そのことが幸福なのだと思える彼らの日々の生活がある。 「ある年齢になると、なにが幸福なのかが見えてくるもんだ。」とジェリーに語るトムの言葉には含蓄がある。 ![]() 「人生は優しくないわよ。」 「自分に責任をもたなくっちゃ。」 メアリーに諭すジェリーの言い方は優しいけど、でも手厳しい。 ラストの食卓シーンもマイク・リーらしいシニカルで含みのある演出。 1943年生まれのマイク・リー。 彼もまた自分の歩いてきた人生を振り返り、そしてこんな作品が生まれたんだろう。 一緒に行った友人は、イメージしたのと違って、美しい庭も美しい役者も出てこないこの映画にいささかがっくりきたみたい。イメージと違うと思うよって映画に行く前に言ったのだけど……マイク・リー作品で美しい役者を期待しちゃダメよ(笑) 12月になると、 さて12月になるとシュトーレンがパン屋さんとか洋菓子店に並びだす。 私の毎年のお楽しみ。 ![]() これは知人からの頂き物。 ご贔屓にしている町の小さなパン屋さんのものだとか。 写っているぺティナイフが大きく見える。 でも小さくてもずしんと重くて中味がぎゅっと詰まったシュトーレン。 目下、私のお家シネマの嬉しいお供。 これが食べ終わったら、今ではすっかりお気に入りになったあのシュトーレンを買いに行こう! LILITH 私立の精神病院を舞台に、帰還兵のヴィンセント・ブルースは、作業療法士の見習いとして病院に勤務する。そこで一人の統合失調症の患者リリス・アーサーと接する内に危険なほど夢中になってしまい、嫉妬からリリスに夢中な患者スティーヴンを自殺に追い込み、自らコントロール不能となった彼は精神医学的な救済を願い出るという話。 ヴィンセント・ブルースには、1920年代のアメリカ中西部の町で、保守的な時代の保守的な町にあって、若い二人の燃え上がる恋を自らストイックなまでに抑圧したことから少女は精神を病み、青年は身を持ち崩していくという悲劇のラブストーリー「草原の輝き」(1961年)で映画デビューしたウォーレン・ベイティ。ウィキペディアニよると<リリス(Lilith)は、本来はメソポタミアにおける女の夜の妖怪で、「夜の魔女」とも言われ、男児を害すると信じられていた。>とある。 ジーン・セバーグのみせる演技が凄い。 ブルースのリリスに対する最初の印象は、きっとガラス細工のように壊れやすい繊細な美少女だっただろう。 恥ずかしげな頼りなげな笑顔は、この世の穢れとは無縁とも思われる無垢な存在とも映っただろう。その顔が、眼には邪悪さが宿り、夜叉の顔になりブルースを罵る。 蜘蛛の巣にかかったブルースが悶え葛藤する様を、時には優しく時には焦らし、また時には罵り、弄ぶ様は女郎蜘蛛。 ![]() 「悲しみよこんにちは」(1957年)で彼女が演じたセシール。 父親を愛するあまり、父とフィアンセの仲を壊そうと画策した多感な少女セシールが引き起こした一人の女性の死。少女と女の裂け目にはまり込み、深い淵に沈み込んだセシールのダークな極限がリリスみたい。 見ていてそんな風にも思えてくる。 ブルース役のウォーレン・ベイティは、アネッサ・ベニングと結婚するまでは次々と女優たちと浮名を流す派手な女性関係で、姉のシャーリー・マクレーンが諌め役だったそうだけど、こういう普通の気質っぽい男が似合う。医師と上司に向って、どこか覚束ない足取りでゆっくり歩いてきて一言「助けて」と言うラストシーンなどもなかなかの演技。 本作は、「オール・ザ・キングスメン」(1949年)やポール・ニューマン主演の「ハスラー」(1961年)の監督であるロバート・ロッセンの遺作。満57歳没。 リリスに恋する患者で思い込みが強くナイーブな芸術家肌の青年に若きピーター・フォンダが。ブルースの元恋人の夫役で、男尊女卑丸出しの下卑た男役でジーン・ハックマン。ブロードウェイでの公演を観たロバート・ロッセン監督に見出されて本作で画デビュー。 しかし本作ではジーン・セバーグがみせる表情が凄い。 後に精神のバランスを崩し自殺した彼女自身を重ねてみてしまう。 55 DAYS AT PEKING大航海時代にはじまる欧米列強による植民地支配と侵略戦争が、開国以来急速に力をつけ領土拡大に燃える日本も加わりさらにヒートアップしてきた時代。 1900年中国。 外国勢力の排斥を叫び結成された義和団による反乱が中国各地で起き、その動きに清朝の西太后が支持し、外国勢力に宣戦布告し中国からの撤退を迫った。北京の外国人居留地まで侵攻してきた義和団に清朝の正規軍も加わった中国勢と、中国撤退よりも残留を決めた諸外国連合勢との55日間にわたる籠城戦を描いた歴史ドラマ。 当時、中国を分割支配していた諸外国とは、イギリス、アメリカ合衆国はじめロシア帝国、フランス、ドイツ帝国、イタリア王国、オーストリア=ハンガリーそして大日本帝国の8ヶ国。 イギリス公使とアメリカ海兵隊ルイス少佐を主軸に描かれている。ヒーローはチャールトン・ヘストン演じるルイス少佐。日本の柴五郎の役を伊丹十三が演じていた。なかなかに沈着冷静な役どころとして描かれている。 のっけにチャールトン・ヘストン先頭に馬に乗ったアメリカ軍が出てきたためか、画面全体にアメリカ・ハリウッドの匂いプンプンがいささか鼻についたけど、義和団との攻防戦が始まってからはスケールの大きさや映像描写なども含め娯楽作品的に楽しめた。 ただ、ニコラス・レイ監督ってあまりよく知らないけれど、かなり作家性の強い監督で、異端児とかアメリカ映画の隠れた巨匠と言われているそうだけど、私としてはどのあたりが作家性なんだろう?って、よく分からないナァ。 援軍によって中国・義勇軍は撤退し、55日間の8ヶ国が共に助け合って戦った攻防戦は終り、8カ国それぞれが中国の領土をめぐる戦争がまたもや始まるわけだが、8ヶ国がそれぞれの軍隊がそれぞれの国歌を賑々しく演奏するシーンで始まる。それを聞いた中国人が「あの音はなんだ!」と耳を塞ぐと、横の中国人が「中国が欲しい欲しいと叫んでいるのさ」と応え、そして最後は義和団制圧に中国に進軍してきた8ヶ国それぞれの軍隊がそれぞれに国歌を演奏する場面が終盤。それを見ながらルイス少佐がイギリス公使に「またもや列強間で領土戦争が始まるわけだ」と苦笑する。 こうした帝国主義や植民地主義が極限に達し勃発したのが第一次そして第二次大戦で、それを皮肉ったとも受け止められなくもないが、欧米側から描いた作品だけど、完全に欧米を向いて作られていて、野蛮な中国人という白人優位の描き方など、監督としてニコラス・レイ自身の歴史観や思想といったものが見えてこないナァ。 それよりもまず、160分の大作で胸に響く熱いものが伝わってこないというのがネェ……。 ブラザーズ・フォア(懐かしい!)の主題歌は良かった。 THEY LIVE BY NIGHT PARTY GIRL WOWOW企画の映画監督ニコラス・レイ生誕100年特集で鑑賞。 1930年代のシカゴ。 そのシカゴの大物ボスのリコ リコが経営するキャバレーの踊り子達の華やかなショーで幕が開き、大ファンだった女優の結婚にショックを受けたリコを慰めるパーティで物語は始まる。 ソファに憮然と座り女優の写真をピストルで撃ちまくるリコ。こんなシーンだけでリコという人の執念深い怖さがうかがい知れる。 リコ役にリー・J・コッブ。 さすが上手いなぁ。 「波止場」では波止場を牛じるギャングのボス。「12人の怒れる男」では最後まで頑として有罪を主張する陪審員。そして彼が最後にみせた悲哀。「L・B・ジョーンズの解放」では弁護士役。どの役も見事にはまり役。 ![]() 「椿姫」といい、「哀愁」でのヴィヴィアン・リーとのツーショットといい、若い頃の水も滴るほどの美男子だったロバート・テイラー。 リコ役のリー・J・コッブや検事役のケント・スミスの味にくらべていささか精彩が薄いみたい。トミーが愛するヴィッキーを守る為、彼の弁護士生命を賭けてといっていいほどに、リコの心情に揺さぶりをかけるシーンが見せ場。 ヴィッキー役のシド・チャリシー。彼女の脚に500万ドルの保険が掛けられて話題となったのが1952年。本作でも彼女の踊りと美しい足がたっぷりと堪能できるダンスシーンも挿入されているあたりがハリウッド的娯楽要素かしら。中途半端な気もするけどナァ。 allcinemaでは<過渡期のMGMを体現するロマンチックなムードとハードボイルドの要素が違和感なく融合した得難い作品。ニコラス・レイの鋭敏な感性が光る。>とあるけれど、鋭敏な感性って感じ取れないなぁ… WOWOWの作品紹介では<「理由なき反抗」のN・レイ監督が、禁酒法下のシカゴの暗黒街を舞台に、周囲の圧力に傷つき苦しみながら、社会の片隅でひっそりと純粋な愛を育む男女の姿を、繊細に描写>とあるけれど、終盤でトミーが愛するヴィッキーを守る為、弁護士稼業の手練手管でリコを酔わせ説得する一世一代の弁舌にあった二人の子供時代。トミーの脚色だろうけれど、男二人にフォーカスさせた物語が見たかったなって思う。 本作とはちょっと違うけれど、ビリー・ワイルダーの「深夜の告白」なんかいいよなぁ。 LES AMANTS DU TAGE 最近は公開映画も敢えて劇場まで足を運んで…というほどのものはなく、WOWOWなどで放映されるのを観ることも多い。最近の映画ってノンストップアクションだの、CG駆使したビッグスケール迫力映像だのなんだけど、映像オーラはスクリーンサイズよりもテレビサイズ化しているみたい。監督は「シシリアン」「地下室のメロディ」そして「冬の猿」などのアンリ・ヴェルヌイユ。そして原作者ジョセフ・ケッセル、「将軍たちの夜」「昼顔」「影の軍隊」「サン・スーシの女」などなど映画化されているものも多い。 1944年パリ解放の日。帰還兵ピエールが喜び勇んで愛する妻の待つ我が家のドアの鍵を開け、彼の目に飛び込んできたのは妻の不倫現場。思わず持っていた銃で妻を撃ち殺す。無罪になるも人間不信からか放浪を続け、乗船待ちの間リスボンでタクシー運転手をしている。彼のタクシーに若く美しい女性がスーツケースを持って乗ってきた。ピエールの下宿先の少年が彼女のガイド役になったことから二人は急速に親しくなる。女性はカトリーヌ。貧しい売り子だったカトリーヌが金持ちの英国貴族に見初められ結婚したが、夫は自動車事故で死亡。莫大な遺産は未亡人のカトリーヌのものに。しかし遺族達はその死に疑惑を持ち、警察に捜査を依頼。一人の警部がカトリーヌを追ってリスボンにまでやってくる。 カトリーヌのピエールに対する愛は本心か、打算から生まれたものか。 絶対と思える愛も、じつは相対的なものでしかないという不確かさ。 無垢な邪心の無い愛が果たして在るのかどうか…。 妻を殺した男と、夫殺しの容疑をかけられた女性がいつしか恋におちるというメロドラマ的ともいえる本作。二人の間にたつ警部を狂言回しに、言わぬが花のアンリ・ヴェルヌイユ監督の演出もなかなかに手堅く面白い。 警部を演じたトレヴァー・ハワードの曲者演技に対し、カトリーヌ役のフランソワーズ・アルヌールが曖昧。 カトリーヌの女心と役者としての演技の駆け引きが見え隠れすれば、もっと面白かったのに……。 ![]() 二人が通う小さな酒場で、歌姫アマリア・ロドリゲスが万感をこめて歌うた「暗い艀(はしけ)」。彼女の代表作だそうだ。 メロドラマといっても硬質なタッチの本作で、アマリア・ロドリゲスの歌が、愛に裏切られた男と、愛を演じ続けてきた女が港町で交わすドラマに哀愁の情感をもたらしている。 アマリア・ロドリゲスという方はポルトガルの歌手兼女優でファドの女王と呼ばれている。ファドはポルトガルの民族歌謡で、ファドは運命とか宿命を意味する言葉だそうで、心を歌とメロディに託したロマの音楽とも通じるものがあるのかしら。
11月末だというのに暖かな週末。
大阪府知事選と大阪市長選のダブル選挙日だった27日、日曜日。 京都・三条にある京都文化博物館で、12月11日まで開催されている「京の小袖展」に行ってきました。 文化博物館に入るなら、別館になっているレンガ造りの旧・日本銀行京都支店から入りたい。 ![]() 着物に興味があるというよりも意匠に興味あり。 着物の原型とも言われている小袖が、桃山時代から江戸時代にかけて一気に花開き、円熟。 呉服の老舗企業のコレクションが一堂に集められた今回の小袖展は、染め、刺繍、織りそれぞれに最高の技術の集結といってもいいほど。 織りと絵師と染と刺繍のそれぞれの職人が互いに刺激し合い、一つの芸術作品を創りあげていったといってもいいほど。 時代を経てもなおそんな息遣いさえ感じさせるほど。 桃山時代の小袖は、幻の染といわれている辻が花染めが多い。目を凝らしてみるとその凝った仕事にため息… 吉原の太夫の小袖などは、これぞ大人の粋! 古代紫一色で、肩だけに幾何学模様の刺繍 白金色の地に、刺繍で施した絵柄は襟だけ。肩から裾までこちらは大胆な幾何学模様。 偶々かもしれないけれど、花鳥風月をモチーフにした絵柄でないのもこの時の流行だったのか、はたまた彼女達なりの一線を画した意気なんだろうか。 重要文化財に指定されている、御所車を図案化した紅色の総絞りの小袖の、地の紅と絞りの白のなんとシンプルで、それでいてインパクトのあることか。 豪華絢爛でも本物だけが放つ品位と粋。 大胆で、繊細で、斬新で…時代を超えた揺るぎない美。 ………………………………………………………………………………………………………………… 時間を忘れ、時代の最高の技と贅をたっぷりと堪能した後は遅めのランチタイム。 日曜日の京都・寺町界隈は観光ガイドやグルメガイドをもった人たちの多いこと。 カウンターだけの安くて美味しい洋食屋さんのランチメニュは売り切れ。 野菜中心のおばんざいだから変な今風のレストランよりは無難だろうとおばんざいバイキングの「はせがわ」に入る。店の名は「万采はせがわ」。グルメ雑誌や旅行関係の雑誌に掲載されいたからか店の外は行列で次々と入ってくる。 野菜の炊いたんや酢の物や和え物がそれぞれ大鉢にもってあって、好きなだけ。薄味で、お値段も1050円だから繁華街でこの値段でこの味だったらお手頃でしょう。 やはり食後のコーヒーはゆっくり味わいたい。 三条寺町のスマートコーヒー店に入る。 コーヒーが素直に美味しくって、古い店で満席だけどなぜか寛げる雰囲気。 ここのフレンチトースト、と自家製プリン、それからホットケーキは名物メニューで、3時のおやつに生クリームたっぷりのケーキなんかよりずっといい。 一緒に行った友人と二人、私たちも別腹でフレンチトーストとプリンを半分こして幸せ気分。ランチの後になぜか食べれることが怖ろしい。 手前の小松屋さんでお土産に「きんつば」とこの店の名物「八方焼き」、それからニッキを聞かせた「お芋さん」を買い求め、これは夕食の後の甘いもんに。 京都にいけば、最後はやっぱり甘いもんで締めくくりとなる。 KNOCKIN' ON HEAVEN'S DOOR ドイツ発クライム(?)アクション(?)・ロード・ムービー。病院の検査で脳腫瘍と告知されたマーチン、骨髄腫の末期と宣告されたルディ。 粗野なマーチンと真面目なルディ。 水と油みたいな二人が偶然にも同じ病室になった。 互いに死を宣告されたと知るや、二人の間に奇妙な連帯感が生まれる。 「海を見た事が一度もないんだ」というルディ。 「天国じゃ皆、海の美しさを語り合うことがはやってるのさ。海を見た事がないお前は仲間はずれになっちまうな。」というマーチン。 「海」を見に行こうとマーチンはルディを連れだす。 パジャマ姿で病院を抜け出した二人。 幸運にも駐車場にはキーがついたままのベンツが停まっていた。 それに乗り込んで「海」をめざして突っ走る。 ところがその車はギャングのボスの愛車で、中には拳銃が… 銃で脅してガソリンスタンドで給油し、銀行強盗をして服を買い、おまけに車のトランクから大金の入ったカバンまで。 警察とギャングの両方から追いかけられながら、二人はひたすら海をめざす。 死ぬまでに何をしたい? 紙にリストアップする二人。 時折マーチンが痙攣の発作を起し、間近かに迫る死を実感させるものの、怖いもの知らずの能天気といおうか、最後の開き直りといおうか、二人だから怖いものなしになれるんだろう。 水と油のような性格の違う二人の間に深い友情が生まれているのが映像の隙間からにじみ出てくるところもいい。 ドイツ映画といえば堅物っぽく真面目な映画が多いけど、こんなロックな映画もあるんだ! ![]() 同室となった余命6ヶ月と宣告された初老の男性二人が、死ぬまでにしたいことを書き出した棺おけリストにチャレンジしていくアメリカ映画「最高の人生の見つけ方」(2007年)も、ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンの二人がいい味出していて良かったけど、本作はそれの若者バージョンといっていいかしら。私的には「海を見にいきたい」ということ以外は行き当りばったり的な本作が好きだなぁ。 老夫婦が切羽詰った末に銀行強盗をしながら逃避行をする「ボニー・アンド・クライド」の老人版ともいえるハンガリー映画「人生に乾杯!」にも通じる味があるのが本作かな。人生の最期に、死に方を自ら選び取った老夫婦。 生まれて初めて見る海に向って二人は歩いていく。 天国の扉は目の前。 二人なら怖くない。 ラストシーン。 二人と、そして茜色に染まりゆく空と、波が打ち寄せる海。 …海と夕陽がひとつに解け合う瞬間 心の中にロウソクのような火が残る… ゴダールの映画「気狂いピエロ」のラストシーンも重なる。 …見えた。なにが?永遠が… ![]() ギャングの大物カーチス役でカメオ出演したルトガー・ハウアーが粋な役をしている。ニューシネマ時代といわれた60年代後半から70年代にかけて多く作られた男二人、アウトローたちのロードムービー。「スケアクロウ」、「真夜中のカーボーイ」……どこかしら時代からはじき出され、あるいは取り残されアウトローにならざるをえない者たちの生きる悲哀と必死さがあったけど、本作はそんな感覚がすこんと突き抜けているような… 死ぬんなら楽しく死のうぜ…そんな無言の合言葉がマーチンとルディの間で育っていく。 ロックを生み出した世代から、ロックで育った世代の違いかしら。 オマージュともいえる映画シーンが散りばめられているのも嬉しくなってしまう。 マーチンを演じたティル・シュヴァイガー。 ちなみに私は未見だけど、邦画「ヘブンズ・ドア」(2009年)はこの映画のリメイクなんだそうだ。 ![]() THE CARS THAT ATE PARIS音楽: ブルース・スミートン この作品の後にのあの美しく幻想的ともいえる「ピクニックatハンギング・ロック」を撮ったとは。 本作がピーター・ウィアー監督の長編第一作。 オーストラリアの片田舎のとある村パリ。 この村ぐるみで、付近を通る車にわざと事故を起こさせ、部品や被害者の遺留品を奪って生計を立てているという、考えれば不気味な村。村人達の追いはぎにあった車は証拠隠滅で焼かれるか丘に打ち捨てられるか…村の丘はそんな車の墓場のよう。 全てを仕切っているのは村長。村長独裁の村といってもいいだろう。 しかしこれといった経済基盤をもたない小さな村で、これはこれで万事順調だったはずが…… 村の祭りの夜。 かつて駐車違反で車を焼かれた暴走族たちが、村を一斉襲撃しにやってきた。 ハリネズミのような車あり、サイケデリックにペインティングされた車あり、シャークティースを描いた車ありと、結構楽しんで撮ってるなって思う。 ブラックユーモアといおうかブラック・コメディといおうか、でも案外と真面目な作品 ![]() THE BURNING PLAIN「ウィンターズ・ボーン」で素晴らしい演技をみせたジェニファー・ローレンス。 彼女がヴェネチア国際映画祭で優秀な新人に授与されるマルチェロ・マストロヤンニ賞を受賞した本作を鑑賞。 監督は「アモーレス・ペロス」(1999) 、「21グラム」(2003)、「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」(2005)、「バベル」(2006)の脚本家で知られるギジェルモ・アリアガ。彼の監督デビュー作品。 アメリカ南部ニューメキシコ州の国境沿いの町で、トレーラーハウスの爆発事故で始まる。 中には二人の息子の父親であるメキシコ人男性とアメリカ人主婦の焼死体が見つかった。二人はこのトレーラーハウスで密会していた。ショックを受ける二つの家族。 ![]() メキシコで農薬散布のパイロットを仕事にする男とその娘。 家族に隠れて密かに夫以外の男性と愛しあっている4人の子供をもつ主婦ジーナ(キム・ベイシンガー)。ジーナの長女で母親の行動に不審を抱き、母の密会現場を目撃する長女マリアーヌ(ジェニファー・ローレンス)。 亡くなった父を理解したいと、父の不倫相手の娘マリアーヌに近づく男の息子サンティアゴ。 時間と場所が巧みに交錯し、ギジェルモ・アリアガが追求するテーマでもあるんだろう、今では彼のお得意ともいえる負の連鎖反応が登場人物たちを結びつけていく。 ![]() 「メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬」では国境というテーマが新鮮だったし、「アモーレス・ぺロス」では人間の性が生み出す負の連鎖によってがんじがらめになりながらも、そこから抜け出そうと抗う者たちを描き、その連鎖がとても新鮮な衝撃だったけど、「21グラム」「バベル」と続くと、物語に柔さ(”救い”とも取れるのだろうけれど…)も感じ取れて、少々辟易する。脚本がそうなのか、イニャリトゥ監督の演出なのかは分からないけれど。本作もそんな流れにある作品といえるかな…。 キム・ベイシンガーがとてもいい味を出しているなって思う。 ベイシンガーが演じる母の中の女、女としての悲しみの部分を17歳の少女マリアンヌには理解できなかった。 女の目で母親をじっとみつめるマリアンヌを演じるジェニファー・ローレンス。 燃え盛る炎に包まれるトレーラー・ハウスを前にローレンスがみせた演技が、その後の彼女の心に食い込んだ傷の深さをもうかがわせる。 ![]() PICNIC AT HANGING ROCKオーストラリア出身のピーター・ウィアー監督。 「危険な年」(1982年)、「刑事ジョンブック/目撃者」(1985年)、「モスキート・コースト」(1986年)、「今を生きる」(1989年)など、内容はさまざまだけど作風は一貫していてマイペースで映画を撮ってる方って印象を作品から受ける。 ちなみに私のお気に入りは「マスター・アンド・コマンダー」。 そのウィアー監督がオーストラリア時代に撮ったのが本作。 ジョアン・リンゼイの同名小説の映画化。 1900年2月14日のバレンタイン・デーに全寮制の名門女子学園の生徒たちが馬車でピクニックに出かけたハンギング・ロックで、3名の女生徒と一人の教師が忽然と姿を消し、必死の捜索にもかかわらず行方不明のままという、オーストラリアで実際に起きた事件。 岩肌がむき出しの荒野にあるハンギング・ロックで、柔らかで真っ白なワンピース姿の生徒達が思い思いに自由を楽しむ姿は、ギリシャ神話のニンフを思わせるような美しさと優雅さと、そして、どこかセクシャルな匂いさえ嗅ぎとれるほど。 ![]() その中でひときわ際立つ美しさをもつ女生徒ミランダ。 付き添いの女教師が思わず口にする。「ミランダはボッティチェリの天使だわ」と。 カメラはこのミランダにフォーカスし続ける。 ミランダに誘われるように、数名の女子生徒たちが岩山を登っていく。そしてミランダを先頭に少女たちは憑かれたように岩の裂け目へと入っていく……。 ミランダを演じたアン・ランバートはまさに美少女!彼女から目をそらすことができないほど。ピーター・グリーナウェイの「英国式庭園殺人事件」(1982年)にも出演。女生徒たちの謎を秘めた失踪事件と、その事件がもたらすもの。 子どもでもなく大人でもない、少女という年齢が醸し出すイノセントな不安定さと秘密めいたセクシャルを内包しながらも、ピーター・ウィアーはどこまでも幻想的な美しさで描きあげている。 オーストラリアという国は、1788年からアメリカに代わって流刑植民地としてイギリス人の移民が始まったという。初期移民団1030人のうち、736人が囚人でその他はほとんどが貧困層の人間であったという。1828年に全土がイギリスの植民地(1901年に独立)となり開拓が進められたという歴史がある。ハンギングロックに向う馬車に行儀よく躾けられた少女たちが腰掛け、開拓時代を思わせる町を通りすぎる時の異質さが、物語がもたらす不穏な不安を暗示させる。 物語は何も解決しないまま、セーラという寄宿生が自殺し、そして退学者が相次ぐ中で学園長夫人もまた岩山から転落死する。 少女たちの失踪を扱った作品だけど、サスペンスやミステリーでもなく、しかしさまざまに散りばめられた暗喩が不安や緊張を漂わせ、それでいて甘美ともいえる作品に仕上がっている。こういうところがピーター・ウィアー監督の作風だろう。 ![]() LA JETEE いやぁ、観終わった後のじわじわっと胸の奥から滲み出るような昂ぶり。 近未来。第3次大戦後の荒廃したパリを舞台に、時間と記憶と意識をテーマにした作品といえるでしょうか。 ただ一箇所、ベッドでまどろむ女がゆっくりと2,3度瞬きをするシーンをのぞき、全てのシーンがモノクロのスチール・ショットで構成され、物語はナレーションによって進められていく。 ストーリーもさることながら、沈黙のモノクロカット一つ一つが強烈な存在感を放ち、30分足らずのこの映像は観るものを釘付けにし、魅了する。 過去のそしてこれからの映画史の中でも本作は燦然と、かつ異質な存在として、そして映像が創り出すある一つの極みの世界として観るものを虜にし続けるんじゃないかしら。 作品とよぶよりも芸術。 こんな風にいうと大袈裟すぎるかしら。 「LA JETEE」はフランス語で「送迎台」という意味 アマゾンの本作商品紹介を引用すると…ゴダールもおおいにインスパイアされて「アルファビル」を撮ったんだろう。 監督・脚本の クリス・マルケル(1921~) アラン・レネの「夜と霧」(1955年)では助監督を務めていたという。 「ラ・ジュテ」 29分という短さ。しばらくは何度も見返してちょっと中毒になってしまいそう。 スクリーンで観たかった! WINTER'S BONE胸にひたひたと沁みこんでくるような、それでいて逞しい。こんな素晴らしく骨太な映画に出会うと、「最近公開の映画は…」とため息まじりでテンション下がりっぱなしだったのが、「やっぱり映画っていいなぁ」と感慨たっぷりになる。 今年見た映画のランキングをされているブロガーさんも多いけど、私は自分の映画観る目にあまり信頼置いてないから、ランキングはするほうではないけれど、この映画は私の中では今年一押し映画かも!物語の舞台は、アメリカ中西部ミズーリ州のオザーク高原にある、アメリカ社会から見捨てられたかのような貧しい寒村。 そこに暮らす17歳のリー・ドリーを通して、「生きていく」ということをリアルに描いた作品だろう。「生き抜いていく」といった方がより近いだろうか。 祖国での苛酷な環境から、祖国を捨て新天地アメリカに移住してきた人々。 自由の国アメリカ。それは裏返せば生きるも自由、死ぬも自由ということだろう。強いものは成り上がり、弱いものは蹴落とされ、時として踏み潰される。生きるということは闘いでもあるのだろう。 彼らに限らず、人類は大地と闘い、自然と闘い、獲物と闘い、そうして生きてきた。多重に豊かになりすぎた現代社会で私たちが忘れてしまっているだけで、「生きる」ということは本来そういうものなのだろう。 覚せい剤製造で逮捕されたリーの父親は、家や土地を保釈金の担保に出所したまま失踪。母親は心神喪失に陥り廃人同然。幼い弟と妹を抱え、生活の重みは17歳の少女リーの肩にのしかかる。 逆境に耐える姿が美化され、涙を誘う物語りだけど、リーは「おしん」じゃない。 生きる為に、乗越えるために立ち向かっていく。 リーが涙を見せるのは2回だけ。 失踪中の父親は裁判に出廷しなかった。父が勝手に保釈金の担保にしてしまった家と土地は没収される。「ママ。どうしたらいいの。今度だけは教えて。私を見て」 しかし母親は虚ろな眼でリーを見るだけ。 2回目は、涙は流れるけれど、口を大きくあけ嗚咽を封じ込め、挫けそうな自分を乗越えようとする。 リーを演じたジェニファー・ローレンス。 彼女のしっかりと前を見据えた目が、リー・ドリーそのものを力強く語り続けている。彼女の「生きる」意志が実感として観る者に響いてくる。 米アカデミー賞でも各部門で最多ノミネートされていた本作。作品賞は「英国王のスピーチ」に譲るとしても、主演女優賞は本作のジェニファー・ローレンスがオスカー演技だと思う! ![]() 映画評論家の町山智浩氏によると<「ヒルビリー」と呼ばれる、アメリカの貧困層を描いた作品>とある。パンフレットで町山氏は、ヒルビリーを<権威を憎み、法より血族の絆を重視する人々>と語っている。 耳慣れない言葉「ヒルビリー」を検索すると<カントリー・アンド・ウエスタンの初期のスタイル。1920~40年代のアメリカ合衆国南部山岳地帯の民俗音楽:三省堂提供「大辞林 第二版」より>とある。 ヒルビリーと呼ばれる音楽を生み出したのは、19世紀半ば以降、スコットランドから遅れてアメリカに移民してきた農民たち。彼らは肥沃な平地を購入できず、ゴールドラッシュに沸く西部を目指した者もいれば、故郷での境遇と同じ小作農にあまんじる者もいれば、自らの土地を求めアメリカ東部から中部にかけて広がる山間に入植した者もいる。山間に入植した者たちがヒルビリー<山(ヒル)に住むスコットランド人(ビリー)>と呼ばれるようになったそうだ。たぶんに蔑みの響きを持つ、無法者と同義語のように使われる言葉だろう。 超大国に成長していくアメリカ社会から隔絶し孤立していく彼らの慰めは故郷スコットランドから持って来た楽器を演奏し故郷の歌を歌うことだったのだろう。 山岳地帯に入植当時から歌い継がれている音楽をテーマにした「歌追い人」もヒルビリーを描いた作品だろう。「オペラ座の怪人」のエミー・ロッサムが素晴らしい歌声を披露している。冒頭で流れるのはミズーリ州の州歌「ミズーリ・ワルツ」。寂れたログハウスの風景と重なってか、ワルツというには哀愁を帯びたメロディ。 元はスコットランドで歌い継がれていた子守唄だったのだろう。作中での音楽も魅力的だ。 「ミズーリ」はインディアン・アルゴンキン語族の言葉で「泥の水(ミズーリ川のこと)」を意味するとのこと。この地に入植してきた者達の辛苦がうかがえる。 サンダンス映画祭でグランプリをはじめ各映画祭で高い評価をうけた本作。 監督はデブラ・グラニック。女性監督。 一昨年サンダンス映画祭でグランプリを受賞した「フローズン・リバー」も女性監督のジョナサン・レヴィン。カナダ国境沿いの最北端の町で暮らす女性の、貧困に喘ぎながらも生きる逞しさと、母性の強さ、優しさを描いた骨太作品。そして本作でも、アメリカの知られざる現実と、そして17歳のリーの逞しくも生き抜こうとする意思と姿がリアルに描かれている。 ![]() 知っていることは話さない。 寒村の地に入植当時から脈々と受け継がれ根づいているヒルビリーたちの血族の掟。掟破りの制裁も味わうリー。しかし、相手を見据えて「ドリー一族だから」と誇らしく応える。 生れ育った国を捨て、新大陸アメリカに夢を抱き移民してきたリーの祖先。祖国と変らぬほどの苛酷な環境の中でアメリカの大地に生き続けてきた彼らの血がリーにも受け継がれ流れているのだろう。 移民の国アメリカの、これが彼らの強さと逞しさでもあり、こんな作品が生み出される土壌でもあるのだろう。 ハリウッドでは、男たちが無節操にリメイクに走り、3Dだの、過剰なアクションだのに血眼になっているのを横目に、女たちは、社会の現実を見つめ、大地にしっかりと足をつけ生き抜いていこうとする人間を、誇りと優しさをもって描き出している。タイトル「WINTER'S BONE」 直訳すれば「冬の骨」。「BONE」という言葉は彼らの日常ではどんな意味合いを持って使われているんだろうと疑問に思っていたけれど、本作では、原作者ダニエル・ウッドレルによると犬に骨を与えるという程度の、「人を喜ばせるためのちょっとした贈り物」を意味するスラングだそうだ。 身を切られるほどの冬の寒さのような厳しい現実の中で、BONEがもたらす一握りの暖かさ。母性愛を感じさせるような優しさでもって静かに描きだされるラストシーン。 ![]()
台湾といっても台北市内。
台北を舞台にした楊徳昌(エドワード・ヤン)の映画のイメージが大きい。 観光目的の一つに、侯 孝賢(ホウ・シャオシェン)の映画の舞台となった台湾北部にある九份があるけれど、彼の作品は台湾でも田舎を舞台に若者たちを描いたものが多い。 ![]() ![]() 台湾で最も古いお寺の一つとされている龍山寺。 お供えの食べ物や花が溢れ、色彩豊かなのが日本とは違う風景。 線香の匂いが充満し、平日にも関わらずお参りに来ている人の多いこと。 ![]() 市民の足はミニバイク。 信号でも車の前にバイクの群れが停まる。車の横をビュンビュン走っている。二人乗りまでは許可されているそうで、週末はデートにいくのでしょう。女の子を乗っけた二人乗りバイクが目につく。 道路沿いにはバイクがずらり。台北市内では自転車は全く見なかった。 ![]() ![]() ![]() ガイドの方が言うには、一人っ子政策で、子供のお受験が盛んなのは台湾も同じ。子供の教育費のために両親共働き。子供たちは学校が終ったら屋台で食事して塾へ…なんだそうだ。 そういえば、喫茶店というのがほとんど見かけない。スターバックスなどのチェーン店が進出してきてるけれど、いわゆる喫茶店が少ない。まだまだ贅沢みたい。 ![]() 新年はあらたにということで、年末に近づくにつれ週末は結婚式ラッシュなんだそうだ。 宿泊先のホテルの前にこんなリボンをつけたタクシーが何台も。 ![]() ![]() 荘厳な圓山飯店。 この建物がみえると台北市。 今は一般の人も宿泊できるけど、かつては国賓級の人たちのみが利用したホテル。 概観は荘厳だけど、部屋の設備は老朽化しているんだそうだ。 九份が「千と千尋の神隠し」のモデルになった町と紹介されているけれど、千尋が働かされる湯屋はきっとこの圓山飯店がモデルじゃないかな。 ![]() ![]() ![]() 19世紀末に金の採掘が開始され、日本統治時代が最盛期だったといわれる山間にある九份の街並み。1971年に金鉱の閉山によって急速に衰退し、映画「悲情城市」のロケ地として脚光を浴び、国内や香港などからも観光客が訪れるんだそうだ。 ここに限らず、路地裏のような雰囲気ってどこかノスタルジックで魅かれる。 ただ、こんなブームもあとどれだけ続くんだろう。 何度か台湾を訪れている夫は、観光だったら”花蓮”が良いって。もう1泊だったら、高尾や花蓮も行けたんでしょうね。又の機会に。 ![]() 案内されたお茶屋さんは、セットになっていたお菓子もお茶も普通に美味しかった。飲み干せばテーブルの横の火鉢にかかった”やかん”から急須にお湯を入れ、一回の茶葉で何杯でも味を楽しめる。茶葉は2回分は十分に用意されていたので、喫茶店でコーヒー飲むよりゆっくり寛げた。 ![]() ![]() ![]() 1時間ごとに行われる衛兵交代式。 戦没した英霊を祀る祠で中華民国国防部の管轄下にある忠烈祠で海軍の、蒋介石の記念堂ともいえる中正紀念堂では空軍の交代式を見る。 スレンダーで長身の容姿端麗者を選りすぐったんでしょう。彼等の動きをより印象づけるためでしょうか、靴もタップシューズのようにカチカチと音がするもので、一時間ごとに行われるセレモニー。ミーハー的に写真撮りまくり。 衛兵交代は国父記念館もいれた三ヶ所で、陸・海・空軍が4ヶ月ごとに持ち場を替わるそうだ。 1年間の兵役任務の間で、こんな衛兵に任命されたら親もきっと鼻高々だろうね。 一人っ子で軟弱になってきている若者にとっては心身が鍛えられる機会でもあるでしょうね。 ![]() ![]() 行進に支障をきたさないように見物客を規制する人も現役の軍人。失礼だからお顔は撮ってないけれど、このキャップの方がきりっと引き締まったなかなかのイケメン。彼のキャップにはバッジがついているから彼がきっと責任者で階級も上なんでしょう。 故宮博物院 以前、中国で故宮博物院になっている北京の紫禁城に行ったけど、映画「ラストエンペラー」と重ね合わせ、ここが少年の溥儀が自転車で出ようとした門なんだなとか、溥儀がコオロギを隠した椅子がこれなどと、美術品よりもこんなことが面白かった。展示されていた美術品もなかなかのものだったけど、めぼしい主要な美術品は辛亥革命で蒋介石が台湾に持ち出したって聞いていたから展示品には興味がわく。3ヶ月に一度入れ替えするそうで、今回観たのは所蔵品の一部。翡翠や象牙の精細な彫刻はどれも素晴らしい。白菜にコオロギも見た見た。開催時期は未定だけれど日本での展示があるとのこと。 ![]() 夫と息子と私の3人で、きっと部屋は一つかしらって思っていたら、私だけ一人部屋! ゆったりした部屋にベッドはダブルサイズ。 オットマンに足を乗っけて、Tシャツ一枚どころか好き勝手な格好でリラックス。 でも家に帰っていつものベッドに潜り込むとホッとする心地良さ。 RABBIT HOLE 思わず泣いてしまう映画はあるけれど、あざとく泣かせる映画は嫌い。 本当に悲しみと絶望の淵にたつと、人は涙さえも出てこないものだろう。 でも涙を流すことで、凍りついた心が緩み、固く閉ざされた心の堰が開かれ、人はようやく悲しみそのものを素直に受けとめられるのだろう。 この映画のベッカのように。 悲しみはなくならないわ。 悲しみさえも、子供が残してくれたものとして愛しいと思う母の言葉。 母の言葉が、凍りついていたベッカの胸に沁みこんでいく。 最後のシーンも沁みこむような優しさがスクリーンを包み込む。 最愛の息子ダニーを自宅の前で交通事故で失ったベッカとハウィー。 喪失感は同じでも、前に進もうと互いに励ましあっても、悲しみに対する向き合い方が違う妻と夫。 僕が門を閉めなかったから。だから犬が飛び出してダニーが追いかけた… 私がそのまま家に入ってしまったから… 自分を責め、心のどこかで相手を責め続けているのだろう。 立ち直ろうともがけばもがくほど袋小路に自分を追い詰め、慰めようとする母や妹の言葉、夫に対して刺々しくなるベッカ。 薬物中毒で亡くなったベッカの兄。 ベッカの母もまたかつて、ベッカと同じように息子を失った悲しみを味わっている。 娘の悲しみを癒そうと、自分の味わった思いを話す母に、薬物中毒で死んだ兄の死とダニーの死を一緒にする母に怒りをぶつける。 そんなベッカは事故を起した少年を偶然見かける。 少年の後を追い、いつしかベッカは少年と公園であって話すようになる。 少年もまた自分を責め続けていた。 ベッカを演じたニコール・キッドマン。 本作の彼女の柔らか味のある自然な表情がいい。 今までは陶器の人形のような表情(注射してたから?)で人間味に欠けるところがあって、どうかするとその演技にオーバーさを感じる時もあったけど、本作の彼女はいい。 夫ハウィーを演じたアーロン・エッカート。 「エリン・ブロコビッチ」(2000年)あたりではキャラクターからちょっと浮いた感じがあって、目鼻立ちのはっきりした顔なのに印象が今ひとつ薄かったけど、「抱擁」の彼も良かったし、「カンバセーションズ」(2006年)、「サンキュー・スモーキング」(2006年)あたりから役柄としっくり馴染み始めてきたように思う。中年以降からぐっと味がでてくる人かしら。 2時間以上が当たり前になってきている最近の映画にあって96分という長さ。 監督は、自身も弟を亡くすという辛い経験を味わったジョン・キャメロン・ミッチェル。「ショートバス」ではここまで描く必要があるの?と思う描写もあったけど、本作では、かつての自分と重ね合わせるように、静かな眼差しでベッカとハウィーをみつめ、余分なもの、過剰な演出は削ぎ落とし、喪失と再生のドラマを静かなタッチで丁寧に描いた本作。 久しぶりに「いい映画」っていう思いを抱いて劇場を出た。 「ドア・イン・ザ・フロア」(2004年/監督:トッド・ウィリアムズ/原作:ジョン・アーヴィック)、それから「こわれゆく世界の中で」(2006年/監督:アンソニー・ミンゲラ)。
2泊3日で台湾へ。
長きにわたる単身赴任生活から我が家へご帰還された夫。 息子も私も夫も、どっかちょっとずつ気遣いあってがチラチラ見えるのもおかしい。 家族の絆を深めようと思ってか思わないでか「一週間ぐらい海外旅行しようか? 休みとれるやろ?」 夫の言葉に、私と息子は思わず絶句して見合った。 とられへん。無理。無理。ということで金・土・日の2泊3日に落ち着いた。 そういう夫こそ週の半分は出張で1週間は無理でしょう。 近場でシンガポールかベトナムに行きたいところだけどフライト時間を考えたら台湾か韓国。 韓国は旅先で日本人は見たくないから初めからパスだし、料理が美味しいのは韓国より台湾でしょう。 2011年11月11日午前11時出発とは!台湾は、映画「悲情城市(A City of Sadness)」(1989年/監督:侯孝賢)を見てから、とりわけ九份には一度行きたかったところ。 ![]() 金城武くんも普段は台湾(台北)に住んでいるんだよね。息子は美味しい中国茶を買いたいらしい。 夫は仕事の関係で何度か台湾に行っているみたいで、別にどこといって興味なし。 普段の延長のような3人の旅行。 台湾(といってもほとんど台北)の空気をのんびりと感じ、茶芸館でゆっくりし、美味しい料理を楽しみたい。
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